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鳥取県は3億円払って箱を買い、僕は1000円払って岩を見る。

芸術大好き人間の僕でも、芸術ってのはやっぱり便利な言葉だなぁって思う。なんたって展示室って呼ばれるところに岩を置いとくだけで儲けることができるからネ。

先日、神戸県立美術館の李禹煥展という展示会に行ってきた。

李禹煥がどういう人かざっくり言うと「もの派」っていうジャンルのトップクラスな韓国人さん。で、「もの派」ってのもざっくりいうと「何かがそこにあるってことを楽しもうぜ」みたいなことを勤しんでる人たち。

…この文章を読んで「なるほど!了解!」ってなる人はおそらくいないだろう。僕も正直「もの派」の言ってることはよくわからない。

でもわからないからこそ、もの派と呼ばれる人間が「何かがそこにあるってこと」をどう表現するかに興味があった。

っとカッコつけていいつつも僕は李禹煥の大ファンでして彼の作るミニマムで無機質な世界観が好きなのでここまで深く考えず「推しに会いにいくやで!!」とめっちゃ意気揚々だった。

さて、特に勿体ぶってもアレなので、感想はこんな感じ。

A「いやぁかっけぇ。このミニマルさ、無骨さ、儚さ。くそかっけぇ。」

と李禹煥ファンの僕は唸るわけだが、一方で

B「いや、岩と白い絵だけじゃねw」

と、どこか冷めている僕もいた。

さて僕の中でAとBの二つの感想が生まれたわけだが、李禹煥のが伝えたいことはどっちなのだろうか。

今回はそんなお話。

そこにあるということ。

僕らはありのままを見ることがすごい難しくなっている。それは良い意味でも悪い意味でも。

例えば某衣料量販店の服

形もそこまで悪くない。価格も手頃でほどほどに暖かそうだ。

でも、そこで終わらないのが我々人間。このクオリティーがこの値段なのはなぜだ?化学繊維だけど二酸化炭素出まくりじゃね?そもそも売れ残ったらどうなるんだ?

もちろんこれらが頭にあってもなんとか無視して購入し着るわけだが。

他にも。これは水道水なのか、もしかしたら水素水なのかも。どちらにせよ体に害はないだろうか

あとタイムリーなのでいくと回転寿司とかまさに。今そこで流れているあのマグロは誰かが触ったものではないだろうか。醤油は誰かが舐めたものではないだろうか。

「自己防衛だからそう考えてしまうのは仕方がない!」

はい。その通りでございます。でもその時点で、あなたは服を服としてみてないし、水を水として見ていないし、マグロをマグロとして見ていない。

みれていない。

あとはなんだろう。EXITの兼近さんとかもそうだよね。過去とか前科を意識しちゃって、EXITのネタを、彼という人物像を、純粋に見れない。

あなたの元パートナーもそうだよね。

それが良い悪いかは置いといて。

つまり僕らは生まれた瞬間の赤ちゃん以外は物事をありのままで、そのまま見ることはできない。

散歩中に老後2000万問題とかを考えてる僕はもう救いようがないナ

今の時代、ありのままを見るとか無理。

「ありのままを見れない」一つの原因として「偏見」というものがあるが、これほど責任転嫁な言葉はないだろう。

偏見とはありのままを受け入れることができない人が作った言い訳だ。

あなたがそれを受け入れられない理由を世間が作り出した何かに代弁してもらう。それが偏見だ。

ただこれは人間社会で生きている以上仕方ない。お寺のお坊さんもtictokをやってる時代だ。否が応でも僕らには情報が流れてくる。受け入れるかどうか考えるまもなく、僕らの目は純粋ではなくなる。拒む理由を考えるより先に既存の偏見に染まってしまう。

どうしたら僕らは純粋に"もの"と向き合えるのだろう。

これを追求するのが「もの派」であるのだ!

っとワンピースばりの伏線回収をしたところで、今回の展示会についての反省をする。いよいよクライマックス。

”それ”が”そこ”にあるということ。

李禹煥の作品はシンプルに、ものが置いてあるだけ。ただその"もの"の存在感を滝のように浴びることになる。

例えばこちら、入ってすぐの作品。

白いキャンパスに塗られているのは蛍光塗料。こちらの目がキンキンする色たちだ。何か特殊な技巧がされてるわけでもない。

ただ、これの面白いところは作品に近づくと体にその色が若干反射していたのだ。

なんか服に色が反射してるあなぁってなる。床にも反射してるなぁってなる。なんか全部がオレンジだぁってなる。

これも面白い。ガラスの上に岩がある。それだけだ。

しかし見てわかるのは、白ひげを彷彿させる衝撃の跡。ここから感じ取れるのは「岩は重い」ということだ。

それがわかる。岩って重いんだなぁってなる。アレが落ちてきたら死んでしまうんだろうなぁってなる。

この感覚。うわぁ存在してるわってなる感覚。

だからどうって訳ではない。人類賛歌や戦争への皮肉、生への渇望や宇宙の孤独とかそういうのもない。ただ、それがそこにあるということ。

その結果があのシンプルさや無骨さ、そして李禹煥というキャラクターと作り上げた訳でして。

要はわざわざ時間をかけて、金払って、僕は岩を見て、そして「岩があるわぁ」ってなったわけだ。

文字に起こすとなおさら訳がわからなくなる。でもそういうことなのだ。

そしてこの感覚こそが、これからは必要になるのではないだろうか。

鳥取県が3億で箱買ってたよな

どう締めようかと思ったが良い例があったのでこれを引き合いに出そう。


去年盛り上がったニュースに、鳥取県立美術館が3億でアンディーウォーホルという作家の作品を買ったという話があった。

みんなで作る美術館がコンセプトであるにもかかわらず独断で購入した件は咎められても仕方ないが、アレを買って常設展示するというのは個人的に名案だと思う。

だって、県が3億の予算をぶん投げて買った箱。

意味わからんにも程がある。

しかもあの箱は当時使われていた洗剤の箱。もっと意味わからない。

しかしこの「意味がわからない」という感覚こそがこの作品の伝えたいことだ。詳しいことはウォーホルで調べてもらえたらいいが、県が3億で買ったのは

”よくわからないけど3億円な箱がそこにある”ということ

それ以上でも以下でもない。それがそこにあるということ。

映画やアニメはどんどん商業化していってて、思考をさせずなるべく快適に消費してもらおうと感情の変化も思いも全部言葉にしてくれる。

全部スッキリするし、なんだか学んだ気にもなれる。人間として少し成長した気になれる。

良いドラッグだ。

だからこそ、この「ものがそこにある」という感覚。

別に学びがある訳でも、技術がある訳でもなく、ただそれがそこにあるという感覚。

もしかしたらこの「ものがそこにある」ということを学んでいる時点で僕の目も汚染されているのかもしれない。

情報過多な今の時代。難しいということは分かっていても、何かに向き合うときは、変に期待もせず気負いもせず。ただその存在に対峙する。対峙しようとしてみるという心がけを忘れずにしたいもんだ。

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