「いじめではなく迫害だ」嬉野さんの言葉の切れはし#68
今、いじめと呼ばれているもの、それは、「迫害」なのだと思う。
「いじめられている」という言葉は、「迫害されている」と変えるべきだ。
--嬉野雅道
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今、いじめと呼ばれているもの、それは、「迫害」なのだと思う。
言葉が違うのだ。
もう「いじめ」「いじめられている」ではないのだ。
今のこれは、もう「迫害」なのだ。
迫害されれば、人は生活ができず、死に至ることもある。
「いじめ」でこどもが死ぬのではない。
そんなものでは人は死なない。
あれは「迫害されている」のだ。
迫害されれば、人は死ぬ。
当たり前のことだと思う。
「おかあさん。ぼく学校で迫害されているの」
迫害ならば、情けない気持ちにはならない。
断固戦いあるのみ、と、思える。
「いじめられている」という言葉は、「迫害されている」と変えるべきだ。
まぁ、そんなことを思いましたから書きました。
いいかげんな男が、いいかげんな頭で書いてるだけですから、信ぴょう性はまったくないです。
たんなる、あてずっぽうの思いついたがままの話です。
--嬉野雅道
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3月11日、東京での
水曜どうでしょう藤村・嬉野×カツセマサヒコ編集長のイベント。
完売御礼!しかし案ずるな、少しだけ増席いたしました。
「腹を割って話すナイト 〜テレビとインターネット完全制覇の旅〜」