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言葉の定義③


こんにちは
(なんだかんだこれが一番しっくりくる)

自分だけの出だしの挨拶が欲しいとこです
なんか考えておくとします。

最近は梅雨がいつ来るのかはたまた来ないのか(それはなさそうだが)を毎朝天気予報と睨めっこ状態。
雨が降るってどういうイメージありますか?やっぱり基本的には晴れの方がいいとは思うんですよね。ぼくは世間一般的にはアウトドア派に部類されるほうだと思っているので。
でも雨も好きです。

休日とかに雨だと「あー外出れなそうだし家で過ごすか。残念。」と言いつつアコースティックな曲とコーヒーと共に本を読んだり映画みたり……あのなんとも言えない嬉しさのある残念さ。?笑 気持ちのよい諦めがつくんですよね。

とくに夏とか晴ればかりだとたまに降る雨で草木はとても嬉しそうにしてる。そんな気もしていろいろリセットされます。

でも雨ばかりの梅雨は……
人間ってのは欲張りな生き物だとつくづく思います。

さて、今回は少しディープな内容で。


「ニガー」

この言葉を聞いて心意気が良くなる人はいないと思います。

にがー(苦ー)でもなく朝鮮語の「ニガ」でもなく、この言葉は

「黒人を蔑称する呼び方」です。

今、アメリカで起こっていること。知らない人はいないと思います。コロナウイルスの問題ではありません。

「I can’t breathe 」

アメリカで白人警察官が黒人男性の首を押さえ続けて窒息死した事件。それに対して国民の警察への怒りが広がり大規模な抗議デモが起こっています。

黒人コミュニティの最大の不満は、警察が黒人に対して人種差別的で、偏見の塊で、冷酷であると感じていること。

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「ニガー」

正直、ぼくはこの言葉は発したくも語ることもしたくないと思っています。

けど今回この言葉の定義を、ぼくの思う定義を赤裸々に綴りたいと思います。

実はぼくはキリスト教の小学校に通っていたこともあり、戦争・平和・差別・死・命・神……などいろいろなことを小学生のうちに学びました。ぼく自身は信仰教はないので、そういった意味で客観的にこの言葉に対しての定義を語れると思います。

そもそも、差別はいけない。
と言う人が多いなと見聞き受けられるんですが、なぜいけないのか?なぜ差別が起こるのか?を知る必要があると思います。

知るというのは、つまりは「歴史」
黒人差別の歴史を知らずしてなかなかこの問題とは向き合うことは難しいかと。


ここで歴史について多くは書きませんので是非Googleで調べてみてください。今この時代だからこそ、この歴史に関して誤った情報は少ないと思います。


今回はぼくが今起こっている事件や今までの文化や歴史を受けて感じたことが一つ強くありますのでそれをぼく自身の「定義」として語りたいと思います。

「黒人を差別してはいけない」

ぼくはこの言葉にとても違和感を感じます。
もちろん、差別をしていいって言いたいのか!というとそんなわけありません。

この伝え方に問題があると思います。
先ほども言ったようにぼくはキリスト教の小学校で学んでいたので小さい頃からこの言葉はよく聞かされていましたし、強く教えられてきました。それがいけなかったのだと思います。

無論、人種差別に関する歴史や現状を学び意見を持つことはとても大切です。なにしろ歴史は絶対に変えられないのですから。
差別ももちろん良くありません。

しかし、「黒人を差別してはいけない」と言われると「あ、黒人は差別しちゃいけないんだ」というマインドにさせられます。
そして黒人を見かけた時、多少なりとも過るのが「差別はだめだ。」という負の感情。
なんだか、その時点で「差別」だと思ってしまうのです。

「差別をしてはいけない」という言葉による差別。

これまた自分で言っておいて難しいです。
もっと人種や文化に対しての伝え方が変わっていかないと、どれだけ多くの人で声を挙げようとなかなか変わっていくことではないと思います。
おそらく何十年もかかるでしょう。

昔は黒人に対してこういうことがあったんだよ
だから黒人は差別してはいけないんだよ。

ではなく、

世界にはいろんな人種の人がいていろんな文化や思想があってそれが集まっているのが地球という星を支えているんだよ。と
綺麗な言葉を並べたようにも思えますが、本質はこういうところにあると思うんですよね。

伝え方はいろいろですが少しずつこの負のマインドをずらしていかないといけないはずです。 


われわれは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。それは、アメリカの夢に深く根ざした夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。


https://youtu.be/_9iATuA6JTE

ぼくは小学生ながら、キング牧師のこのスピーチに感動しました。そしてそんな世界になってほしいと。
そしてその25年後のキング牧師の妻 コレッタ・スコット・キングによるワシントン大行進の周年を記念する大集会の際の言葉

**われわれには、依然として人種主義と差別の癌から国民を解放すべき夢がある。すべての人が愛と配慮につつまれて、兄弟姉妹として平等に暮らす夢がある。

そしてそこから32年経った今日、変わったでしょうか?夢は叶ったでしょうか?

変わってないことはないです。が、まだまだ変わりきれてない。

人によって施されたのならば人によってまた変えないといけないし、それができるのも人。

だんだんと伝える側になっていくぼく自身ももっと学ばなくてはいけません。大切です。

自分が生きづらい。そう思った時に大きく声を挙げれるようにならないと。
大切な家族、友達、彼女が生きづらそうなら声を挙げれるようにならないと。

そう思えれば政治への関心は深くしていかないといけない。
政治は好きでもなんでもないが、自分の思いを代弁してくれる人を自ら選んであげないといけないと。そう思うのです。

先人が命をかけて手にしてくれた参政権。ぼくは大事にしたいと思います。



少し今までのテーマとはかけ離れた内容にはなりましたがこういう考えるキッカケになるのもたまにはいいかなと思いました。

あくまでもぼくの「定義」として綴った意見です。
各々自分の意見を持つことが大事だと思います。

なんかこんなことを書くといろんな意味でずっしりと重みを感じます。
次回は得意なゆるい感じでやるとしますか…


では。

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