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春分で切り替え

ブログで自分の状態を書くことは今、わたしこんな状態と他人に知ってもらい、アピールする承認欲求と言われてしまうと、それが大当たり過ぎて書けなくなってしまっていました。笑

でも、書かないと前にわたしのところに来てくれていた人、これからご縁がある人に対して「わたしがここにいる」という看板を掲げることができなくなってしまうので、たまには書かなくちゃいけないと思って書きます。

自分を超えてすごい誰かになる。高みを目指すということをこれまでの人生では望んで生きていた。
だから、わたしがこれまでセッションで提供してきたものも、当然ながら過去の傷を癒す、自分の思い込みを見直す、自分の枠を広げる、自分を磨くというマイナスを埋めることが目的だった。

今を生きるのではなく、未来のありたい自分に向かうために過去を見直すセッションであった。

今のわたしは何かを目指すのではなくて、今のまま起こることをジャッジせず、否定せず、思考に入らずに何もせずに黙って観照することを心がけている。

見えるものは自分の悟りのために自分の真我が用意した完璧なものだという立場からものを見る。
悟りは今、この瞬間に気づくものだという。
わたしはまだ気づいてはいない。

ただ、思考の中にはないこと。
正しさの中にないことは分かってきた。
ジャッジはする側の問題だから、されることをあんなに恐れていたのに、気にならなくなった。
上を目指すことをしなくなったので、人と比較もしなくなった。

自分より扱いがいいとか悪いとか。
大事にされているとかされていないとか。
あんなに人にどう思われ、どう扱われるのかとこだわってきたことが少しずつ自分から剥がれ落ちている。

自分のプライドがよく見えるようになった。
それを守ろうとすることをしなくて済むようになった。ありのままを素直に見て体験するのだ。

ワンネスの世界には自分しかいないならば、本当は自分と戦って、競争して、否定しても意味がないんだよ。
と、いいつつまだその意識には至っていない。
ただ、それを目指そうとかいう焦りもなくて。

なんせ、自分の真我が作ったプログラムはそこへ至るために道を用意してくれているのだから
それを信頼して、不安になる思考に入らず、寛いで今に意識を向けていることだけ。

頭でまず理解したことを毎日の生活の中でチャレンジし、トライして、エラーして、再チャレンジしていく。


ふと、思い出したことがあって。
過去のわたしは自分を受け入れられなくてすごく自分を変えてきたんだなあ。
ミステリースクール時代の頃の30代のわたしはいつも焦っていた。
今に居られなくて衝動的で待てなくてとにかくなんでもすぐ答えが欲しい人だった。
スピリチュアルな人たちはハグをよくする。
嫌いでは無いけど、ゆっくりじっくり味わうハグをする人や名残惜しく見つめてくる人が苦手だった。
ヒーリングとかなんなら提供していたのにじっくり味わうなんて正直なことを言うとベタついて気持ち悪かった。

わたし自身がもともとはドライな人間だったような気がする。
感情が苦手で思考が優位で人と共感とかできないタイプ。宇宙人らしさを発揮していた。
温泉に入ってもリラックスできず、外からおかしく思われないように頭の中で数を数えながら、リラックスしたように振る舞っていた。

ミステリースクールを離れる頃には夫と結婚してインナーチャイルドを癒すワークを提供していた。
愛に満たされていたのもあったので、人の内側のいじけた子ども部分に触れていくので母性がある共感的な人にならなくてはいけないように感じて、そう振る舞っているうちに、なんとなくそんなキャラクターになった。
愛されたい人は簡単に搾取される。
「これをしてくれたらあなたを愛そう」という誰かの機嫌を取ってしまう。
わたし自身もこれに振り回されていた気がする。


それから愛されポンコツのキャラクターもわたしの中から発掘された。どれもわたしにある一面ではあるし、もちろん嘘では無いけれど、やはり周囲に受け入れてもらうために脚色して演じていた部分もあるように思う。
ポンコツだから、与えないけど許してねと前のキャラクターで与え過ぎた(愛を搾取していた)ことを止める宣言でもあったと思う。


その時々の体験すべきイベントに向けてキャラクターさえ変わっていくんだね。
もともとのキャラクターとしてリーダーっぽい部分、鋭い部分もあるんだけど、嫌われないように、嫉妬されないように、憎まれないように可愛く愛されキャラでコーティングしていた感じもするよ。

愛されること。所属しているところに受け入れられること。自分を認めてもらうこと。
うまくやるためを中心にぐるぐる回っていろんなキャラクターを旅したように思う。
で、「うまくやるために周囲にエネルギーを向けること」をやめるようにしたら、そんなお芝居をしてきたことに気がついた。

自分の周りに砂糖コーティングして、クリームつけて、かわいくフルーツ飾って。
自分がもともとスパイスケーキだったことを忘れてしまったと気がついた。


でもね、その旅も意味があったと思う。
無駄なくだらないことのようで必要だったと思う。
いろんなやり残したことを一つ一つ終わらせている。たぶん。
昔は受け取れなかった人の優しさを感じ取れるようになり、共感はしつつ、黙って見守ることもできるようになった。

ジャッジもしなくなった。
だって見えるもの全てが自分のためのプログラムだとしたら、自分が作っているのに、文句言うのはおかしいからね。
文句を言わなくてはいられない、思い通りにしたい傲慢な自分、人の許可が必要な怖がっている自分、人を利用している損得を考える自分が出ちゃっているって証拠になってしまう。
やばっ。恥ずかしいっ。

悟りの状態の完璧さから自分を見る。
全託から今を見る。
足りない部分もそのプロセスが大切。
そんな感じでいます。
わたしの力がお役に立つとピンと来た時には
セッションを受けてみてください。




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