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四十八文字の話『ノ』「乃木希典」(のぎまれすけ) 将軍 私には「名将」( めいしょう ) だとしか思えませんね。

皆さん、今回は日露戦争 ( にちろせんそう )、明治時代の英雄であった「乃木希典」将軍の話をさせて頂きます。

その前に皆さんに確認させて頂きますが、古来から伝わる日本全国にある【地名】。ご自分が今住んでいる所にも勿論「町名」「地名」が有りますよね?

この【地名】と言うものは、いつ?、誰が?、何の権限で付けたのか?、想像した事有りますか?

川が近くあるから「川田町」とか、山の麓だから「山本村」だとか、「八幡神社」の近くだから「八幡町」だとか、色んな場合が有ります。

ですが、「そこの【地名】は、この日本に、実在の人物の名が、正にそこに住んでいたから名付けられた」と言った事例が実際にあると聞くと、皆さんはどう思います?


話の趣旨、見方を変えてみますね。

皆さん、逆を想像して下さい。

昨日まで住んでいて慣れ親しんでいた自宅の町名が、明日からは近所に住んでいた「○○さん」の名前を使用して「○○町に変わる」と聞いた時、どう思います? 


「何で?」

「勝手に変更しないで」

「何で変更するのか、詳細を説明しろ!」、等々

色々とご意見が出てきて当然です。私もそう思います。

ですがこの日本には、地名が実際にそこに住んでいた方の名前が付けられた土地が存在します。


⚪正に「人名」が「地名」になった稀( まれ ) なケース


日本の大和時代や古墳時代など古代の時代ならばそういう場合があったかもしれません。ですがその時代でも、ある人物、ある一族が移り住んだその【地名】を自分達の姓にした、というパターンが殆どだと思われます。

それが日本の近代、江戸時代から明治時代に生きた実在の人物の名が、大正時代に東京のある地域の【地名】となります。

何故か? 誰が決めたのか?

それは、大正元年 ( 1912 ) 当時の東京市赤坂区 ( 現在の東京都港区 ) の「区議会の議決」により決定しました。

現在なら当然反対運動などがあって当然だと思いますが、この議決がすんなり決まり今現在の「令和」の時代にも継承されている事実を推察するば、この議決に対し、不服を述べる人は殆ど居なかったのでしょうね。



皆さん、もうお分かりでしょうが、その【地名】は

乃木坂 ( のぎざか )

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そしてその地名の元となった人物が日本陸軍大将「乃木希典」( のぎまれすけ ) 将軍です。

現在の地下鉄千代田線「乃木坂」駅の近くに「乃木将軍の邸宅」が現在でも大切に保存されています。一帯は公園になっており、文字通りの「乃木坂」を少し下ると乃木将軍を祀っている「乃木神社」がご鎮座しております。


○年に三回公開されている「乃木邸宅」

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○桜の頃の公園

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この方は、ご自身の名が【地名】なるほど、当時の人々から敬愛されていました。


○「乃木希典」将軍

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⚪「明日からは徒歩で登校しなさい」

乃木将軍は、その名を世界中に知らしめた「日露戦争」が終わった後も軍事参議官として軍務にあたってました。


そんな時、「或る方」から、「或る要請」が届きます。

その或る方とは、時の天皇であられた「明治天皇」。


「孫の面倒を見てくれぬか」


「孫」とは、「迪宮裕仁親王」( みちのみやひろひとしんのう  ) 、 後の「昭和天皇」です。


○第百二十四代「昭和天皇」

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次年度に学習院に入学される予定であった親王の教育を「明治天皇」は将軍に託されました。

ご自身も「明治天皇」からのご恩に報いるため、という気持ちが有ったのでしょうね。その要請に対し、第十代の「学習院院長」に就任されます。


「明日からは徒歩で登校しなさい」


皆さんもお分かりでしょうが、今現在でも、警備上等の理由もあって、皇族の方々は車で移動します。勿論この時の、まだ幼少であられた「昭和天皇」も同じです。

ですがそれに対して乃木さんは、「徒歩で登校しなさい」と指導します。

その指示に従い、その日以来からまだ幼かった「昭和天皇」は、赤坂の東宮御所 ( とうぐうごしょ ) から徒歩で目白に有る「学習院」まで登校する様になります。雨の日も、風の日も。


