女嫌い VS 男嫌い

 モテない男は過度に失恋を怖れるあまり、女に対する好意を悟られまいとしがちである。非モテ男にとっての理想は、ライトノベルの主人公のように、あらゆる事象に対し「やれやれ」と冷笑するだけで何も行動を起こさずともなぜか周囲の美少女からモテモテになる、という状況だろう。

  しかし、もちろん現実にそんなことは起こりえない。意中の女を手に入れたければ最低限の身だしなみを整え、さまざまな配慮をしつつデートに誘い、口説き落とさなければならない。モテる男もモテない男も、惚れた女をものにしたいという願望に差はないだろう。その願望を、心遣いという名のオブラートに包んで相手に呑み込ませることができるか。そこが勝負の分かれ目となる。

 モテない男には、そういった女への細かな配慮ができない。いや、できないというよりしようとも思っていない。あくまでも独りよがり。だから女にふられても、自分はイケメンじゃないからふられただけだ、などという安直な言い訳をしがちである。

 彼らの恋愛観はしばしば消極的で他責的、そして自己中心的だ。いわく、「女は男の顔しか評価しないからブサイクに生まれた時点で男は終わり」とか、「俺以外の男に股を開くような非処女なんてこっちから願い下げ」とか、「身だしなみに気をつけろ? うるさい、ありのままの俺を肯定しろ」とか。この種の「病気」が悪化すると、「日本の女はダメだ」などとほざき、ろくに知りもしない海外に理想の女を夢想するようになる場合さえある。

 このように、「女が好きなのに女嫌い」な男は、自分が無能なためにモテないという事実から目をそらし、女を逆恨みして生きていく。非モテ男と女性嫌悪は明らかに親和性が高い。ただ、ミソジニーはモテない男だけのものかというとそうでもなく、モテる男の中にも女を金づるや性処理用の玩具、もしくは家政婦以下の存在としか見なしていない輩はいる。要するに、ミソジニストの構成員は一部のモテ男とその他大勢のモテない男なのだ。

 ところで、フェミニストはミソジニストをやっつけて、女性差別や蔑視とは無縁の公平な社会を実現できるだろうか。残念ながらそうは思えない。なぜなら彼女たちの大半もまた、ただ男性嫌悪をこじらせているにすぎないからだ。

 フェミニストの構成は、ミソジニストのそれとやや似ている。ミソジニストの大半は、自分を愛してくれない女を逆恨みしているだけであり、できることなら美女と付き合いたいし、セックスしたいと思っている。同様に、フェミニストの下層でも多数のモテない女が怨嗟の声を上げており、彼女たちもまた、可能であればイケメンと付き合いたいのだろうと思われる。自分がモテないのは日本の男のせいだと強弁して、ありのままの自分をちやほやしてくれる男を海外に夢想しがちである点もミソジニストと重なる。

 しかしながら、フェミニストとミソジニストは上部構造に違いがある。ミソジニストは上層にいる少数のモテ男とその下にいる多数の非モテ男とで構成されているが、フェミニストの場合は少なくない数のモテる女が上層にいるのだ。彼女たちは男にモテるがゆえに、あるいは水商売も含め広い意味で女性性を売り物とする職業に就いているがゆえに、男から搾取されたり暴力や嫌がらせを受けたりして、結果的にミサンドリーに陥り、フェミニズムへと駆け込んできたのだ。

 さらにフェミニストの最上部には、フェミニズムで食っている学者や著述家を中心とした、過激な活動家連中が君臨している。彼女たちは、まだ社会で女性差別が激しかったフェミニズムの黎明期は別として、現代では男女間の対立を煽ることでメシのタネを創り出す、いわば当たり屋のような存在でしかない。真に公平で平和な社会を実現する気などさらさらないし、仮にそうなったら廃業に追い込まれてしまうため、男女が争い憎み合う修羅場こそが、彼女たちの理想とする社会なのである。

 不幸なことに、現代の情報社会では、女嫌い対男嫌いの醜悪で不毛な争いに、そのどちらでもない人たちが巻き込まれることなく暮らすのは難しい。見合い制度が事実上破綻し、容姿や能力の優れた者以外は恋人や配偶者を見つけるのが困難であるため、多数の非モテ男と非モテ女が罵り合う地獄絵図を、今後目にしなくなる日は来ないだろう。

 しかしそれでも我々は、男女間の対立を煽る言説とは距離を置き、男女という枠にとらわれずに適材適所を図る社会を実現すべきだ。ミサンドリストをたきつけてミソジニストと戦わせる、あこぎな猛獣使いの叫びに耳を塞ぎながら。

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