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世界原理論

(意識のハードプロブレムを
知らない方はこちらを先に読むと良い
http://noexit.jp/tn/gakuMenu.html)

存在は感覚であり、逆も然り。
ここで言う感覚は、感覚や、
複数の感覚の関係性から生じる感覚である
知覚や認識ではない。
便宜上、感覚や、
複数の感覚の関係性から生じる感覚を
感覚'と表記する。

存在同士の関係は因果で変化する。
(それが因果の定義)

物理学とは存在と存在の関係の
因果を調べる学問である。

因果は原因の方向と結果の方向に
長く続いている。
これを因果律と呼ぶ。
(原因→結果(原因)→結果(原因)…)

因果律において存在は
生まれもなくなりもしない。
存在自体に理由(あるである理由、
ないである理由)はない。
(トートロジックに表現するなら、
存在の存在理由は存在では満たせない)
(これは「なぜ何もないのではなく、
何かがあるのか?
」への回答でもある)

また、存在自体に理由がないとは
どんな存在であるかという事も含み、
「ある周波数の光が目に入った時、
なぜ、🟥を感じるのか?
🟦や🟨でない理由はなにか?」
という疑問への答えでもある。

また、時間に始まりがない事が
矛盾である様に、
因果律には始まりがあり、
因果律の始まりは、
理由のない事実であり、公理と呼ぶ。
そして、その公理は物理法則(の一部)を含む。

因果律に終わりがあるかは不明だが、
因果の性質を理由とした
因果律に終わりのある必然性はない。

感覚'の存在理由は感覚にある為、
感覚'の存在理由は
感覚自体の理由に帰結する。

脳の状態に基づいて感覚の状態はあり
脳の挙動に基づいて感覚の挙動がある。
脳に挙動する感覚(クオリア)が存在していると
確認できるのは自身のみで、
他者に対しては、
類推で「ある」と人は言う。

また、感覚'であるカントの言う物自体も
同様で類推でしかない。
「視界の外にも世界がある、
聞こえなくても、ずっと遠くにも音がある。
感じていなくても、世界はある」
これは類推なのだ。

ある存在対し対し、精神が存在すると、
類推する範囲は曖昧であり、
他者に感覚があるか、
獣や虫に感覚があるか、
脳と同じ機能を持った構造物に感覚があるか、
あらゆる存在に感覚があるかは不明である。

ただ、感覚の集合たる心は脳の状態に従う為、
単純な構造物に宿る心は単純だと考えられる。

また、あらゆる存在に心がある場合、
1つの心はどんな範囲の存在に宿るのか、
(りんごとなしが
別々の心を持っているとして、
りんごとなしをくっつけたら、
1つの心になるのか?)
境界はなく、関係性の量で区分されるのか?
その量はどう決まるのかが問題になる。

脳への干渉で、感覚は生まれうるが、
全ての感覚を脳への干渉だけを理由と
する事はできない。

全ての感覚が脳への干渉のみを
存在理由とするならば、
脳に干渉している何かがあり、
その何かの存在理由が示せない。

感覚ではないが、
在ると考えれる対象を実在と呼称する。
実在はカントで言う物自体を含み、因果を含む。
また、実在と感覚’は等しく、
他者の感覚とは実在である。

全ての実在とその因果律を実在界と呼び、
全ての存在とその因果律を存在界と呼ぶ。
そして、実在界の脳を実在脳と呼び、
存在界の脳を存在脳呼ぶ。

脳とは存在界の状態を表し、
その有り様で、存在界をどうにでもできる
(全能性を持つ)存在の事である。

実在界とはヴィトゲンシュタインの言う
論理空間であり、あらゆる可能性、
語れる事、全てである。
(故にヴィトゲンシュタインの言う
語れえぬものは含まない)
(ただし、ここから語る実在は
物自体という意味である)

実在界(の一部)を実在脳は表し、
実在脳を存在脳と存在界が表し、
存在脳を存在界は表す。

存在脳の変化は存在界の変化となり、
実在脳の変化は存在脳の変化となるが
実在界の変化は
実在脳の変化になるとは限らない。

存在脳が存在であるが故に
存在脳は実在脳により状態が決まる。
そして、実在界と実在脳が異なりえるのだから、
実在界と実在脳の関係が、
存在界と存在脳の関係と異なりえる。
これは「水槽の脳」があり得る事を意味する。

