『アナ雪2』を支える「ありのまま」ではないエルサの愚痴ソング『Let It Go』

※『アナと雪の女王2』のネタバレがあります

 わたしは『アナと雪の女王』の終わり方があまり好きではなかった。すれ違う姉妹に、正体はともかくとして一応の王子、マスコットキャラのしゃべる雪だるまに、明かされる真実の愛。『アナ雪』一作目は正にディズニーとでも言うべき、綺麗にまとまった、おとぎ話そのものといった映画だった。

 あれを大好きだった人が、今回の二作目をあまり好ましく思えないのは納得できる。音楽も視覚的にも、前作の方が印象に残るものが多かったのは確かだ。しかし、今作は「アクションと音楽に力を入れ過ぎて、ストーリーがないがしろになっている」という評価には大反対である。むしろ、今回の方がよほど深い話だった。また、「今回の製作者は前作を憎んでいるのか」という感想も目にした。

 この認識の差は、例のやつの日本語の歌詞にあるのではないかと思う。
 何度も指摘されていることだが、「Let it go」は「ありのまま」ではない。

 『Let It Go』は言ってしまえば、エルサの愚痴ソングである。

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 風は「このままじゃダメなんだと」ささやいていないし、エルサは別に「とまどい、傷つき、誰にも打ち明けずに」いた訳ではない。(そうと解釈することはもちろんできるけれど。)

 「抑えられなかった、神様は私が頑張ったと知ってる」と嘆き、父親に言われた「誰も入れるな、誰にも見せるな、いつでもあるべき良い女の子でいろ」という呪いの言葉を憎々しげに繰り返して、「でももうバレちゃったし!」と開き直り、「もうどうでもいいわーーー!!!」と声高に叫んでいるのがサビのレリゴーである。”何で私だけこんな我慢させられてきたんだ”と鬱憤が爆発しているのが一番の歌詞なのだ。

 日本語歌詞の「ありのままの姿見せるのよ」は、投げやりな原語の歌詞と比べると主体的に取れる。「もうバックれよ! ドア叩き締めてやるわ!」が、「ありのままの自分になるの」と大分マイルドかつ自発的になっているし、「あいつらの言うことなんて知るか」とはっちゃけているパートに至っては、日本語版からはごっそり抜け落ちている。

 付け加えると、意味としてはほとんど変わらない「少しも寒くないわ」に当たる"The cold never bothered me anyway”の「anyway」には、”(寒がっている他人と比べて)自分は特に寒くなかった”という比較の意が込められている。失敗して集団から離れることになってしまったが、「別に寒くなかったしぃ〜(独りでも雪山で生きていけるしぃ〜)」と少し見栄を張っている言葉にも感じられるのだ。

 極め付けは「正しいも、間違いも、ルールなんて私には通用しない。私は自由なんだ!」である。無法地帯だ。ここの邦訳は「そうよ変わるのよ、わたし」で、またまた非常に主体的である。
 「ありのまま」になるのなら、”変わる”というよりも”戻る”の方が合っている気がするが、日本語のエルサは活動的だ。

 原語のエルサがこの曲で決意するのは、「絶対に戻らない」ことであり、「完璧な女の子は消え去った」と表明する。反対に、日本語のエルサは「輝いていたい」が目標であり、「自分を好きになって」「自分信じて」「歩き出そう」としている。
 素晴らしく前向きな宣言の裏で、エルサは同時にエクスクラメーションマークを三つも付けながら、「嵐なんて吹き荒れさせとけ!!!」と自暴自棄も甚だしく、天に腕を振りかざす。

 もう言語の違いとかいうレベルではない。日本語と英語のエルサは別人だ



 『アナと雪の女王2』でエルサが正にこの「Let It Go」を歌っている自らの幻影を見て恥ずかしそうにしているシーンがあるが、これも英日どちらの歌詞が頭に入っているかでかなり印象が変わるはずだ。日本語版に親しんだ人が該当シーンを見たら、確かに今回の製作者はあの名曲をバカにしているのかと感じても不思議ではない。

 英語のエルサは、思春期のティーンエージャーのごとく”誰も要らない”と周りを突っぱねて、イキがっていたのである。アナに救われ、人との繋がりを取り戻した今、あれがどれだけ恥ずかしく見えるかは想像に難くない。


 『Let It Go』に限らず、『Love Is An Open Door(扉開けて)』や『For the First Time In Forever(生まれてはじめて)』も、一作目に登場する曲はどれもエルサとアナにとって他人ありきの歌であり、かつどれも明るく前向きである。反して、今作の歌はほとんど全て個々人の”不安”を歌ったものだ。

