ラム・タム・タガーはロックスター

 わたしはつくづく色男的なキャラクターに弱い。
 見るからに女たらしそうな登場人物ばかりいつも好きになるので、何も言わなくても、わたしの友人たちはわたしが好きそうなキャラクターをどんな作品でもすぐに当てることができる。

 ここまで書けば、というかタイトルを読めばすぐ分かると思うが、わたしの『キャッツ』のお気に入りはラム・タム・タガーだ。

 兎にも角にも、ブロードウェイ版のラム・タム・タガーが登場するなり「ミャオ」と言うシーンを見てほしい。(https://www.youtube.com/watch?v=ywFbpDjpZno)
 何を言っているのだと言われそうだが、見れば分かる。あんなにセクシーで扇情的な「ミャオ」があるのか、と己の性的指向を疑い始めてしまうほど魅力的なのだ。(わたしはもちろん普段は人間が好きである。)


 映画好きでない人も恐らく知っている通り、これを映画化したトム・フーパー監督の『キャッツ』は酷評を受けた。
 前評判に違わず、猫であるはずの俳優たちは人間の顔をフォトショップされたゴキブリだったし、物語を分かりやすくしようとするばかりに『キャッツ』の魅力であった曖昧さやあべこべさが失われ、どうにもつまらない作品になってしまっていたが、それについて多くを語るつもりはない。
 わたしが一番気にしていたのはラム・タム・タガーである。


 何かしらのリメイクが行われるとき、白人が演じていた役が黒人の役となるケースは多々ある。そしてそれは全く間違っていない。
 けれどそれと同時にわたしが居心地悪く感じるのは、わたしは以前好きだったキャラクターをリメイクでもそのまま好きでいられるだろうかと毎度思ってしまうからだ。

 わたしは誰かが白人だから好きなのか、それとも本当にその人が好きだから好きなのか。これは洋画を多く観始めるようになった頃からの疑問であり、最近ますます重さを増している枷である。
 白状すると、わたしが好きな俳優や登場人物の99%は白人だ。


 結論から言うと、映画版のラム・タム・タガーは全く好きではなかった。
 しかし今回に限って言えば、それは彼が黒人の俳優によって演じられたからではないと断言できる。

 役名なしでキャストが発表された際、わたしはてっきりイドリス・エルバがラム・タム・タガーをやるものと思っていた。
 彼ならその場にいるだけで目をやってしまうような存在感も色気もカリスマ性もあるし、首回りにモフモフがついたレザーっぽい衣装も着こなせそうだと思ったのである。

 イドリス・エルバは結局悪役のマキャヴェティ役で、ラム・タム・タガーに配役されたのはわたしの知らない俳優だった。
 知らないが故に真っ新な気持ちで映画の公開を待つことができたが、嫌な予感はしていた。
 彼は2016年にブロードウェイで公演されたリバイバル版でのラム・タム・タガーを思い起こさせたのだ。


 ラム・タム・タガーはロックスターである。

 舞台では言うまでもなくCGが使えないので、半分くらいの猫は人間味のある服を身につけている。
 ラム・タム・タガーも服を着ている猫の一匹で、レザーらしきピッタリとしたパンツに同じくレザーのトップス、首回りにはふさふさとしたファーを纏い、トゲトゲのついたチョーカーをつけていて、隙間から見える地肌は豹柄。往年のロックスターを想起させる衣装である。

 これがリバイバルでは、反対向きに被ったキャップからのぞくドレッドヘアに、ジャラジャラしたネックレス、トラの顔がプリントされたタンクトップと足元はスニーカーという、ヤンチャなストリート系のティーンみたいなデザインに変更された。
 演じていたのは白人の俳優だが、黒人文化を意識したテイストが新たなロックスター的イケてるポジションに当てられたのだ。このバージョンは不評だったらしく、以降は採用されていない。

 映画版のラム・タム・タガーはオリジナルのチョーカーに加えて、リバイバルを意識してかやたらと長いチェーンのネックレスを身につけており、レザーの代わりにファーコートのみを着ていた。
 しかもそれを脱ぐものだから、人間のわたしとしては何か見てはいけないものを見ている気分になるし、猫の服を着たり脱いだりする基準と羞恥の概念に疑問が湧く。
 一方、コートを颯爽と脱ぎ捨てた彼は猫一行をネオンで輝くクラブへと引き連れる。一言で言えばパリピである。裏では別の猫が彼の高い歌声を馬鹿にしていて、どこからともなく溢れ出るチャラさと相まり、彼に群がる雌猫たちすら軽薄に見える。猫界に来て間もない主人公さえも彼に惹かれる理由がさっぱり分からない。
 ラム・タム・タガーの魅力であったはずのカリスマ性とか気品みたいなものはすっかり失われてしまっていた。

 恐らく白人だろう作り手が、黒人の俳優に合わせて金鎖のネックレスしかりクラブしかり、オリジナルにはない要素を安易に持ち出すのは多様性の表現などではなく、新たなステレオタイプである。
 それは元の完成されたラム・タム・タガーが白人俳優向けだと表明しているようなものだし、あんなに格好良いキャラクターだったのだから、そのまま非白人の役者を配役すれば良かっただけの話だ。ロックが誰にでも平等に開かれている自由を歌った音楽なら、誰だってロック・スターになれてしかるべきである。
 ハリウッド映画にステレオタイプごりごりのアジア人ばかりが登場するのも、多様性のためにアジア系の俳優を起用しようと先に考え、「アジア人らしい」登場人物を構成するからだ。普通に物語に必要な人物を作り上げて、それからアジア人の役者を起用していたら、あんなことにはならない。
 非白人のキャラクターはそれだけで偏ったキャラクターになってしまいがちなのだ。


 ラム・タム・タガーは面白い(curious)猫なのである。

 家に入れてやれば出たいと言うし、アパートに住めば一軒家がいいと騒ぐ。女にちょっかいを出したかと思えば、向こうが擦り寄ってきた途端にすげなく掌を返し、なんだかんだいつも一人でいる。かと思えばカーストの下層にいそうなミスター・ミストフェリーズと仲が良く、気ままな猫そのものだ。だから猫も人も彼に惹かれてしまう。
 決して、彼のシャウトは笑いの対象ではなかったし(ボウイの高い歌声を笑う人がいるだろうか)、薄暗い所で女を何人も侍らせていちゃついたり、クラブでパリピごっこをするキャラでもない。

 映画版のラム・タム・タガーはつまらなかった。それに尽きるのだ。

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