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音楽って、どこから来てどこへ行く?

楽譜を書くことと、小説を書くこと

クラシックの楽器を習うと、まずは楽譜の読み方を学ぶことになる。拍、音程、調。楽譜を読むのは難しいというよりも、ただのルールなので、理解ができればただそれだけのこととなる。言語における文法なので、それがインプットにもアウトプットにも自由に使えれば、それだけ音楽活動がスムースになる。

小説を読む能力にも似ていて、読解力(読譜力)が高くなると、楽譜を読みながらハーモニーを感じたり、旋律をすぐに歌ったりできるようになる。自然なクライマックスを感じたり、遊び心を感じて楽しんだりすることができる。

小説の書き方について村上春樹さんはいろいろと書いてくれているので、興味深い。彼の頭には「書いてみたい」と思う小さな情景がたくさんのちいさなひきだしのなかにしまってあるそうだ。それを広げたり繋げたりしながら、物語を紡いでいく。全体像を思い描くことはなく、物語自体が成長していく力に任せるという表現をしていたと思う。

作曲家はどうかわからないが、種のようなモチーフを、広げたり反転させたり、転調させたり、いろんな形で散りばめて楽曲の中に仕込んで大柄な作品に仕立てていくようなイメージがある。きっと楽譜を書きながら音を想像し、わくわくしたのではないだろうか。

ただ、最終的な作品は「楽譜」ではなく「音楽」だ。そういう意味で言えば「本」は作品だけど、読まれなければ意味がないというところに似ている。本は、それが読者によって読まれた時初めて心の中に何かが生まれて、著者と読者の反応が作品を通して生まれる。楽譜が、演奏者によって音楽として息を吹き込まれ、その演奏が聴衆の心に何かを届ける時、それは音楽としての作品になる。

音楽という芸術を演奏すること

今、クラシックギターの発表会が間近に控えていて、二曲を暗譜で演奏する予定だ。
暗譜して弾く練習をしていると、改めて音楽ってなんだろうと考えてしまう。

音楽は、楽譜に書いてあるように左から右に、上から下に進んでいくものではない。それは生まれては消えて行く「音」だ。

それは、たとえば会話のようである。だんだんと意図が明らかになっていく。山があり谷があり、緩急があり、間がある。遊びがあり、真剣さがある。始まりがあり、終わりがある。

あるいは、ドライブしている時に景色が過ぎていくようでもある。過ぎていく景色は戻らない。少しは記憶しているけれど、どんどん目の前にある光景は過去へと過ぎていき、そして絶えず新しい景色が現れてくる。気持ちは刻々と変わる。

良く知っている歌を歌う時、あなたは何を考えているだろう。地図のように、歌の全体像を考えている?物語のように、展開を考えている?思い出話を語るように、感情や体験を思い出している?決して、覚えているものを淡々と機械のようには歌わないはずだ。

僕がギターで演奏するのは、一曲3~4分の短い曲。でも、ただ音をなぞるだけならば、棒読みの朗読と同じだ。決まりきったことを綺麗になぞるのではない。いや、なぞる側面もあるのだけれど、演技をする人が時に本当に涙したり、本当に恋をしたりするように、演奏しながら音楽を体験したい。

伝えたいことはたくさんではなく、大きな塊の中に一つか二つを持っておくといい。そして、それを伝えるためには、こんな感じで始まって、こんな感じで極まって、こんな感じで終わっていくだろうという目論見のようなものを持っておく。あとは、生まれていく音に自分も耳を澄ませながら、心と身体の動く先を探しながら、進んで行けばいいのではないだろうか。

楽譜を忘れ、身体も忘れ、ただ音だけに耳を澄まして、そこにふさわしい音をもたらすために体が自然に動く…というようなことを想像していると、神秘的な活動がそこにある気がする。

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