 クリストフの歌なんて、まんま”恋人に置いてかれたどうしよう僕生きていけない”という往年のキャッチーなラブソングを思わせる曲だし、あの謎の古臭いミュージックビデオ風シーンだけでも、今回の続編が前回よりだいぶ大人向けに作られていると察せられるのではないだろうか。(子どもにあの面白さが分かるとはあまり思えない。)

 『The Next RIght Thing(わたしにできること)』では、仮にもプリンセスのアナに”死にたいほど辛い”と歌わせている。けれど、あのたった一曲で、アナの苦しみとそこから立ち直る強さを描いてみせた。これまで、アナはエルサがいて初めて完成される存在であったのだ。
 名前こそ出てこないが、「どうやって立ち上がればいい? あなたのためじゃないのなら」とまでアナに言わせているのは、もちろんエルサだろう。自分のためには行動してこなかったアナが、一人で考え、家族のためというよりも、国と正義のために行動するのである。

 エルサだけでなく、アナも「声」を聞くのだ。「今できることをしろ」という声を。それは「いつも追いかけてきた」エルサの声ではない。アナ自身の心の声だ

 私が『アナ雪』の終わり方を好きになれなかった理由は、エルサがちっとも「ありのまま」ではなく、アレンデールに留まるべき人間とは到底思えなかったからである。エルサのパワーはあの小さな国で存分に発揮できるものではなさそうだったし、ちょっと噴水を凍らせただけで村人が怖がるような、魔法の浸透していない場所で彼女が生きていくのは難しそうに感じた。

 だから『Into the Unknown』でエルサが「心の奥底ではここが私のいるべき場所ではないと知っている」と口にしたとき、やっぱりなと思った。アレンデールで女王をやっている姿より、『Let It Go』で好き勝手に城を建てていた時の方がずっと楽しそうに見えたのだ。周りに追い立てられたからではなく、今回エルサは自ら選んで「未知の旅に」踏み出す。訳の分からない声に「一人にしないで!」と追いすがって。



 確かに、アナはエルサを必要としていて、エルサもまたアナを必要としている。しかし、そういう"私にはあなたしかいない"という関係は、得てして共依存になりやすい。相手を大切に思うが故に先回りで守ろうとして、お互いがお互いの足を引っ張っているような場面が多く感じられたのは、二人が別々に生きる正当性を強調するのと、別に一緒にいなくても相手を助けられると示すためだ。

 『アナ雪』はあくまでも家族に固執した話だった。独りが好きでアレンデールに居場所を感じていないエルサは、唯一の肉親であるアナのために国に残り、そんなに好きそうでもない国政に関わる。アナはコミュ障気味のエルサを気遣い(「家族でゲームが得意じゃない人もいるよ!」)、精一杯エルサが心地よく過ごせるよう努めるが、そのせいでクリストフとの時間は無いに等しいし、姉離れができていない。

 二人が話すことや、共有しているものは、幼い頃の思い出だけである。それは決して間違ったことではないが、アナとエルサが一緒にいる限り、エルサは「何も変わってほしくない」、「新しいものは欲しくない」と思い続けるばかりで、二人が成長するのは難しかったのだ。それ故に、アナとエルサはそれぞれに合った別々の国で暮らすのを選ぶ。

 けれど、変わらないものはある。「愛じゃよ、愛」というやつだ。

 たぶん今作のストーリー構成を批判している人は、例えばエルサの力の源が結局うやむやだった点であったり、森に閉じ込められた両国の人間たちの関係なんかがあまり説明されなかったところを気にしているのではないかと思う。もやもやするのは間違いない。
 それで良いのだ。なぜなら、わたし達がそれらを知る必要はないからである。

 サスペンスだとかトリックもの以外、映画は全てを説明する義務はない。一応は子ども向けの作品なので難解になり過ぎてしまうし、そもそもそれをやり始めてしまったら”どうやったら雪だるまが喋るのか”とか答えの出ない、かつ誰も特には気にしていないし知りたくもないところまで論理づけする羽目になる。
 エルサのパワーの件も、森の人たちの話も、”アナとエルサは離れて暮らす方が互いのためになるのでそうするけれど、二人の愛情は決して変わらない”とか”結局は愛がどんな問題の解決にも必要である”みたいなメッセージを理解するためには、全く必要ではない。

 もはや『アナ雪』はおとぎ話ではない。ある種ステレオタイプ的な「いつまでもいつまでもみんな幸せに暮らしました」から解放され、不確定な未来に続くオリジナル作品になったのである。

 エルサがもう「どうにでもなれ!」と全てを放棄することはないだろう。

 エルサは、そしてアナも、おとぎ話という枠から抜け出し、独立した人間になったのだから。

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