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私がワークショップ屋さんを始めた訳 2

前回からの続きです。

私は父の仕事の都合で何度か転校をしました。
行った先はどこも小さな町でしたが、一番思い出深い町の人口は当時で一万人。
人よりも牛の方が多い町でした。
その町には小学校も中学校も高校も1つずつしかなく、小学校から高校までほとんど同じメンバーで過ごします。
私のように転校していく人、高校進学を期に町を出る人もいますが、ごく少数です。
多くはその町か隣の大きな町で就職・結婚し、家庭を築きます。
そしてまた、その子供も小中高と同じ町で過ごすのです。
就職先は、商店や酪農などの家業を継いだり、役場や地元企業など。
たまに自分で店を起こす人もいますが、ごくごく少数です。
きっと、私もずっとその町に住んでいたら、高校卒業後は公務員を目指したのではないかと思います。
だって、他に仕事を知らなかったし、それ以外の道があるなんて知らなかったから。

私は札幌に住むようになって、様々なことを知りました。
自分が音楽が大好きだと言うこと、そのジャンルはヴィジュアル系やヘヴィメタルと言うこと。
コンサート会場で働く職種があるということ、そのための専門学校があるということ。
ほとんどの人が大学を出ているということ、自分にも行ける大学があるということ。
鉱物を売る店があること、文房具だけを売る店があること、テレビで特集されているようなものを売る店が北海道にもあること。
そして、どんな職業であっても、私も目指すことはできるということ。

まだインターネットもなかった頃に、本屋さんもCD屋さんもコンビニもない(町外れにセイコーマートが1件あったけれど)町で育った私は、何も知らなかったのです。
子供だったというのもありますが、道東の田舎育ちの父や母も札幌に来て初めて知ったり、実物に触れたりしたものは多かったはずです。
それ程、田舎には何もないのです。
生きるために必要なものは十分にあったし、楽しく幸せに暮らしていたけれど、世界を広げるためのものはテレビの中にしかありませんでした。
しかし、当時の私は、自分がそれらを知らないということすら、知りませんでした。

もちろん、その町で暮らしている人たちが不幸だという訳ではありません。
自分が望んで今の人生を歩んでいるのだから、それはとても幸せなこと。
だけど、もし、それ以外の人生も選べることを知っていたとしたら。
人生の分かれ道が実はもっとたくさんあって、自分の未来に続く選択肢はものすごくたくさんあることを知っていたとしたら。
その中から、今の自分に繋がる道を選べたら、きっと今よりもっと幸せに感じるだろうし、今とは違う自分に繋がる道の方に魅力を感じてそれを選んだとしたら、もっと自分にしっくりくる幸せを得ていたのではないかと思うのです。
「それしか選べない」のと「選んでそれにする」のは大きく違うはずだから。

前職場を辞めて、さてこの先どうしようかな、また履歴書を書いて面接するの嫌だな、そもそもまだ同じ職種で働くのかな、他に仕事って何があったっけ?と考えてた時に、頭の中に浮かんだのは「会社に所属しないっていうのも、ありだな」でした。
これは、田舎ではなかなか難しいことです。
じゃぁ、フリーランスで何をしよう?と、自分の過去を振り返りつつ、自分に何ができるか考えていたら、札幌に出てきたからできるようになったことがとても多かったんです。
田舎にいたら、フリーランスという働き方も、自分ができることも、どれも手に入らなかったし、仕事どうしよう?と考える時の選択肢に入らなかったのだと気づきました。
すごく当たり前のことなのですが、「知らないものは選択肢に入れられない」ということに気づいたのです。

昔語りが随分長くなってしまいました。
続きはまた明日書きます。

ここらへんの話や、これから書く予定の話をぎゅっとまとめて喋った動画があるので、よろしければご覧ください。


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