僭越で申し訳ないですが、この話は乃木院長が「昭和天皇」に対して指導したほんの一つの小さい例だと思われます。世間には知らてはいない、まだまだ数多くの「ご指導」が有った事でしょうね。


「昭和天皇」がその後の正に我が国「日本」に襲いかかって来た、数々のピンチの連続を何度もくぐり抜け、日本国民を今現在の平和な国に導いたその「素養」には、この幼少の時代に「乃木将軍」から受けた【薫陶の賜物】( くんとうのたまもの ) が有ったからだと思います。


⚪その後も幾多の日本人を導いた乃木将軍


乃木将軍が【明治天皇】の大喪の礼( たいそうのれい ) 、つまり「国葬」が執り行われたその日に、天皇の後を追って、ご夫人と共に「殉死」( じゅんし ) されましたが、その三日前に「昭和天皇」は、弟君の「秩父宮」( ちちぶのみや ) 様、「高松宮」( たかまつのみや ) 様と共に将軍とお会いしてます。


その時の将軍はいつもと同じ様に、幾つかの書籍を読む様に薦めました。

「江戸時代の【 水戸学 】の学者、【 三宅観瀾 】 ( みやけかんらん ) が著した【 中興鑑言 】( ちゅうこうかんげん ) を読みなさい。天皇になる人物が是非とも読むべき書物。この日ノ本で果たすべき【役目】が書かれていますよ。あっ、そうだ、同じく江戸時代の儒学者である【 山鹿素行 】( やまがそこう ) が書いた【中朝事実】( ちゅうちょうじしつ ) も是非とも読みなさい」、と指導していた将軍。


○幼き頃の宮様達 左より、「昭和天皇」「高松宮」「秩父宮」

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この時まだ十一歳であられた「昭和天皇」。

ですが、どういうわけか、何か普段の将軍とは違う雰囲気に気付き、「院長閣下 ( 乃木さんへの呼び名 ) 、どこかへお出かけするのですか?」、と尋ねたそうです。

それがその三日後にそれが現実となるのは、皆さん、ご存知ですよね。

その一報を聞いた時の「昭和天皇」のお気持ちは、如何ばかりかと。


○「殉死」されたその日の朝の風景。普段通りに乃木坂邸宅で寛ぐ ( くつろぐ ) 「乃木ご夫妻」 ※これが生前の最後の写真となります。


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○「 西竹一 」( にし たけいち ) 陸軍大佐

まだ太平洋において日米戦争が起こる前、昭和七年 (1932) に開かれたアメリカでの「ロサンゼルス=オリンピック」。
そのオリンピックにおいて「英雄」となり、「バロン ( 男爵 )   ニシ ❗」と称えられた、日本馬術のオリンピック代表。


