相手に認めてもらうこと、自己を肯定すること

こんばんは、夜中にのそのそと文章を書いています。

相手が自分にかけてくれるお金や時間などのコストを自分の価値に換算して考えてしまう人がいます。相手が自分のことを、褒めてくれたり認めてくれることによって自己肯定感が高まると思っている人がいます。

それらの考えが間違っているとは思いません。言葉の意味はそんな単純ではないし、そもそも、どこまでが自己でどこからが外界なのかさえ曖昧だからです。

それでも僕なりの自己肯定ってこういう感じ、を言葉にしてみます。

認知とメタ認知

「メタ」という言葉の意味、ご存知でしょうか。フィクションの世界の登場人物が、作者や読者の視点で発言した場合に「メタ発言」と言われたりします。「メタ」はギリシャ語の接頭辞で、「高次の」というニュアンスがあります。「私の認知」を基準にして、より高次の認知、つまり「こんな認知をしている私」を認知することがメタ認知です。

例えば恋愛ドラマを見ていたとして、、、「私はこの登場人物Aが好き/嫌い」というのは自分のシンプルな感情、認知です。それに対してメタ認知は、「私はこの登場人物Aが好きじゃないけど、台詞や描写から考えて主人公は登場人物Aのことが好きだろうな」と理解することです。

現代文のテストでよくネタにされている「作者の気持ち」だったり「登場人物の気持ち」を問う問題は、実は「私の気持ち」と別のところにある、他者の気持ちを理解することを求められていたのかもしれません。(別にそんな意図はなく出題者の趣味かもしれません。)つまり相手の立場で考える、ということです。

メタ認知ができないと(メタ認知という言葉を知っているかは問題ではありませんが)、相手の立場で考えようとした時に、「自分が相手と同じ立場になった時の、自分の気持ち」という視点でしか想像ができません。その視点も勿論大事ですが、「自分ではない相手が、相手の立場でどう思うか」という視点で想像することも大切です。

自己肯定感とは何なのか

では自己肯定感とは何なのか。ざっくり言えば、自己を尊重できている状態を"自己肯定感を持つ”ということなのだと思います。(と書いてから、あまりにも世間的な意味合いと違ったら恥ずかしいと思ってGoogleで検索しました。概ね近しいことが書いてあったので、このまま書き進めることにします。)

自分のことを好きである(愛している)とか、自分は価値がある存在であると認識している、それは確かに自己を肯定している状態の1つと言えます。ただし、これは認知の世界での話であって、自己肯定の極一部でしかないと思うのです。自己に対してポジティブな感情、考えを持つことを「狭義の自己肯定」と呼ぶことにして"自己肯定"とダブルクオーテーションで囲って区別することにします。

ではメタ認知の世界に広げた時の自己肯定とは何でしょうか。メタ認知の世界では「自己を尊重できる状態である」ことと、「自分のことが好きである」ことは必ずしも一致しません。自分のことが好きか、という認知は直観というか、無意識に近いところから来るのに対して、そのように認知している自己を尊重できるかは「私とはこういう存在である」という意識的な定義から来ています。このようなメタ認知の次元で自己を尊重できる状態であることを「広義の自己肯定」とすることにします。

要するに、広義の自己肯定においては「自分のことが好き(ないしは嫌い)である私」という存在を尊重できるか、という構造です。「自分のことが好きな私」を尊重しても良いし、「自分のことが好きになれない私」を尊重しても良いのです。

自己肯定は他者を巻き込まない

自己肯定は他者を巻き込みません。正確には、他者に何をしてもらったか、から直接影響を受けるものではありません。過去の、他者から評価された経験が「自己を肯定する一つの視点」になっている、ということはあり得るかもしれませんが、他者からの評価が直接、自己肯定感の上下に寄与するわけではありません。

「自己肯定が他者から影響を受けない」とは「他者から何をされても(何をされなくても)気にしないこと」ではありません。他者の振舞いは単なる外界からの刺激に過ぎませんし、その刺激に対してどんな反応を示す(感情を抱く)のかは、認知の世界の話です。それはポジティブな時もあればネガティブな時もありますが、自己肯定はその両方を良しとすることです。

例えば「あなたに褒められたから、もっと頑張ろうと思った私」、「あなたに助けてもらって、何か恩返しをしたい私」、「あいつに嫌味なことを言われて、見返してやると意気込む私」、「楽しみだった約束の日に天気が悪いだけで、落ち込んでしまう私」そういうのを全部、良しとすることです。

でも一つだけ誤解して欲しくないのは「自分が良しとすること」と「相手に良しとすることを求めること」は全く別の話です。

「ありのままの私」とは何者?

