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「しかく」がこわい、私たち。

「しかく」
言葉はほんとうにいろいろと意味を持っている。ただ「漢字」に表すのと「ひらがな」のままで表すのだと、伝わり方がどうにも違うらしい。

「しかく」と聞いて思い浮かべるのはなにか。
四角、視覚、資格、死角、刺客…もちろん「お」や「ご」はつけられない。「しかく」は「えん」とは違うのである。

しかし、この「しかく」も、あれこれ考えるとはまってしまう。

・「資格」に対するプレッシャー

私は現在進行形で、司書の資格と学芸員の資格を取るために勉強している。上の記事で「もう少しかかりそうである」と書いたのは、授業料の値上げが宣告されたからである。
お金がないのならば休学申請をすればよいと考える人もいることであろう。ただ、私はぱーとちゃんである。正規雇用ではなく、時給暮らしのぱーとちゃんである。
晴れて大学を卒業し、資格も取れたら転職をと考えているが、そのころに学校司書の枠は残っていない可能性のほうが高い。2014年の学校図書館法改正に伴い「学校司書」の配置が努力義務になったからであるが、自治体によっては1人で何校も掛け持ちしているという話もある。であれば公共図書館を狙って、とも考えるのであるが、こちらも同様である。
…が、図書館を勉強するようになってから指定管理者制度というものを知る。簡単に書くと「自治体が運営管理をおこなうのではなく、自治体が審査した民間企業や法人などが運営管理をする」というもので、そこの所属なので自治体職員ではない、ということになる。しかし「図書館で働く人」=図書館員である。
ただ、資格を取得するということは「その道の勉強をした証」だと思っている。にわかで語るようなものではない本物の技術。免許状のほうが聞こえはいいが、図書館司書は立派な「国家資格」である。

たとえばパン屋さん。お店に立てばアルバイトだろうがマネージャーだろうが店長だろうが「店の人」と見られるのと同じなのである。「どのパンがおいしいですか?」と聞かれて「わかりません」は通用しないということ。わからなければ逃げればいい、というわけにもいかない。カウンターに立てば、立場は違っても「図書館員」である。ここに資格の有無は関係ない。
資格は「専門的な知識を勉強してきたという【証明】」に近いものがある。だからといって有資格者が威張るような世界にだけはなってほしくない。

「えん」をつくるために図書館でボランティアでもやるか、と考えたこともある。地元図書館のホームページに「個人ボランティア募集中」とあったので、アンケートの質問紙を回収するついでに聞いてこようと思った。有資格者になる予定なのですが、と話をする前に「大学で図書館事情のレポートを書かなければならないので」と挨拶文を書いてしまっていた。そんなことがなければ図書館にアンケートなどお願いしない。「資格」取得に必要だからなのと、個人的に「図書館」という施設そのものに興味を持ったからである。

・「しかく」の中に潜むのは?

TwitterやFacebookなどの情報を映してくれるのは「しかく」い板(スマートフォン)である。真四角(正方形)ではなくて長方形である。スクエア形のスマートフォンなど聞いたことがない。あるならば見てみたい。
スクエアといえばスクウェアソフトを思い出す。社名をとうの昔に「スクウェア」から「スクウェア・エニックス」にしてから少し遠ざかっていた。だからどうしたという話であるが「スクウェア」の社名が入ったゲームは「チョコボの不思議なダンジョン」と「聖剣伝説LEGEND OF MANA」ばかりやっていた。しかも「スクウェア・エニックス」になってから約5年も経ったころである。なんとも遅い出発であった。
企業の経営が危うくなって合併という話はよく聞くが、当時は特に気にもしなかった。今では版権の問題や譲渡はどうなるのかなど、新しい作品が出るたびにもやっとする人も多いのではないかと考えたり、また出してくれないかななどと考えたりもする。それこそ今はなき「コンパイル」がそうであり、コンパイル時代の「ぷよぷよ」に出ていたキャラクターの半数は、出演どころか名前すら出してもらえていない。

企業の中に「しかく」がいたから、というわけではないが(ざっと調べてみたがそんなことはなさそうであった)、よりよい方向を夢見た結果、当時のキャラクターが日の目を見られないというのは、どうにも悲しい。