存在界は実在脳を表すが、
どう表すかの理由は存在しない。
(脳のある状態で何故、🟦を感じるのか?
何故、🟨を感じなかったのか?
という疑問に答えはない)
それは存在自体に理由がないのと同じである。
これはクオリア問題
(意識のハードプロブレム)の答えでもある。

肉体とは複数の感覚系統の
比較で認識をする区別された存在である。

感覚系統とは、
兼ねられている複数の感覚の事で、
例えば、彩度、明度、色相、位置という
4つの感覚は視覚系統に属する。

体を認識する方法を具体的に言うと
「視覚Aと視覚Bが知覚Cを生じさせた時、
触覚Dが生じる。視覚Aと視覚Eが
知覚Cを生じさせた時、触覚Dが生じる」
この時、視覚Aが肉体だと言える。

更に具体的に言うと、
「腕とリンゴがぶつかり、ぶつかった感覚がする。
腕と犬がぶつかり、ぶつかった感覚がする」
この時、腕が肉体だと言えるのだ。

ただし、この肉体の認識方法は
帰納法に過ぎず、証明ではない。

感覚を1次感覚、
1次感覚から生じる感覚'を
2次感覚などとした時、
肉体を動かすのは2次以上の感覚'である。

最後にこの理論に関係する問題について語る。
まずはスワンプマン(再現式テレボート問題)。
精神を消去した後に、
再び全く「同じ」な精神を再現した時、
消去された精神と再現された精神は
「同じ」なのか?
同じではあるが同一ではない。
消えた物は新しく生まれた物と無関係であり、
消えた物と同じ性質の物が生まれても
消えたという事実は消えない。
仮に全く同じ物が2つある時、
その物は同じであれど
同一ではないのと同じである。

例えば、自分のコピーを作ったとして、
自分とコピーは別々に存在するし、
自分が死んでも精神が
コピーに移動したりはしない。

精神とは存在自体であり、
同じ精神は存在しない。

集合の要素、概念ならば、
同じ物が存在するが、
存在自体でいう「同じ」は「同一」のみで
一度、消えた物とそれを再現した物は
2つの物であり、故に別であり、
別であり同一とは矛盾だ。
だから、存在自体である精神に、
同じ精神は存在しなく、
一度、消えれば、永遠に消え続ける。

次に「随伴現象説(クオリアは脳の状態で
その状態が決定し、逆は起きない)が
正しいのなら、クオリアはただ、
脳の状態に付随した無用の存在ではないか?」
という疑問を考える。

これは「なぜ、全てがないのではなく、
なにかがあるのか?」という疑問と同じだ。
何故なら、全ての存在はクオリアであり、
物自体や抽象的な事柄は
クオリアを本質としている為、
「クオリアが何故あるのか?」という問いは
「なぜ、全てがないのではなく、
なにかがあるのか?」と同じなのだ。

また、その疑問への回答は、
「ある事自体に理由はない。
因果は存在と存在の関係の
変化を意味するだけで
存在自体の変化は意味しない為、
ある事自体、ない事自体に理由はない」である。

次に現象報告のパラドックスを考える。
現象報告のパラドックスとは
下記の事である、
「随伴現象説が正しいのなら、
ある人物にクオリアがあってもなくても、
脳の働きに変わりはない筈だが、
それなら、クオリアという存在に気付いて、
語れない筈だ。なのに、語れている。
これは、何故か?」

自己認識をする機構に
クオリアが宿っている時、
自己の存在を認識しうる同時に、
存在の性質も認識しうる。
性質のない存在はないから。
🟥という存在はあっても、
🟦や🟨と区別されない、
何の性質もなく、実体がない
存在、クオリアはないのだ。

クオリアが宿った機構が
自己の存在を認識できるのは
クオリアの性質がそうであるからである。

脳という器官があるから、
クオリアがあるのではなく、
クオリアが宿れる構造、機能を持っていたから
クオリアが宿ったのである。

そして、私は受動意識仮説、
随伴現象説を肯定するが
自由意志の存在を肯定する。
この事については下にあるURLの別記事で語っている。

続き「精神原理論」https://note.com/urosetouya/n/n5a05dbfc4577






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