この人物、戦前までこの日本に有った「華族 ( =貴族 ) 」の階級の方でありました。

ご自身の父親と同じく「外交官」になる事を目指していましたが、

乃木将軍の言葉である、

「華族たる者、是非とも国を守るべき役割を果たすべき」

との教えに影響され、軍人となります。


その後自身の希望も有り、日本陸軍の騎兵隊に配属され、馬術を腕を磨き、ロサンゼルス=オリンピックでは数々の強敵を破り、見事に金メダルに輝きます。

西中尉 ( 当時 ) と愛馬「ウラヌス号」


その勇姿を目の当たりにした当時のアメリカ人の心を鷲掴みし、「ロサンゼルス=オリンピックの英雄」として称えられました。


この様に【乃木将軍】の存在は、当時は勿論の事、その後の日本人に多大な影響を与えます。



⚪欧米と日本の評価の違い

これ程の人格者であった乃木将軍。

これ程の乃木将軍に関して、こと「軍人」として「将軍」としての評価となると、どういうわけか?、「名将」と「愚将」の二つに分かれてしまいます。

特に顕著なのが、欧米諸国と日本との評価の違いです。

欧米諸国においてはほぼ「名将」とされています。

特に日露戦争における「旅順要塞」( りょじゅんようさい ) 戦。

当時の最精鋭のヨーロッパ軍隊でも攻略するのには「三年の年月が必要だ」と言われていた、当時の【技術の粋】で作られたその要塞をたった【半年❗】で落としました。

これには当時の欧米の方々、特に軍人、軍部関係者は、「ド肝❗」を抜かれた事でしょうね。

それまで誰も気にもしてなかった極東の小さな島国が、最新技術で作られた要塞を超短期間で落としたのですから。


「あの小さい島国が? どうやったらあんな小さい国の軍隊がそんな事出来るんだ?」

「誰だ? 一体その司令官はどんな人物なんだ?」


当時のロシアは欧米列強の中でも「最大の陸軍国」です。そんな国が作ったご自慢の要塞が陥落したのですから、おそらく諸国の軍部当局内はかなり右往左往、混乱したと思われます。何せインターネットなんかない時代ですからね。


「本当なのか?、誤報ではないのか? とても信じられない」


○「乃木将軍」 ※「映画  二百三高地より」 右側の俳優、仲代達矢 ( なかだいたつや ) さんが演じました 。左は「児玉源太郎」将軍役の、丹波哲郎 ( たんばてつろう ) さん。

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片や我が日本。我が国における評価は概してそんなに高くないのが現状です。何でかね?

それには色んな理由、原因が有りますが、その辺の所をこの『ノ』のブログ内で述べていこうと思います。


⚪低評価の原因①「連隊旗」を奪われる

「乃木希典」将軍は、嘉永二年 ( 1849 ) 長州支藩の周防藩江戸上屋敷で誕生します。

その後周防藩に戻ります。隣の長州藩萩には乃木家の親戚筋に当たる「玉木文之進」( たまきぶんのしん ) と言う当時の萩ではかなり有名な教育者、兵学者がいました。

皆さんも聞いたことがあるであろう「松下村塾」 ( しょうかそんじゅく ) 。幕末に「吉田松陰」( よしだしょういん ) の指導の下、幾多の歴史に名を残す人物達を輩出した有名な塾です。


○「松下村塾」

松下村塾


「吉田松陰」の名が余りに拡がり過ぎて「松陰が建てた塾」のイメージが有りますが、実はこの塾を創設したのはこの「玉木文之進」です。またこの方、その「吉田松陰」の叔父でもあります。


まだ若かった将軍はこの方に師事します。

そして「明治維新」を経て、薩長中心の「明治政府」が出き、将軍は創立まもない「帝国陸軍」に入隊します。

この乃木将軍。生来の持病からとか、その後の不幸な怪我のためとか色んな諸説が有りますが、自身の「左目」は殆ど見えていなかった❗ようです。それは軍人としての、将来は司令官を嘱望されたであろう人物にとっては致命的な要因ですが、時代の要請なのでしょうか? そのまま軍司令官への道を歩みます。

そして明治十年 ( 1877 ) に起きた西南戦争( せいなんせんそう ) 。 薩摩の反乱士族による内乱に対し、明治政府軍に所属していた将軍は連隊長として鎮圧に向かいます。

そしてあろうことか、その交戦の中、自らの「連隊旗」を敵に奪われる失態を演じます。

天皇から下賜された連隊の象徴である「連隊旗」を奪われるという事は、物理的に勝っていても、象徴的には負けに等しい扱い事。

これが「愚将」と言われる一つの要因です。

確かにこれは軍人として、連隊長としての失態になるのかも知れません。

国民的歴史作家、故「司馬遼太郎」( しばりょうたろう ) 氏の小説「坂の上の雲」( さかのうえのくも ) や、また同じくこの方の書いた随筆等にはこの一件について、かなり手厳しい内容で書かれている印象が有ります。


ですがこの事件によって「帝国陸軍」から追い出されたわけでもなく、結果は勝利したのですから、実は当時の時点では、巷から聞く程そんな大問題ではなかったのではないか、という気がします。

「じゃ、何故【連隊旗】を奪われたんだ? やはり軍人としての【才】がないからではないか?」と言われる方々が居る様です。


ですが、こういう話が有るのをご存知でしょうか?