・「四角」の中でできた「えん」を断ち切ったこともある

「えん」の中でも書いたがTwitterはそういうことやものが多すぎる。Facebookは近い距離で投げつけてくるので論外である。つながりを持とうとすると「しかく」から覗き見する人がいて、などと書くと物騒に聞こえるが、私はそんな気がしてやまない。特にTwitterはそうとしか思えない日が何日も続いたことがあった。だからTwitterはやめておけばよかったのに、と後悔しても遅い。
言葉(ツイート)を削除したところで問題はなにも解決しない。「下書き供養」としてタイムラインにそれを投稿しても誰も喜ばない、と私は思った。
笑い話ですまされないこともあった。何年前かは忘れたが「スクウェア」が「スクウェア・エニックス」になってから10年は経っていたと思う。名前とアイコンこそモザイク処理されていたが、文章そのままのスクリーンショットが「供養」として投稿されていた。
私は逆に「ほんとうにそういうことをする人がいるんだ、へえ」と見なかったふりをして相手にしないことにしていたが、なんでなにも反応しないんだ的なことを書かれたような気がするが、今でも意味がわからない。
逆に私がやってしまったこともあった。謝罪してそのツイートは削除したが、あのとき感じたことを相手にも与えてしまっていたと感じた。固定ツイートに「いいね」したという謎の通知が来たので訝しんでいたところであった。

それから数年後、今度は私が標的ではなかったものの、SNSトラブルになりかねないようなものまで目撃。「しかく」の中で起きたことがいつまで経っても収まらないのはなぜだと逆に興味を抱くようになってしまった。

・「しかく」の中にある「えん」は、白黒つけがたい

川の中に落ちた岩があったとする。この岩は流れによって下流まで流されずに水底で踏ん張り続けるものがある。軽いものは底に沈むこともない。
長年、雨風にさらされた石や岩はまるくなる。完全な「えん」にはならなくとも、角が取れてフォルムがまるっこくなる。こんな感じで人間関係もまるく収まればいいのに、と思うことは何度もあったが、上の件があってから、長い年月をかけてもダメなものはダメだと証明された。
ならば不用意に近づかないでおこう、としたいのに、そうさせてくれないのがTwitterとFacebook。何度でも書くが、Twitterはそういうものが多すぎる。Facebookはまだ落ち着いているような気がするが、Twitterは論外に近い。
逃げ場として別のものを用意したが、そのつながりも結局Twitterの派生であることに変わりはないのでアカウント削除も考えている。そもそもフォローしていても会話を交わすことがない人たちばかりであり、その場でつくった「えん」はとてもいびつなのではないか、と考えるようになってしまったからであるが。

そんな中、Twitterに投げられたのが「Twitterサークル」。使い方によってはかなりいいものであると思ったのは一瞬であった。
片手の指くらいの回数であるが、この「見えないえん」を使ったことがある。これがまた差別化を図っているようにしか思えず、私はこの「見えないえん」の中にいても、いい気分とは思えなくなった。
おかげで余計に「孤立感」が増した気がするし、見えないことを逆手に取って罵詈雑言や誹謗中傷に近いものを並べ立てる人がいてもおかしくない。いじめの助長というデメリットをはねのけるメリットがあるならば聞きたい。
「しかく」の中に突如現れた、なんとも難しい「えん」である。

ほかにも通知やリプライも間引いたり、リンクつきのツイートは閲覧されづらくなったり、挙句の果てには相互フォローの投稿ですら間引いたりという話も聞く。
「しかく」の中にいる鳥はとても気まぐれのようであったが、その気まぐれが、とんでもない事態を引き起こしている「かもしれない」ことには気づけていないのであろう。

・「しかく」を考えすぎた結果

「しかく」を考えすぎても、「えん」と違ってゲシュタルト崩壊は起きなかった。理由は「しかく」を一文字で表す漢字がないからである。
あれこれ考えた結果、「しかく」に潜む闇がちらっと見えてしまっていた。それと同じくらい「えん」もつくれると感じたが、正しく使えればいろんな方向に「えん」を広げることができるツールにも、必ず「しかく」があることを忘れてはいけないらしい。
「しかく」で欲しいのは「資格」と、正しく認識できるような「視覚」くらいである。

7月某日、地元図書館宛てにお願いしていたアンケートを回収しに行った。質問が簡単であったため回答も簡単ではあった。やらないよりましであった……が、掘り下げて聞きたい項目が出てしまった。最初からアポを取ればよかった。

資格取得までの道のり、とても長い。

いただいたサポートは「自分探し(できてないけど)」のために使わせていただければなぁと思ってます。