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短編小説|ガチャガチャ・下

「よっ、おつかれさま」
「…………」

  夜8時、最寄り駅の改札内で待っていた。疲労を顔に滲ませたお前は相変わらず俺を完全に無視して、改札に定期を押し付けて行く。
「ちぇっ、返事も何もなしかよ」
 冷たい缶コーヒーでも買って、頬に押し当ててやれば少しは面白い反応をしてくれるのだろうか。硬い表情のお前の歩速に合わせて進む。こいつ、靴の爪先を見つめたままのくせに歩くのは妙に早いんだよな。
「…………っと!」
 このまま帰宅するのかと思いきや、唐突に立ち止まるから驚いた。
  駅内の小さな書店の前だった。視線を追うと、白く分厚い雑誌が店外のワゴンに大量に平積みにされている。「文藝春秋」の最新号だった。ワゴンに吊り下げられたポスターに「芥川賞 受賞作2作全文掲載」の文字、受賞者二人の本職、そして赤と緑の鮮烈な色味が恐らくお前を引き止めたのだと見えた。
「……何気に、今まで自分で買ったことないや」
 お前は数秒立ち止まった後小声でそう呟いて、一冊手に取り、店内へと入っていった。俺は入口からちらちらとレジの様子を伺う。ものの数分でお前は戻ってきた。右手の青いビニール袋を、少し嬉しそうに握りしめて。


 玄関をくぐり、手洗いうがいもそこそこに、お前は先程の雑誌を開いた。受賞作品の掲載部分を突き止めて、真剣な表情で読み出す。俺は部屋の少し離れた所で、密かに胸を高鳴らせながらお前の様子を窺っていた。しかし、1ページも読みきらないうちにお前は雑誌を閉じて天井を仰いだ。
「……………あーー」
   小さくあけた口から、呻くような母音が漏れている。
「…………随分と、詩的な文章」
   瞼を閉じて、苦さの滲んだ声でゆっくりと呟いた。顔全体を歪めて、手にしていた雑誌は本棚に無造作に挿す。そうしてベッドに腰を下ろし、無言のまま膝の上で組んだ自分の手を見つめ出した。俺には訳が分からない。
  少しして、お前はスマホを開くとTwitterにアクセスし何やら書き込みを始めた。正直助け舟だと思った。罪悪感を覚えつつも、ちらりとスマホの画面を盗み見る。基本無口で口下手なお前が文面上では心の内を吐露することを知っているから。

【生活は、ガチャガチャしていて、嫌いだ。】
【生活は、少なくとも僕が生活のために動く世界は、随分とガチャガチャしている。】
【これ以上上手く表せない。「ガチャガチャ」が一番しっくりくる。利害や思惑、金銭や地位、都会、表面的な人間関係、煩わしくて雑然としていて、生きるのに必要でなければ本当は離れたいもの全て】

「……はぁ、だからお前には企業勤めは向かないって言ってるだろ」
  お前の背後で、俺は固い声で言う。
【……でも、生きるには生活とお金が必要で。お金を得るには働くしかなくて】
「お前が好きな、文章とかイラスト制作とかでさ、賞取る超一流レベルじゃなくても、何とか食っていくことはできるんじゃねえの?  やりたくないことやってると滅茶苦茶に自己肯定感削られて、情報量の多さで思考がやられて自分見失うのがお前だろ」
【それに生活も。最低限衣食住を整えないと生命体として暮らしていけないし】
「……それは俺が支えるって何度も言ってんだろうが!!」

 叫んでいて、あぁ虚しいと思った。俺の提案をこいつは絶対に呑んでくれないし、呑めない。
  1週間分溜まった洗濯物に、汚れた食器とグラスの詰め込まれたシンク。押し出されるように物干し竿から外された服はベッドの上に投げ出されたまま3日が経過しているし、エアコンを点ければ床中の埃が部屋に舞う。精神状態が如実に反映されるからお前はその点わかりやすい。そして、お前が勤め始めてから部屋は常にこんな惨状だ。

【だから、やっぱ当分は今の会社で働き続けなきゃいけない訳で。でも非正規だから数年後には絶対別の仕事先を見つけないといけない。技術も大して身についていない。これから身につくとも思えない。どうしたらいいんだろう、誰か助け】

  打ち込んでいた指が唐突に止まると、お前は×のキーを長押しし始めた。
「…………どうせ、誰にも伝わらない。悪いのは僕だし。どう助けてほしいのかも、分からない」
  埃に噎せながらお前はそう吐き捨てた。書きかけのツイートを全消去し更地に戻した後、先程のツイートにも次々と消去をかけていく。俺はその親指を止めることができない。結局、一番始めの一文だけがぽつんと残された。
【生活は、ガチャガチャしていて、嫌いだ。】

  お前はスマホを投げ出して、ベッドに身を沈ませ、じっと天井を見つめていた。俺はお前の顔を覗き込んだ。少し茶色がかった瞳はもう何物も映してはいなかった。帰り道では僅かに見つけられた煌めきも、今では幻のように思える。
「……お前は知らないだろうけど、お前とお前の文章が、俺は結構好きなんだよ」

   きっとどれだけ伝わってくれと願ったとして、伝わることはないのだろう。 ほら、今日だって、お前の頭に置こうとした手が透けた。

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