「連隊旗」という存在が神聖化されるのは、この明治初期の「帝国陸軍創立」から、ある程度の時期を経た後の話であり、まだこの当時はそれ程に崇められていなかった、と言う事です。もしこの事件が「昭和時代」に起こったら「大問題」だったでしょうけど。

「でも戦闘中とは言え、物を盗まれたのは事実だ。連隊長自身が戦いの最中にも拘わらす戦闘に集中してなかったのではないのか? ならば【軍人としての資質】は如何なるものか?」と、更に言われる方々がいる事でしょうね。

ですが将軍の名誉の為にも言っときますが、【軍人としての資質】が無いとは言えないと思います。

確かにご本人は一時期「軍人」になるか、それとも「学者」になるか、悩んでいた時期が有ったそうですが。

幕末に起きた「第二次長州征伐」において従軍した若かりし将軍。後に首相にもなった「山縣有朋」( やまがたありとも ) の下、激戦の九州小倉方面の戦いでは、幕府側の小倉藩居城「小倉城」の落城に一番乗りを果たしています。


ですがこれは飽くまでも推測に過ぎません。「連隊旗」を奪われたその原因、理由が有るとすればこれかな、と思われる事は無いことは無いです。

それはこの「西南戦争」のわずか三ヶ月前に起こった事件「萩の乱」( はぎのらん ) です。


⚪「萩の乱」

この当時「明治時代」初期の頃は、各地で、特に西日本で、不満士族による反乱が起こっていた時期です。主な乱は以下の通り。


🌕「佐賀の乱」( さがのらん ) 明治七年 ( 1874 )

旧佐賀藩士でその頭の良さから「切れ者」と称された、初代司法卿「江藤新平」( えとうしんぺい ) を中心とした反乱。

この方はこの日本に近代司法制度、裁判所制度を作り上げました。また今現在でも日本全国にある「派出所」「駐在所」といった「交番制度」を作ったのもこの人です。

ですが乱に敗れ逃走している中、自分が築き上げたその「交番制度」により、あえなく捕縛されてしまいます。何とも皮肉な話ですね。


「江藤新平」

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明治九年 ( 1876 ) に入ると更に反乱の勢いは大きくなります。

🌕「神風連の乱」( しんぷうれんのらん )

「西南戦争」の直前、熊本で起きた乱。教育や思想の違いから派生した一派、「国学」と「神道」を重視する士族が起こした反乱。


🌕「秋月の乱」( あきづきのらん )

「神風連の乱」に呼応して、福岡の旧秋月藩で起きた乱。この乱の鎮圧には当時の小倉に駐屯していた第十四連隊の連隊長、乃木少左も出動してます。 


そしてほぼ同時期に起きたのが「萩の乱」( はぎのらん ) 。「神風連の乱」、「秋月の乱」と呼応したと思われます。


「萩の乱」首謀者 元参議「前原一誠」( まえはらいっせい )

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🌕申し訳ないですが、話が少し逸れます。

このほぼ同時期に、立て続きに起きた反乱に、まだ創設間もない「帝国陸軍」や「警察」だけでの対応では限界が有りました。それで頭を痛めていた明治政府。

この当時、これらの反乱に直接の対応を余儀されていた、今で言う「警察庁長官」に当たる「大警視」( だいけいし ) に任にあり、後に「日本警察の父」と呼ばれたのが薩摩の 「川路利良」( かわじとしよし ) 。

この人が「一体どうしたものか」と連続する反乱の対応に頭を悩ませていたある日、何気なく見つめた「日本地図」。地図を眺めていると【ある地域】に目が止まりました。そこは現在の福島県。

ある妙案が浮かびます。

「ん、そうだ、会津だ❗。おい、今、佐川…、【鬼の官兵衛】( おにのかんべえ  ) はどこにいる? 何をしている?」


○「川路利良」

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「鬼の官兵衛」とは、世が江戸から明治に移る「戊辰戦争」( ぼしんせんそう ) の時、その勇猛さから、味方の「江戸幕府軍」は勿論、敵の「薩摩長州軍」を心底に震撼させる程の人物であった、旧会津藩士「佐川官兵衛」( さがわかんべえ ) の呼び名です。


○「佐川官兵衛」( 写真中央 )

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かつての敵でありながらもこの時窮地に陥っている明治政府。

「是非とも、力を借りたい。何とか呼べないか❗」

当時旧会津藩の方々は、青森県の下北半島「斗南藩」( となみはん ) に移住させられていました。( 当の「佐川官兵衛」は「会津」に残っていたと聞いてますが )


