あの子への感情の供養、他3件

最近の私の脳内だよ~。

あの子への感情の供養

 今でもあの子のことを思い出す。いや、あの子は当時未成年だったが私よりもずっと年上だったから、あの人と呼ぶべきなのか?まあ、とりあえずここではあの子のことをあの子と呼ばせてもらう。
 私はあの子への感情を供養したかった。だけど、他人からすれば些細なことだから、誰かに打ち明けるほどでもなかった。私にとっては些細ではなく、私の頭にあの子は居座っているのだが。そんな状態だったから、私はあの子への感情を創作に利用した。登場人物のバックグラウンドは私たちとは似ても似つかないものにした。私たちが望んでもいないような、無い未来を書いた。それでも、それなりに満足した。書くことで、どうしようもなく肥大して元の形が分からなくなった気持ちの悪い感情を、「百合コンテンツ」の枠に収めることで、ある種他人事のようにしたかったのかもしれない。
 ……あの子は元気なのかな。

きみのための私

 友達と遊ぶためだけに外に出て、歩行して、バスに乗って、電車に乗って、また歩行して……としているとき、「今、わたしの脳や心臓はその人のためだけに存在しているんだな」と嬉しくなる。バイトやインターンに向かうときにはこのような気持ちにはならないため、これがおそらく愛と呼ばれるものの正体なのだろう、と。

一億総社不社会

 私は、ひとりでいることがけっこう好きだ。しかし、人と人との結びつきが希薄化するのは不味いと思っている。
 人と人との結びつきが希薄化すると、それまでは集団で100点をやればよかったのが、ひとりひとりが100点をやらなければいけないことになり、個別の項目で、「その項目を平均以上には出来る人」の水準を保つということをすべての項目でする必要が出てくるように思う。そして、その水準は「普通はこのぐらいできる」と呼ばれる。確かに、ひとつひとつは「普通」かもしれないが、それをいくつも達成できる人間はもはや普通ではない。しかし、人はそれを普通と呼ぶがゆえ、「一億総社不社会」が爆誕している……のではないか。許しあえたらいいのにね。許しあいましょう、私たち人間。

男性一般のことがそんなに好きじゃないように思える一方で彼氏がいる、そんな女友達一般への感情

 理解し合えないという言説や友情が成立しないという言説が出回っている、そんな生き物を隣に置くんじゃなくて、理解の余地があって友情が成立する余地がある、そんな生き物である私と二人で最強になりませんか?