『刀剣乱舞』 「本丸」に見る可能性

 自分の好きな二次元のキャラクターが三次元の生身の肉体を得た時、あるいは舞台化やらアニメ化やらでオリジナルストーリーが描かれた時、こんなのは違うと感じた経験がある人は少なくないと思う。
 俗に言う解釈違いというやつだ。
 しかし、公式でそれがそのキャラクターなのだと言われてしまったら、もうできることはほとんどない。大っぴらに気に入らないと表明するのも失礼だし、かと言ってそのモヤモヤを抱え続けることもできず、小さなコミュニティで同志と不満をぶつけ合うしかない。

 これを解決してしまったコンテンツ、それこそが『刀剣乱舞』である。


 刀剣乱舞とは字のごとく、刀剣が主人公のゲームだ。
 刀と言っても、物理的にただ刀が出てくるわけではない。実在したり伝説に出てきたりする刀に憑いた付喪神が、揃いも揃って眉目秀麗な男性の姿をとって現れる。
 わたしたちプレイヤーはその付喪神、通称刀剣男士を呼び起こす力を持った審神者であり、歴史改変を目論む時間遡行軍を相手に刀剣たちと正しい歴史を守るために戦う、というのが大まかなあらすじである。


 しかし、このゲーム、ストーリーがない。

 新しいステージをクリアしても全く物語は進行しないし、何せキャラの数が多いので主人公もおらず、特に何も進展しない。ただただキャラクターたちが強くなっていくだけである。
 操作は基本的に、刀剣たちの編成や行き先を決めるくらいの数クリックのみで、プレイヤーがゲームの勝敗においてコントロールできる要素はほぼ無いに等しい。良い言い方をすれば、これまでゲームに触れたことがない人でも楽しめる設計であり、同時に正直ゲームとしてはほとんど成立していないとさえ言える。

 それでもプレイしてしまうのは個性豊かなキャラクターの魅力にあるのだが、ストーリーがないものだから、基本的には自己紹介と数個のボイスを延々と聞くしかない。
    数個の特定の条件を達成すれば「回想」と呼ばれるキャラクター同士のミニエピソードを閲覧できるものの、キャラクター一人一人の性格や物語を知るにはあまりにも少なすぎる。

  では、なぜ刀剣乱舞はここまで人気になったのか。



 刀剣乱舞には「本丸」という概念がある。

 ゲーム上の機能は他のゲームにおけるマイルーム的存在と変わらず、例えば刀剣乱舞にログインした時、まず表示されるのが本丸だ。
 決定的に違うのが、この本丸は刀剣乱舞で遊んでいる人の数だけあるのだと明示されている点である。「とある本丸のとある刀剣男士たちによる物語」とは、公式アニメの冒頭に流れる断りだ。
    公式の作品でありながらもアニメ内の設定が模倣されるべき「公式」ではない、とゲームをプレイしていない人にも分かるように提示がなされている。
 つまり、刀剣乱舞の世界にプレイヤー=審神者は一人ではなく、かつ、他人の本丸にも自分が持っているキャラクターがいるのが大前提となっているのだ。

 簡単に言ってしまうと、ポケモンと同じである。
 世界中にいるプレイヤーがピカチュウを持っているが、自分のピカチュウは自分だけのもの。そういう感じだ。



 これが何を意味するか。

 自分の好きなようにキャラクターや物語を想像できるばかりか、趣向に合わないキャラクターの描写を見た時、それは「別の本丸」のそのキャラなのだと割り切れるのである。同時に、公式非公式に拘らず、制作側もこれはあくまでも「この本丸」における話だと先手が打てる。誰もが楽しめ、誰も傷つかない。
 刀剣乱舞は2015年に開始されたブラウザゲームから、これまでにアニメ化、ミュージカル化、舞台化と多岐に渡ってメディアミックスを展開している。
 このどれもがヒットしているのは、それぞれのクオリティの高さだけでなく、それらの中からこちらが合うものだけを、気負いせず取捨選択できるところにあるだろう。

 アニメはほのぼのした日常もの、そして戦闘シーンが多いシリアスなものの二つ。舞台版は殺陣が中心の何だか壮大な物語で、反面ミュージカルの方は一部に物語で二部にアイドルのコンサートのようなショーをやる宝塚スタイルを採用している。趣が全く異なる作品を同じ原作で実現できるのは、この「本丸」の概念あってこそだ。
 一応は日本刀を扱った作品であるから、一般的にキャラクターたちが現代風のキラキラした衣装を身に纏って英語の歌詞がある歌を歌うなど言語道断のはずである。ファンの中にも、あれは受け入れられないという人がいるに違いない。

 そして、それはそれで良いのだ。

 公式がこういう決定をしたのだからこれも受け入れられなければファンではない、などと罪悪感を覚える必要はない。この本丸の話は合わないな、で終わらせて良いのである。
 この仮に気に入らなくても大丈夫という安心感は、気軽にそれらの作品に手を出す機会を増やす要因にもなっているはずだ。

 ただでさえ、舞台やミュージカルは特に、演者個々人の解釈がその作品におけるキャラクターのあり方に大きな影響を及ぼす。セリフがない時の立ち振る舞いやアクシデント時の対応など、アドリブが演劇には必要不可欠だからだ。
 確固たる世界観とキャラクター設定がある原作の場合は、少しでもそのキャラクターらしくない言動をしてしまうと、途端に偽物やプロ意識の欠如として批判される傾向があるように感じる。
 けれど本来そうした即興や解釈の違いこそが、生物である舞台の面白さのはずなのである。俳優や監督が変わるだけで、いや違う日の公演というだけでも、同じ演目を何度観ても楽しめるのはそういった差異が全体の印象を変えるからだ。

 ゲーム『刀剣乱舞』の情報量の少なさは俳優のみならず受け手側に想像の余地を残し、かつ本丸という概念がその人それぞれの想像力・創作力を存分に活かす土壌を持つ、ある意味で非常に舞台化向きの作品なのだと思う。



 人の好みは十人十色なのだから、誰も彼もが気に入るアダプテーションは有り得ない。
 日本刀の話であっても、好きなキャラクターがアイドルをやっている姿を見たい人もいるし、ホラーテイストの物語が読みたい人も、審神者と刀剣男士との恋愛、はたまた刀剣男士同士の恋愛が見たい人もいる。
 そうしたファンたちが気兼ねなく自らの好きを様々な形で表現でき、しかも肌に合わないものは合わないと、相手を傷つけることも自分で抱え込むこともなく納得できる環境は居心地が良い。
 野菜は好きでも、ピーマンは苦手でトマトは大好物、そのくらい当たり前なことを当たり前に言える世界観を刀剣乱舞は作り上げた。

 これは多様性を認め合うステップの一つなのだ。たぶん。

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