かつての敵、辛酸を舐めさせられた相手から依頼に対し、当初「佐川官兵衛」は断ります。

それはそうです。何せあの戦の後、一体どれだけの苦労してきたか、それを想えば簡単には応じないはずです。

そしてその後、旧会津藩士達との宴 ( うたげ ) が有った時。

その宴で久し振りに楽しく呑んでいた佐川の前に、それまで歓談していた旧会津藩士達の全員が一斉に頭を下げ、こう言います。


「この度の政府からの要請、これを受ければ更に百人程の者を国家が採用するとの事。確かに旧敵からの依頼に応じるのは口惜しい限りです。更に依頼元の【川路利良】は憎っくき薩摩人です。お気持ちは察します。我々も同じです。ですが、今我々は見ての通りの【困窮の極み】。明日の生活もどうなるか、分からない状態です。ここは恥を忍んでお願いします。佐川様、どうか、どうか、政府からの依頼を受け入れて下さい。」


こんな事まで言われてしまえば、【鬼の官兵衛】と呼ばれた佐川さんも断れませんよね。

その後、旧藩士約百人と共に上京します。( 最終的には三百人程の旧会津藩士が上京した様です )  そして間もなく起きた「西南戦争」に出動します。


旧会津藩士達。相手はあの「戊辰戦争」で辛酸を舐めさせられた薩摩士族です。「ここであの時の仇を討つぞ」と相当意気込んでいた事でしょう。旧会津藩士達の活躍は、多大な力を示しました。

この戦いの最中、【鬼の官兵衛】は戦死してしまいます。ですが、その活躍の様子は同じ九州の大分に「顕彰碑」として残っています。


○明治二十九年 ( 1896 ) に当時の「会津中学」( 現在の福島県立会津高等学校 ) を訪れ講演した時の将軍。( 前列左から三人目 )

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佐川官兵衛彰顕彰碑 ( 大分県護国神社 )  ( TO  KAZUSA より) 

☀️東北の会津の人物が、遠い、何の縁もない九州の大分で「顕彰されている事実」は、かなり凄い❗事ではと思います。

https://kazusa.jpn.org/b/archives/1732



話を戻させて頂きます。

明治九年に起きた「萩の乱」。

乃木将軍にとっては「萩」は第二の故郷、と言っても過言でありません。多くの知己、友人、親戚が居るのですから。

この乱も鎮圧されます。ですが、将軍にとっては身が引き裂かれる結果となりました。

実の弟、玉木家に養子に入っていた「玉木正誼」( たまきまさよし ) を亡くします。弟は正に「萩の乱」に加わっていました。

乱が起きる前、「兄上、どうか力をお貸し下さい。」と何度も面会に来ていた弟。政府軍にいる立場上、将軍は口が裂けても「うん」とは言えません。

その弟を失います。

そして恩師である「玉木文之進」。

将軍が敬愛していたこの恩師。「萩の乱」にご自身が育ててきた多くの教え子達が加わっていた事に責任を感じ、自ら腹を切ります。


こんな事があったわずか三ヶ月後に起きた「西南戦争」。

まだ年若い乃木少佐です。肉親や恩人、そして多くの知己を亡くした「萩の乱」のショックからまだ立ち直れない状態だったではないでしょうか。そんな時に「連隊旗」を奪われてしまったのです。


この二十八年後の「日露戦争」においては、正に、ご自身の実の息子を二人も戦場で亡くしながらも、見事に職務を果たし、難航不落といわれた「旅順要塞」を陥落させ、日本を勝利に導き、世界中から絶賛された将軍。

全くもって僭越ですが、この時の「萩の乱」で肉親、知人を失うほどのショックを受けたであろう将軍でしたが、この時の、この尊い経験が有ればこそ、その後の「日本を救う」結果に結実したのではないでしょうか。

ならば「連隊旗を奪われた」などのホントに小さい一件を、一体いつまで「あ~だ、こ~だ」などと固執する、こだわる必要が有るのかな~?、と思いますね。


⚪低評価の原因②「旅順要塞戦」( りょじんようさいせん ) の死傷者数

明治三十七年 ( 1904 ) に起きた「日露戦争」。

当時の先進地域「欧米諸国」の中でも、最大規模の軍事力を誇る「ロシア」に対し、極東の小さな島国、ホンの三十七年前までは「ちょんまげ」、「士農工商」の時代だった我が国「日本」。

