『花束みたいな恋をした』と近況報告

✱ちょっとネタバレ注意✱

私達は、この恋が永遠に続かないことを知っている。それなのにどうして、「愛している人と永遠に一緒に居たい」と願ってしまうのだろう。

それはきっと、"永遠に思えるような一瞬"は本物の永遠よりもずっとずっと価値のあるものだから。


3月後半、『花束みたいな恋をした』を観た。ひとりで。周りは幸せそうなカップルだらけで寒気がした。ちなみにこの記事の書き出しは映画館のトイレで号泣しながら書いている。アイメイクが全部落ちて悲惨なことになっている。

冒頭からサブカルに肩まで浸かってないと1ミリも理解できないような聞き馴染みのある台詞の応酬に「ア゛ァ゛ァァ゛(血涙)」と断末魔の如き心の叫びがマスクの中で無限に反響するのを感じながら(何を隠そう私はゴリゴリのサブカル育ち拗らせオタク)、坂元裕二作品の独特のテンポ感にグイグイ引き込まれる。菅田将暉と有村架純が交合う画面の強さに耐えられず終始目を細めつつ、ふたりが「どこにでもいる普通の若者」として描かれているということにどこか安心感を覚える。

ううむ、坂元脚本、やっぱり好きだ…………。

物語は、同じ趣味や感性を持った男女が偶然のような運命で出会い、惹かれ、二人だけの"普通"を共有し合って永遠のような時を過ごす学生生活と、そんな二人が"就職"という社会のレールからはみ出したり戻ってみたり、周りの"普通"に反発したり順応したりしながら、少しずつ関係性が変わっていくその後、を描いている。

あの時好きだったものを、おなじ温度でずっと好きで居続ける、ということの難しさ。目まぐるしく変わる環境に、変わってしまった恋人に、わたしは前と変わらない気持ちで"愛してる"と言えるのだろうか。言葉を尽くして、心を尽くして、"貴方が好きだ"と伝えられるだろうか。嬉しさも寂しさもやるせなさも、全くおなじ温度で共有することはできるだろうか。

そんなことを考えていたら、4月になって、また好きな人のいない春が来た。

わたしは社会人になっていた。

通勤ラッシュの満員電車は殺伐としていてなんだか怖いし、慣れないヒールは私の精神状態のようにグラグラ揺れる。同期は私よりもずっと大人に見えて、私だけがまだ学生気分のような、そんな劣等感に苛まれる。緊張の糸が張り詰めたままの毎日。

このままいつか大好きな読書を楽しむ心も死んでしまって、ビジネス本ばかり読むようになって、今村夏子のピクニックを呼んでも何も感じない大人になるのかということがただただ怖い。

でも仕事を始めたからといって私が生きてきた日々が消えるわけじゃないし、思い出は花束みたいに綺麗なまま心の奥のほうに飾っておいて、たまに取り出して眺める位が丁度いいんじゃないかな、とも思う。

季節は変わる。今年の桜は咲くのも早いけど同じくらい散るのも早くて、なんだか寂しい。 

永遠なんてない。だから、一瞬を大切にする。

好きな人を、好きなものを、大切にしたい。


まぁしばらくは、仕事が恋人かな。




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