恋人や配偶者に求める条件というか、理想として「"ありのままの私"を受け入れてくれる人」というのは、しばしば使われる表現です。ここで言っている"ありのまま"とはどういうことでしょう。

僕は「ありのままの私」って自分の思いのままに、我侭に、好き勝手に振る舞うことではないと思っています。もっと高い次元で、自由に振る舞うことだと思っています。世間体を気にして善人ぶってしまう、でも時には自分の弱さを誰かに受け止めてもらいたいのにって悩んでしまう、それなのにあなたに気に入られたくて強がってしまう、そういうところまでひっくるめて「ありのまま」なんだと思います。

自分のなりたい姿があって、相手にこんな風に想われたいという感情があって、それは自分の心の奥の感情とは別のところにあったりして、そんな自分にちょっぴり勝手に苦しんでたりする。本当は全然善人じゃなくて、下心満載で、偽物の優しさものを振りまいてしまう。そんなんだって尊重されるべき自己だと思うんです。

例えばもし、相手にこう想われたいという感情も、自分の在りたい姿も、全部考えた上で「ありのままの私」が我侭放題に振る舞うことなのであれば、それはそれで良い。他者に嫌われるかもしれないという覚悟の上で、自己中心的な私を尊重したってそれはそれで良い。そう思います。ただし、私は自己中であると認めないが、あなたはそんな私を受け入れろ!というのは横暴です。(というところまで自覚してあなたに受け入れて欲しいと願う私、を尊重しても良いでしょう。以下無限ループ)

寄り道①僕は脚フェチなんです

本当に個人的な話。恥ずかしながら、僕は脚フェチなんです。とりわけお膝がお好き。デートの時、相手が膝が見えるような丈の短いスカートやワンピースで現れたら、嬉しくなってしまうし、ちょっと油断したらつい見惚れてしまいます。

僕の脚フェチという嗜好は、芸術品を鑑賞するようなニュアンスでは勿論ですが、正直に白状すれば性的な魅力も感じます。勝手にそんな目で見て、大変"気持ち悪い人"です。でも、そんなフェティシズムを抱えた自分も、それで良いかなって思って、"気持ち悪い"嗜好を大事に抱えたまま生きていこうと思っています。だって、綺麗な脚を美しいと思ったり魅力的に感じることが、間違っているとは思わないから。

ただ、自分では「脚フェチ」であることを肯定していますが、自分のフェティシズムを相手が(特に、勝手に嗜好の対象にされている女性からしたら)気持ち悪いと感じることは当然のことだと思います。自分のフェティシズムは「間違っていない」と思っていますが、だからといって誰かを恐怖や不快な気持ちにさせて良いわけではないのです。「僕が女性の脚に強く魅力を感じること」は間違っていないけれども、それは個人的なことで、恥かしいことで、秘匿するべきことです。他者から受け入れてもらえなくて当たり前で、もしも僕の嗜好を受け入れてくれる人が現れたとしたら、圧倒的感謝の雨を降らせないといけないくらいの奇跡なんです。

他者に自分の嗜好を押し付けない、自分の嗜好で迷惑をかけないようにすることと引き換えに、脚フェチである自分を許してあげようと思います。(美脚な方を見つけてもマジマジ見ないように気を付けます・・・・・・。)

蛙化現象と自己肯定

閑話休題。

「蛙化現象」という言葉、聞いたことはあるでしょうか?(グリム童話『蛙の王』を由来としており)片想い中は相手のことが魅力的に見えていたのに、両想いになったら相手のことを気持ち悪いと感じてしまう現象のことを言います。一般的には女性に多い症状と言われていますが、実際のところは大っぴらにしないだけで男性にも少なくないかもしれません。

蛙化現象の原因は、"自己肯定感"の低さにあるとして説明される場合と、相手への期待が高すぎた(恋に恋していた状態から冷静になった)こととして説明される場合があります。前者の場合は「王子様が蛙になってしまった」というよりも、そもそも「自分のことを好きな人」に対して嫌悪を抱いてしまっている可能性があります。

けれども、結局どちらの場合でも広義の意味で自己肯定ができていないことと、蛙化現象の発生が強く結びついているように思います。そして、その関係性は自己を肯定できないから蛙化現象が発生するという因果関係というよりも、表裏一体の関係であるように思います。

「相手のことを気持ち悪いと思ってしまった自分」を受け止めることができていない、ところに問題の本質が見えます。「自分のことを好きな人」に嫌悪を抱いてしまう酷い自分を(自分の期待と相手の本当の姿が違うことを)認めることができないから、自分は酷い人間じゃない(自分は間違っていない)。ならば相手が"蛙"になったから気持ち悪いのだとして解決しようとする。「蛙化現象を起こした自分」を尊重することができないことと、自己を肯定できないことは同じことなんです。

メタ認知の次元で自然現象を受け入れる

蛙化現象は単なる自然現象なので、別に大した問題ではありません。

私の他者に対する感情がずっと一定であるはずがないし、時には冷めてしまうことがあったり、自分の想像していなかった相手の一面を目にした時に、一瞬ウッと引いてしまうことがあったって、それは極々自然な現象なんです。確かにその事実は、人をずっと愛することができない私、相手の全てを受け入れることができない私の存在証明になるかもしれないし、「私の理想」と比較して間違った姿かもしれませんが、そんなのはあくまで反射みたいなものだから、単なる化学反応、物理現象と同等でしかないのです。重力のある世界において質量のあるものは落下する、というだけなんです。

ここで一番やってはいけないことは、蛙化現象を起こした自分を正当化するために、相手が本当に"蛙"であると思い込み、それを周りに見せびらかして「これは蛙だよね?」と確認して、周囲の反応によって自分は普通であると安心した気になることです。

