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猫が死んだ

 わたしは中身が十歳児のままだから、人間年齢八十くらいの飼い猫を、文字通り振り回して無理やり抱っこしたりする。日曜の午後には、リビングから彼を拉致してベッドに連れて行き、強制的に一緒にお昼寝をしたりもしていた。

 ショコラはラグドール種の名に恥じず、非常に大柄で、一歳しか違わないもう一匹の猫の方が4kgくらいしかないのに比べて、7kgくらいある。お爺ちゃんだとは到底思えないくらい、お腹がピンクで丸々としていて、去勢したせいか、声もすごく高い。
 彼の義理の兄で4kgのトトロのことを、わたしは「爺や」と呼んでいる。その反面、ショコラの方は「たゃ」と呼んでいた。ネットで見かけた、好きなキャラにちゃん付けをした「〇〇ちゃん」が「〇〇たや」を経て「〇〇たゃ」へと変化した形を拝借したものである。トトロが顔と身体中にイボを作り、以前よりも痩せて浮き出た背骨をしていて、たまに腰を抜かして麻痺したように歩けなくなるのに対して、ショコラはあまりにも健康的だったのだ。

 ご飯を出せばトトロの分も横取りして食べる。夜には近所迷惑を心配するほどの大声で遠吠えをする。廊下のど真ん中でひっくり返ってお腹を丸出しにしたまま、人間がすぐ横を通るのを全く気にしないで、避けようともせずに悠々と寝っ転がる。キッチンから漂う人間用の肉が焼ける匂いに鼻をふんふんさせる。何にも好奇心旺盛で、お爺ちゃんより赤ちゃんの方がずっと近かった。

 彼は五月五日、こどもの日に、十六歳になったばかりだった。わたしは二十二歳。ショコラといるときの中身は、ほとんど十歳。永遠に、とは言わなくても、わたしが家を出る頃くらいまでは、こういう生活が続くのだと思っていた。

 何かがおかしいなと思い始めたのは、六月の頭、もう二週間以上前だ。あのショコラが、あまり食べなくなった。この時点で病院に連れて行っていたら、間違いなく未来は変わっていただろうと思う。でも、病院嫌いの老齢猫を獣医に見せるのには勇気がいった。
 そこからは早かった。夜鳴きにうるせえと言っていた日が嘘のように、ショコラは動かなくなり、何も言わなくなった。あまりのことに信じられなかったのだが、あんなにずっしりしていたショコラの体には、背骨が浮き出ていた。抱き上げてみたら軽かった。

 わたしが友人の見送りで留守にしている間に、ショコラは入院していた。家に帰ってそれを知ってからすぐ面会に行ったら、尿道にカテーテルを刺されて、うんざりしたような半目でこちらに尻を向けるショコラがいた。正直に言うといつも通りの反応だったが、やっぱり元気が無くて、死んだらどうしようと怖くて怖くて帰り道で死ぬほど泣いた。獣医にも親にも、泣いているところを見せたくなかった。

 それからほとんど毎日一週間ショコラに面会しに行き、ここ数日は彼の眼にも輝きが戻ったように感じて、撫でる手にも頭を擦り付けたりしていたので、あと十年は生きられなくても、三年くらいは家で点滴をしながら生きてくれるんじゃないかなと希望的観測を抱いた。



 ショコラは昨日の夜中に死んだ。部屋で課題をやっていたら、リビングから変な声が聞こえて、まさかと思って行ってみたらそのまさかだった。まだ、その時は、危ない状態というだけで、死んだ訳ではなかった。わたし以上にショコラを溺愛していた母は号泣していた。

 それからもう数時間経って、やっぱり奇跡は起こらなかった。わたしは呑気に、午後面会しに行った時は小康状態と言われたのだから助かるのではないか、などと考えていた。それなら獣医はわざわざ電話などしない。

 診察台の上で、ショコラは心臓マッサージを受けていた。なかなかにシュールな光景だった。獣医の側を回って、ショコラの顔を見たら、目が見開いていた。ドラマなんかに出てくる偽物の死体にはない、虚無というのか、とにかく今まで見たことがない程その目が大きく開かれているのが怖かった。獣医を除いて、その場にいた全員が泣いていた。もう、泣いているのが自然な状態みたいだった。

 ゲフッみたいな音を立てて、獣医が蘇生処置を止めた後も、ショコラは息をし続けた。いや、あれは呼吸だったのか、一日経った今でも分からない。お腹が全く動かない時間の後に、痙攣のように、目と同じくらい大きく開かれた顎から、息が吸い込まれて、吐き出されて、それが二時間半続いた。獣医は、「生体反応が十分くらいは続くと思います」と言っていた。腎臓はボロボロだったけど、老齢猫にしては肺がものすごく強かったそうだ。