誰がどう考えても「日本」が勝つなど、誰も想像出来なかったと思います。それが、「陸」で「海」で見事に勝利したのですから、ホントに凄い事だと思います。

勿論「乃木将軍」も「第三軍」( 兵力 六万人) の司令官として攻め込みます。そして冒頭で記した通り、難航不落「旅順要塞」を見事に陥落させ、世界中にその名を轟かせます。


○「旅順」の位置

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「旅順を落とすには三年は必要だ」と言われていた、当時の技術の粋を集めて作られた「旅順要塞」をたったの「半年」で陥落させた「乃木将軍」。


ですが、その半年あまりの戦いで、「第三軍」の死者が約一万にも及びました。

この人数「日露戦争」全般の死傷者ではなく、あくまでも、「日露戦争」全体から俯瞰 ( ふかん ) すれば、一つの「局地戦」( きょくちせん ) にすぎない「旅順」での人数に過ぎません。

この期間でこの数、日本軍の犠牲を惜しまない、敢闘精神が成しえたと思います。



○映画「二百三高地」より

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ですが、当時の日本国民には、この被害の大きさにさぞ驚いた事でしょう。

男性一人が亡くなれば、一体何人の人が悲しむか?

父母、祖父祖母、兄弟姉妹、妻、子供……。

だから実際国内では、いつまで経っても「旅順要塞」を落とせず、被害ばかり大きくなる事態に、国民世論は「乃木将軍」に非難轟々 ( ひなんごうごう ) 、そしてあろうことか、ある暴徒達が赤坂の「乃木邸」に押し掛けて石を投げ、家の硝子を壊す行為などに至ります。

ですが大変酷い話になって申し訳ないが、敢えて言わせて頂くなら、これは当時の国民が【要塞戦】の現実、【要塞戦】の恐ろしさを知らなかったためだと思われます。


⚪「要塞戦」の恐ろしさを知らなかった日本国民


「旅順要塞戦」は、昔からの日本国内にて行なわれていた、戦国時代は勿論、それまでの日本人が体験してきた、いわゆる「戦」( いくさ ) とは、全く異質なものです。

皆さん、想像してみて下さい。

実に「厚さが二メートル❗のコンクリート」で固められた「近代要塞」を相手にした戦いです。

太古からの、有史以来からの日本人が今だかつて誰一人として体験していない、初めての戦いです。江戸時代が終わって僅か三十七年。そもそも「コンクリート」が一体何たるものか、実際見た方は何人いるのか?


○映画「二百三高地」より

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日本の戦国時代の話になりますが。

「城」に籠った相手に対しての数々の「籠城戦」( ろうじょうせん ) が有りましたよね。

例えば、「上月城の戦い ( こうづきじょうのたたかい ) 」( 毛利氏 × 尼子氏 )、「鳥取城の水攻め ( とっとりじょうのみずぜめ ) 」( 織田信長配下 : 羽柴秀吉 × 吉川氏 ) など。ですが違う面から見るとこれらの戦は、「籠城戦」というよりも「兵糧攻め」( ひょうろうぜめ ) という戦い方です。

城を包囲し、物質や食糧の流通を遮断。城内に籠った敵が飢えに耐えかねて降伏するのを待つ、といった戦法です。これは後世に語り継がれる「英雄談」とは成りにくいですが、実際目の前の敵に勝つための戦法としては、「理屈無し」にかなり有効な戦い方だと思われます。

でもこの戦い方、敵が腹をすかす、音を上げるまでは、ある程度の時間、期間を要します。「上月城の戦い」は三ヶ月、「鳥取城の水攻め」は四ヶ月掛かりました。

「要塞」は言うなれば「城」と同じの事。ですから、この時も確実に、そして少ない被害に押さえて勝てる戦い方をするならば、この「旅順要塞戦」も「兵糧攻め」にして、敵のロシア軍が両手を上げ降伏してくるのを待てば良かったかもしれません。実際「旅順要塞戦」が終わった後のロシア軍の状況は、食糧は不足し、息も絶え絶えの状態でした。