もう少しリアリティのある言い方をすると、例えば相手が自分のためを想って(たとえそれが自分の望んだものじゃなくても)してくれた行為やメッセージの内容をSNSで晒す行為です。自己の正当化のために、他者を侮辱してはいけません。別に「私」は他者から見て正当である必要なんてないのだから、他者を侮辱する必要もありません。

寄り道②人の好意を無下に扱うのは酷いです

自分に向けられた好意に対する対応について。蛙化現象の話は相手がある程度自分にとって(少なくとも最初は)魅力的であった、という前提があります。じゃあ本物の"蛙"に好かれてしまった場合は?素直な感情として、純粋な認知として気持ち悪いと思ってしまうかもしれません。その感情自体は単なる自然現象です。誰に責められるものでもありません。

けれど、人の好意をぞんざいに扱うあなたは間違いなく酷い人間であるし、そのことは、あなた自身が責任を持たなくてはいけない問題です。ただし、一人で抱え込まないといけないわけではありません。蛙化現象の話で、自己の正当化のためにSNSに晒すのはやってはいけないことと書きましたが、酷いことをしているという自覚のもとで、人と共有すること自体は何の問題もありません。

でも、無自覚なままに相手を傷つけるようなことをすると、自分が誰かに好意を抱いた時に傷つくことになります。僕はそれを健全だとは思えません。

自己を肯定するために

閑話休題パート2。

自己を肯定する(=尊重する)にはどうすれば良いのか、その答えを僕は持ち合わせていません。誰にも通じる答えはどこにもありません。誰かが、どれだけもっともらしいことを言っていても、「それはそれとして私はこうである」が自己肯定の本質だから、誰かと全く同じ方法で達成するのは構造的に不可能です。だから方法論や提言ではなく、あくまでも僕の場合の話。僕が自己を尊重するために考えていること。

僕には僕の人生があって、他者には他者の人生があるということを理解しています。自分は特別な存在なんだとか、価値があるのだとか、そういう評価が必要なことはとりあえず考えません。広義の自己肯定は、別に特別でもない、他者から評価されない自己を尊重することだから。何か優れているとか、特別だとかいう意味ではなく、ただ単にそこにある客観的な事実として、「僕はあなたとは違う存在なのだ」ということです。そして、僕はあなたとは違う存在なのだから、あなたが僕のことを理解してくれないこと、受け入れてくれないことは至って自然であるということです。じゃあ別にあなたが(誰もが)認めてくれなくても、僕が僕を尊重することは論理的に何の矛盾も発生しない、ということです。

そうは言っても、何の根拠もなく(論理的には根拠が必要ないことを確認済ですが)自己を尊重するのは難しかったです。だから無差別に尊重することにしました。僕が好きとか嫌いとか、それを度外視して他者を尊重することにしました。僕はあなたとは違う存在なのだから、「僕が嫌いなあなた」を尊重することと、僕が僕を尊重することは論理的に何の矛盾も発生しないし、「僕が嫌いなあなた」が尊重されるならば「僕が嫌いな僕」も尊重してやって良いかなと、思います。

やっぱり素直な感情として、理解できない、共感できない、素敵だと思えない人って存在するんです。別に自分はそんなに出来た人間じゃないから。でも、「僕が認めらない他者」の存在を肯定するのであれば、「他者に認められない僕」を肯定して良いと思います。

つまり、自分の思考の公理の0番目に「全ての存在を尊重すること」と書いておくことにしたのです。僕は特別な存在じゃないけれど、特別じゃないなら「全ての存在」の例外になることも当然ありません。まぁもし、僕が特別な存在なんだとしたら、特別な存在であることを根拠に自己を尊重すれば良いし。そんな風に考えています。

相手に認めてもらうこと、自己を肯定すること

他者に褒められること、感謝されることで"自己肯定感"が高まるのは事実だと思うし、何の問題もありません。でも他者に褒められないから、感謝されないから自己肯定できないのは問題なのです。それって結局、「私のことを認めてくれない他者」のことを尊重できていないからです。

相手に認めてもらうこと、自己を肯定すること

この2つは近いようで、因果関係があるようで、時に矛盾を引き起こす危険を孕んでいます。「私のことを認めてくれない他者」を尊重しないと、私が私を尊重する根拠が揺らいでしまいます。だから僕は全く別のことだと思っています。僕にとってこの思想は自分の思い通りにならない相手への理解や、相手への感謝の根拠でもあって、凄く大切にしているものなんです。

僕の自己肯定感は、"思考の公理の0番目"を根拠にしています。これは、情報工学を学んできた自身のバックボーンから来ています。このnoteを読んでくれたあなたが、「私にとっての自己肯定感とは何?」そんなことを考えてくれたら凄く嬉しいなーと思いながら、結構長い記事を書いてしまったから文章校正するの面倒臭いなーと思いながら、締めくくりたいと思います。(メタ発言)

読了いただいた方、ありがとうございます。嬉しいです。最後に一つリマインドしておくのですが、僕は脚フェチなんです。

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