 獣医からショコラを連れて帰る道すがら、しっかり生きなければいけないと思った。わたしは長生きしたいとちっとも思わないし、五年でも十年でもショコラにあげたいと彼が入院してからずっと思っていたのだけれど、そんなことはもちろん出来なかった。
 自分に近しいものがいなくなるのを実感したのは、人生で初めてだった。留学から戻ってきたら、祖父は随分と前に死んでいた。あまりショックを受けなかった自分にショックを受けた。あの時よりも今回の方がよほど辛い。死を初めて恐ろしいと思った。それから、ショコラが死んだ原因はわたしにもあるのだから、この責任をこの先背負っていくために、ちゃんと生きなければならないと思った。


 椅子の上に寝かせたショコラは、まだ規則的にゲフゲフ言っていた。相変わらず、何も映さない眼と限界まで開かれた血のついた顎は恐ろしかったが、それにも慣れてきて、にわかにショコラが死んだとは信じられなかった。
 床にクッションを敷いて、その頭にわたしの頭の後ろの方をくっつけながら、学校の課題を続けた。あの帰り道の最中でさえ、ショコラの死をどうやって文章にしようか考えていた自分に嫌気がさしていた。一度でいいから、何もかもを忘れてしまうほど感情に突き動かされてみたかった。でも、どんなに頑張ってもそんな風にはなれなかったから、少しだけでもいつもの感じが味わいたくて、ショコラの頭に頭をくっつけた。嫌がられない時点で、いつもと同じではなかった。

 今なら、怪人の顔を愛せると自信を持って言えるだろうと思った。愛しているものだったら、見た目がどんなだって、生きていてさえくれればもう何でもいいと感じ始めていた。あんなに苦しそうで痛々しいと感じていた生体反応が、ずっと続いてくれればいいと思った。

 午前一時半過ぎ、ショコラの足から力が抜けた。それまでは力がまだ入っていたのだと、そこで気づいた。いきものが死ぬとはこういうことなのだと知った。箱に移すために持ち上げられた彼の下半身から、水が滴り落ちた。死ぬと身体の力が抜けて下から色々出てきてしまうとは聞いたことがあったが、これほど早いとは思わなかった。あんなに尿が出ないと獣医も困り果てていたのに、今になってこんなに出したって意味がないんだよと、呆れと悲しみでいっぱいになった。

 高校生の頃に文学の課題で「わたしはペット・セメタリーを使うと思う」と書いた記憶があるのだが、間違いなかった。もしあんなものがあるのなら、間違いなく使う。

  最後にもう一度、箱の中に入ったショコラの、あのまん丸だったお腹に顔を埋めた。ショコラはあまり身繕いなんかが得意ではなかったし、嫌がるのでお風呂にもだいぶ長いこと入れていなかったから、いつも獣の匂いとでも言うべきムワッとした猫臭がしていたのだけれど、それがしなかった。病院で落としてしまったのか、母のタオルか何かから移ったのか、洗濯物みたいないい匂いがして、それが言いようもなく悲しかった。

 それからすぐわたしはお風呂に入って二時間くらい寝て、今日はディズニーランドに行った。前々から約束していたので断るのも申し訳なく、それに家にいたところでずっと泣いて一日を過ごすのは目に見えていた。

 ディズニーランドは楽しかった。無料の券で入らせてもらったので尚更だった。ショコラのことをあまり考えずに済んだ。と言いつつ、スペースマウンテンの電灯でできた星空を見ながら、ショコラはこの中の一つにいたりするんだろうかなどと思っていた。偽物なんだから、そんなわけあるはずがないのに。というより、死んだいきもの全部が星になっていたら、今頃夜空には星以外なくなってしまう。それより、家に帰るのが嫌だった。ショコラの死体がまだ残っているかもしれない家に、死の匂いがする家に帰りたくなかった。

 つい先ほど家に帰ってきたら、ショコラの死体は見当たらず、起きているのもトトロだけだった。あれだけ取り乱していた母が今日どうしていたのか知らずに済んでホッとした反面、それが明日に引き延ばされると思うと恐ろしい。昨日から母が「作らなきゃ」と言っていて、ショコラのあれでうやむやになっていたバナナのパウンドケーキが、キッチンのカウンターに載っている。いつもだったら、これ幸いと一切れ食べてしまうのだけれど、とてもそんな気分にはならない。

 夢の国で過ごした一日のおかげで、ショコラの死に向き合う時間に空白が挟まれて、ぼーっとしている。昨日の夜のことの方が夢のようだった。このまま、祖父の時みたいに、ぼんやりと彼がいない空間を受け入れていくのかと思うと、怖いような、それでいいような、正体の掴めない感情が沸き起こる。



 そうしてまた一日が経って、わたしはショコラがどこかいるべき場所に戻ったのだと考えることにした。あんなに可愛い猫が普通の猫であったはずがないのだ。好きな俳優が子どもを授かった時に“神様から預かっている”という表現をしていたのだが、そんな感じだ。たぶん、すごく可愛いいきものを人間に貸し出してくれる部署みたいなものがあって、そこに戻って行ったのだと思う。とりあえずは、そういうことなのだ。

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