ですがこの時、この時の「旅順要塞」を攻める「第三軍」にはそんな時間的余裕など有りません。

何故かと言うと、この時、日本から遥か遠くの欧州から、大西洋~インド洋~東シナ海を経て、日本海に向かっているロシアの主力艦隊「バルチック艦隊」が近づいていたからです。


○遠く欧州からやって来る「バルチック艦隊」

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「旅順要塞」のお膝元には「旅順港」という港が有り、そこはロシア「東洋艦隊」の基地であり、多くの軍艦が停泊してました。

「バルチック艦隊」が到着するまで戦力を保ち、そして到着の後は共に共同しながら、日本近海に圧迫を加えて「日本海軍」を「挟み撃ち」との戦略が有ったと思われます。ですので、ロシア「東洋艦隊」は旅順港に閉じ籠ったきりで、決して港外に出て来ません。

このままですと「日本海軍」は、迫り来る南方からの「バルチック艦隊」と、旅順港に引きこもったロシア「東洋艦隊」を同時に相手にしなけばなりません。

船の数が約二倍の相手を正面からと背後から同時に対応しなければならず、これでは「日本海軍」にはまず勝ち目は有りません。

だから海軍は早くから「旅順を落としてくれ」との要請を陸軍に伝えていました。


○旅順要塞陥落後に行なわれた「日本海会戦」。挟み撃ちの憂いがなくなった日本海軍は、全力で「バルチック艦隊」に向かいます。

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慣れない「要塞戦」、そして「海軍からの要請」が、この戦いでの被害をより拡大させたかと思われます。


○映画「二百三高地」より

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更に言わせて頂けば、「要塞戦」と言うのは、概して被害が大きくなるのは、世界の常識です。

例を上げさせて頂ければ、それはこの五十年前、欧州で起きた「クリミア戦争」。南下してくる「ロシア」と、「イギリス」「フランス」「オスマン=トルコ」連合軍との戦いです。

「クリミアの天使」とも言われた、有名な「ナイチンゲール」が活躍した時の話です。


○看護士として傷病兵の看護にあたる「ナイチンゲール」

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この戦いでもやはりロシアが築いた「セヴァストポリ要塞」の攻防戦という戦いが有りました。「日露戦争」が起こる五十年前の話ですからこの要塞はその五十年後の「旅順要塞」に比べれば、技術的にはまだ乏しく、要塞としての品質はかなり劣っていたと思われます。

ですがこの要塞戦においては、実に約「十二万人❗」もの兵隊が死傷してます。


日本人が初めて体験する「近代要塞戦」。

まだ「戦車」や「爆撃機」などが存在してない時代。

当時の歩兵の軍装備などを考慮すれば、コンクリートで固められた要塞に、「完璧に対応しろ、被害を最小限に押さえろ」と言う方に無理があるではないでしょうか?


○映画「二百三高地」より

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🌕上記「クリミア戦争」は勿論の事、歴史的に観ても過去から「ロシア」の脅威、侵略を受けていた「トルコ」。その難敵を破った日本。そして日露戦争を勝利に導いた「乃木将軍」の話を聞いて、同じアジア人であるトルコの人々は、驚愕します。「信じられない、あのロシアを破るなんて」「出来れば自分の子を【ノギ】の様な勇者にしたい」との想いからでしょうね。この当時、トルコでは自分の子供に「ノギ」と名付けた方々が実に沢山いました。


⚪低評価の原因③ある【命令】により、目標を「二百三高地」に絞る戦法に変更し、その結果「要塞」を攻略出来た。


「第三軍」はそれまでの戦い方を変更します。

今までの要塞全体を全面的に攻めていた戦法から、目標を要塞の一箇所、「旅順港」を見下ろせる「二百三高地」( にひゃくさんこうち ) にだけ絞ります。

そして大砲による集中砲火。要塞からは手が届かない遥か後方からの大規模な大砲による攻撃に対し、流石の要塞もどうする事も出来ません。


○映画「二百三高地」より

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砲弾を撃たれた後に進軍した来た日本軍の前に、「二百三高地」は陥落します。

そしてその「二百三高地」から「旅順港」を見下ろしての計測により、港に停泊していたロシア「東洋艦隊」は、「留弾砲」( りゅうだんほう ) の「高地越え」の砲撃により壊滅状態となってしまいます。


