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人生の意味

 今日学校行かんとこ。そう決心したのは大学の正門前である。それは春から夏に切り替わる時期でいきなり気温が上がった事も関係しているのかもしれない。もしかしたら。私は学校に背を向けて歩き出したとたん鼻からツーッと何かが流れ出てきた。その何かがポタッと着ていた白いTシャツに落ちた。下を向いてTシャツを見ると白かったはずの部分が赤く染まっていた。鼻血なんて久しぶりだった。これは神様が学校に行くなと言っている。そう感じた。授業に行かないにしても一度学校に入ってトイレで血を洗い流す事はできた。だがそれはしたくなかった。もう学校に行かないと決めたのだから。
 さてどうしよう。血が止まらない。僕は学校の裏山に入った。そこはハイキングコースでもあるためかなり綺麗に整備されている。もしかしたらトイレの一つくらいあるのではないかと思った。
案の定トイレはあった。それも思っていたよりずっと立派なものだった。木でできた外装の小屋の中には女子トイレに男子トイレ、多目的トイレまであった。それに学校から歩いて5分くらいの場所だった。少し驚きつつも血を止めるために多目的トイレに入った。中もかなり綺麗だった。自動で水が出る水道で鼻や手を洗い流しトイレットペーパーで鼻に栓をした。
 周りを見渡すと、ここはかなりいい感じだった。木造で大きな休憩所もあった。中に入ろうと両開きの扉を押しても引いても開かない。窓に貼ってあった張り紙を見ると、そこには”関係者専用休憩所”と書かれてあった。そんな休憩所に何の需要があるのかと少し苛立つ気持ちを抑え、近くにあった木造の机の上に寝転んだ。あえて椅子ではなく机にした。

 私は心を絡め取られた。程よい風に。揺れる葉に。優雅に飛ぶ蝶に。
 そこに時間はなかった。ずーっとこうしていたい。そう思えるほど心地よかった。蝿が顔の周りを飛び回るが、それはまるで自分の存在を認めてくれているようで嬉しくも思えた。「グゥー」お腹が鳴る音さえも愛おしい。この世はなんて美しいのだ。まともに空を見るなんてどれくらいぶりだろうか。いや、もう考える事はやめよう。偉大な宇宙の中に地球はあって、その青い空の下に森がある。その森の中には一本の木があって、木の下に私がいる。それだけでいいではないか。それ以外に何を求めよう。
 人間は強欲になりすぎているように思う。求めれば対極のものを失う。それが真理である。それなのに求める。実際そうではないだろうか。特に金と時間は人間を大きく惑わせる。最近の人間は金を物差しにして生きている。多く持っていれば裕福である。だからお金持ちになるために働く。
そして、時間すらもお金に変えてしまう。"Time is money."そんな言葉を聞く事もあるだろう。この言葉に感銘を受けて教訓のようにしている者もいる。なんの教えになるのかと私は問う。時間もお金も本来は存在しないものだろう。別に論破したいわけでもないし、屁理屈でもない。動物は時計を見て行動しないしお金で食糧を買ったりしない事が物語っているだろう。人間だけのルールなのだ。決して地球のルールではないという事を理解して頂きたい。
 私が何を言いたいかというと、それは人生は無意味であり価値がないものである。という事だ。  人を生きていると多くの煩悩に出会うだろう。先ほども言った金とか時間などである。その煩悩に惑わされなかった者が裕福になるのだ。裕福とはお金持ちになる事ではない。
 煩悩に惑わされないためにはまず人生に意味が無い事を受け入れる必要がある。私はたまに神様に苛立ってしまう。なんで私は生きたいと思ってこの世に生まれたわけじゃないのに時には辛い思いをし、目的を持ち、それに挫折し、そこまでして生きなければならないのだ。と
 だが私は間違っていた事に気付く。なんでなんて言われて神様も困ったと思う。なぜなら、私がこの世に生まれてきた事になんて意味があるわけないのだから。神様も一人一人の人間に意味を与えるほど暇じゃないだろう。この世には意味のない事だってある。いや、意味を持たない事がほとんどである。人間は愚かだから、弱いから全ての事に意味が無いと思うと怖くなる。
 ただ、人生や全ての行動に意味を持たせてしまってしんどくなっている人間が多いのが事実だ。そんな人間達に伝えたい。

 要らないものは捨てなさい。本当に大切なものだけに意味を持たせればいい。
 きっとなんとかなります。

その根拠はある。だって人生なんてどうにでもなっていいものであるはずだから。
 そしてたまに意味のない事をしてほしい。私が森の中の机で寝そべって人生を考えるように。

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