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SNS依存はもうこりごり

たくさん自由があったので、まんまとSNSに時間とやる気を搾取されました

僕の仕事は有り難いことにかなり自由が与えられている。決まった期間で決まった仕事を果たしていけば基本的には問題ない。創造性が求められる部分もあるけれど、売り上げが悪いとクビになるということはなく、ともかく誠実に働いていれば前に進んで行く。信頼を勝ち取れば、少しずつではあるが仕事も増えていく。

そういうわけで、自由に使える時間の中で、自由に働き方が選べる。だからSNSにハマるととんでもないことになる。いや、なってしまった。

こういうものに時間を浪費してしまうことを「時間を溶かす」と言うらしい。まさにどんどん時間が溶けていった。そして、後には何も生み出さず、何にもつながらない、空しい気持ちだけが残った。

SNSに人を駆り立てているのは、誰かに見られていたいという願いだ。これは卑しい欲求ではなく、とても人間的で自然なものだと思う。赤ん坊の時から、人は泣いて親の関心を惹こうとする。成長すると、より複雑なやり方で「私のことを見て」とアピールするようになる。そういうことだ。
どんなに孤独を愛する人であったとしても、何かの形で人と繋がり、人に理解され、見てもらっていると感じなくては、生きていけないのだ。
人に見てもらい、知ってもらい、理解され、心地よい距離感で関係を保てる時、確かに僕の心は満たされる。

しかし、SNSはその感情を搾り取るようなシステムだと思った。人生のあらゆる部分を使って、人の関心を惹きつけるための商品にさせる。子どもから大人まで。しばしば「こんなところに、こんな形でさらしてしまって…虚しいだろうに」とお節介にも思ってしまう大変デリケートな投稿を見て、胸が痛んだ。もっと違う形で、この感情と出来事と言葉を受け留めてもらえる場所があればよかったのに、と。(そんなものは簡単に作れないのだけど)

生身の人間と言葉を交わし、時間を過ごし、トラブルも乗り越えながら信頼関係を築いていく。そういうものに勝るものはない。もちろん、現実の難しさもあるし、だからこそSNSの気軽さもあるのだけれど、それでもSNSは現実の信頼関係の代わりにはならない。

noteの好きなところ

このnoteの良いところは、文字を通して自分を表現するというある種の「面倒くささ」を通過する必要があるところだと思う。割とまとまった内容のある長めの文章だから、書くのにも時間がかかるし、読むのにも時間がかかる。分かりやすければいいというのでもなく、明るく美しい文章が必ずしも魅力的とはならない。僕の場合は、その言葉が頭ではなく心から紡がれた文章であるととても惹かれる。

ただし、惹かれたところでそこから他につながっていくことは求めていない。つなげようとする人もいるかもしれないけど、それは僕には手間すぎるので、つなげる気にならない。そこが良い。
ツイッターもインスタグラムも、もう本当にこりごりだ。楽しさ以上に空しさと消耗感が強すぎるのだ。

noteでは、ただ「自分の、秘めたる恥ずかしい部分を赤裸々に書いていきたい」というその気持ちだけを信頼している。そういう気持ちを感じる文章にひりひりと惹かれる。僕に文章を書かせているのも、ただそういうものを書きたいという気持ちだけだ。
この気持ちがなくなれば、書かなくなる。書く必要がなくなると思う。

それと、露悪的なものが好きなわけではない。真実なものが醜い場合にはそれが醜くてもいいけれど、醜い自分をさらけ出すことに酔っている文章には惹かれない。それは趣味の悪いことだ。

そして、何よりも好きなのは、あまり「これを書いている私のことを、読者はどう思っているだろうか」ということが気にならないところだ。これが一番いい。多分、こんな長い文章を読んでわざわざ丁寧に批判コメントを打つというのは、相当暇な人じゃない限りやらないと思うし、実際には暇だったとしてもやらないと思う。それくらい、長さのある文章って、人を選別してくれるんだと思う。

だから、読んでくれた人がいたら、ここまで読んでくださって本当にありがとう。それで何になるというわけでもないけれど、なんか嬉しいです。

今のところ、noteの割と遠い距離感が、とっても心地よくて自由だな~と気持ちよく泳いでいます。

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