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スクラッチのすすめ

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スワイプしてはならない。スクラッチするのだ。
流すのではなく、こするのである。
それが文化に対する流儀だ。

時代は猛スピードで流れていく。この高度情報化社会においては尚のこと。大手メディアから個人の発信まで、各々が各々のビートをキーパンチし、液晶を叩いて打ち鳴らし、結果生じる不文律なリズムがポリリズムのようなダイナミズムをBPM230ぐらいで奏でている。ようやく追随する気になった新聞、雑誌、テレビといったオールドメディアもネットに文章や動画を載せてプレイするようになり、115ぐらいの時代とは半分のBPMで、なんとか大衆と調和を保とうとしている。時が進むのが速すぎるから普段の生活こそリラックスしたものが好まれ、かつての時代においては血気盛んの代名詞だった若者だってチルアウトした音楽や服装を求めるのである。「お洒落はヌケ感」などとはローマ帝国の時代から言われてきたことだろうが、今ほど「無い」ことがお洒落な時代はかつてあっただろうか。
シンプルであること。少ないこと、ヌケていることが洒落ていると見なされるのは、他の情報が埋めてくれるからだ。ヒップホップがロックンロールをポップスの帝王の座から叩き落しラッパーがビルボードを席捲するこの時代、カーラジオから流れてくるサウンドだって刻まれたチチチチというハイハットと断続的なクラップやフィンガースナップ、そこにラップがのったものばかり。そう、もはやリズムと声だけなのだ。ベースすらほぼ聴こえないか、リズムと完全に同期している。十年前はまだ重低音を効かせることが正義で、誰も彼もがブリブリしたベースをブワブワさせていたというのに、今やボトムもスカスカである。いや、スカスカというわけではない。ユーチューブやサブスクの設定で過度な低音は一律でキャンセリングされてしまうので、それでも低音を主張させたいエンジニアはより巧妙な技術を使ってベースを鳴らしている。この鳴らし方が音楽ジャンル自体を変えた。ブワブワではなくいまはボヨヨボヨヨだったりする。いずれにせよ、傍目からはより「ヌケ」たし、シンプルになった。
現代人は物凄いBPMで生きているので「待てない」。だから楽曲にしたって、イントロを「待てない」。間奏を「待てない」落ちサビを「待てない」アウトロを「待てない」なので曲の長さもどんどん短くなる。九十年代頃は四分台が多かったポップスは、今や三分を切り始めている。短いほうがフレーズの伝えどころが明確になり、SNSにも「切り出しやすい」。tiktokでバズるためには、切り出しやすくなければならないのである。そしてシンプルな楽曲は、インフルエンサーたちが各々好きなように撮った動画によって補完される。動画やコメントといった情報で補完されることで、初めて楽曲としての輝きを増していくのである。かつて、シンプルで余白のある曲ほどダンスフロアで好まれたように。余白があれば別の曲をマッシュアップしやすい。情報に情報を重ねる余地があるからだ。踊りやすい。シンプルなトラックに、肉体を……心臓のビートを重ねる余裕があるからだ。

君はこの世界を遊ぶ者、PLAYERである。生まれては消えていく大量消費の文化たちは(この呼び名は好きではないが)コンテンツたちは、RECORDだ。君は液晶に陳列された数あるレコードの中から一枚を取り出し、自分の思考の上にセットして針を落とす。ディスクが回転し、音楽が鳴り始める。君はちょっと違うなと思いレコードを止め、別のレコードをセットする。その繰り返しで一日が終わり、一年が過ぎ、ディケイドが積み重なって君を老いさせる。君は音楽を再生しては停止してきたこの十年間を思い、でもこれも青春だったかなとか思う。ちょっと待ってくれ。君は、一度でも音楽を聴いていただろうか? 一度でも歌詞を目で追ったか? アウトロで目を閉じ、誰かのMVではなく目に浮かぶ自分の思い出をギターソロに重ねたか? そして音楽に参加したか? レコードを遊び半分に(繰り返すが君は遊ぶ者、プレイヤーだ)こすってみたか? ただ左から右に流してはいなかったか?
石と石をこすると火が付く。性器をこすりあわせると何かが生まれる。刃物がこすれて肌から血が噴き出す。文化をこすると、また新たな文化が生まれる。文化に別の文化を重ねれば、新しい文化になる。欧米発のセーラー服やメイド服に日本特有の「アニメ」(animeであって、animationでもjapanimationでもない)を重ねると、KAWAIIになる。そのKAWAIIが別の文化圏で消費されることで、また新たな文化が生まれる。「文化盗用」を摘発するキャンペーンは散り散りになったレコードを本来のジャンル別の棚に整理しようとする試みだろうが、シルクロードの時代から文化とは絡み合い擦過していくものだった。確かに砂漠で商人を襲う盗賊は退治されるべきだが、人類史的な観点で見れば盗賊たちが意図せず広めたスパイスや衣類もあっただろう。盗賊たちの子孫が罪悪感を持つことは勝手だが、誰が誰の見解で盗賊を盗賊認定するのだろうか。リスペクトは大事。しかしパクリとオマージュの違いは? 都度考えていかねばならない。

とまれ、インターネットの棚には、正規ルートで流通されたものも盗品もゴミも、有象無象のレコードが突き刺さっている。妖しいブラックマーケットだが、ここでしか聴けない音楽があるのも確かだ。フィジカルが失われ、情報しかない貧しい時代ならば、せめてその情報をめいっぱい浴びたほうがいい。そして拾い上げたレコードを繰り返し聴きこみ、重要なフレーズをまとめサイトのガイドなしに見つけ出し、繰り返しこするといい。時代が貧しくなるのはフィジカルが少ないせいではなく、交わされる情報の質の問題だ。紙に印字された情報に液晶を流れていく情報が勝るためには、木を伐りパルプに変え溶かし裁断しインクを載せ綴じ梱包し流通するという手間、この膨大な手間が背負った情報の質量に比肩する熱量で「こすり倒す」ことしかない。面倒なぐらい向き合うのだ。めんどくさいリスナーになるのだ。そのためには言葉の裁断もカット&ペーストも良しとする。つぶやくのも踊ってみるのも良しとする。加工やレタッチOKだ。何かが吐き出されるまで(それが白いものであろうと赤いものであろうと)こすり続けるといいだろう。
時代の要望でシンプルにならざるを得なかったファッションや音楽に対する向き合い方は、シンプルでないほうがいい。九十年代のインターネット黎明期にサブカルチャー誌『スタジオ・ボイス』が繰り返し喧伝していた(にもかかわらずワードとしては浸透しなかった)「テキスト・ジョッキー」というコンセプト……誰もが文字を綴り発信できる時代において、アーカイブされた文章たちはサンプリングされカットアップされる……は、今こそ現実のものになった。いや、もはやテキストだけではなく、動画も音源も、つまり「メディア・ジョッキー」の時代だ。言葉も、音も、動画も、ファッションも哲学も、今こそこすり倒されるべきなのだ。時に傷つき、擦りむけるまで。

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