○「二百三高地」から見下した「旅順港」の風景 映画「二百三高地」より

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この時「旅順港」の近くには「ロシア人街」があり、多くのロシア軍関係者、家族達が住んでいました。その目の前で、味方軍艦がどんどん沈んでいく様をどんな気持ちで見ていた事でしょうか? そしてこれがロシア軍、ロシア人達の心に、「もうダメだ」( 戦意喪失 ) の心情を招いたと思われます。

🌕この「旅順港」への砲撃。この砲撃は、あくまでも停泊していた「軍艦」に対するものであり、戦闘員ではない民間人が住む「ロシア人街」には一発も落としていません。作家の故「司馬遼太郎」( しばりょうたろう ) 氏はこの状況を「この時代、まだまだ【武士道】が生きていた時代」だと評しています。


ですが皆さん、この戦法変更は、「乃木将軍」や将軍が率いた「第三軍」参謀 ( さんぼう ) 達が考えたわけではなく、苦戦を見かねたてやって来た満州軍総参謀長「児玉源太郎」( こだまけんたろう ) 将軍の【助言】、というよりも【命令】による変更で、将軍はただそれに従い行った事によりで成功した、と言われています。


○「児玉源太郎」将軍

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つまり、「児玉将軍」の【命令】がなかったら「旅順要塞陥落」は不可能であった事になりますよね。ここにも将軍の【軍人としての資質】が問われてしまいます。


ですがどうやらこの一件、「何の根拠もない」様です。

「児玉将軍」が旅順まで赴いたのは事実ですが、この時その様な【命令を出した】という記録は、どこにも残っていないのが事実の様です。

ですがここでもこんな事を仰る方々がいます。

「その様な記録が残っていないてからと言って【その命令】が無かったと言えるのか?、作戦変更などは【重要な軍事機密】扱いにされたため、記録として残っていないのでないのか」、と。


ですが私はこう思います。

この【作戦変更】がもし【児玉将軍による命令】によるならば、「児玉将軍が来て以来、何やら【第三軍】の攻め方が変わったぞ!」っと、それまで「旅順攻略戦」を観戦していたであろう諸外国の観戦武官や、そして現地まで来て取材をしていた多くの欧米諸国マスコミ達がこぞってその内容をすぐに世界中に流したはずです。

ですが、現在のアーカイブでも、そんな情報すら存在してない様です。


ではこの作戦変更、「旅順要塞」を陥落させる要因となった「二百三高地」の一点集中攻撃の命令を出したのは一体誰なのか?

それはやはり「乃木将軍」、そして「第三軍」の参謀達ではないでしょうか。

そしてこの【上層部の決定】を信頼し方針に従った、「士官」以下の、実際に前線で戦った兵士達の奮闘。

これが「旅順要塞」を陥落させた【原動力】だと思います。


⚪「小説」は飽くまでも「作家のフィクション」にすぎません


この「児玉将軍」による作戦変更に関しては、昭和四十三年から新聞に連載され、「日露戦争」「二百三高地」を題材にして書かれた小説【坂の上の雲】( さかのうえのくも ) で述べられております。

この小説がその後ベストセラーとなる程人気が出たためなのか、世の中の風潮に合わせたのか、その内容を全面的に取り上げての多くの「映画」「テレビドラマ」が制作された事により、更に国民に次第に浸透し、「定説」( ていせつ ) になっていった様です。


○代表的な映画「二百三高地」

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実際私も二十代後半の頃、この小説を夢中で読みました。

嘗て軍国だったとされた我が国、日本。

自虐史観の教育で育った私。

ですが、あの優しく、強い信念を持っていた祖父、父親世代の人達が

「どうしてそんな事を言われなけれはならないのか❗」

と忸怩 ( じくじ ) たる想いを持っていた私に取って、この小説は、正に「痛快な書物」となりました。


ですが、最近はこう思います。

【小説】は飽くまで【小説】です。

小説家の創作の世界で語られている内容であり、飽くまでも「フィクション」の範疇 ( はんちゅう ) です。これが事実とは限りません。


🌕これを【丸々鵜呑み】し、何の裏付けもなく事実だと言っている【歴史などの学会】の方々へ。

あなた方のその考えが、子供達の「教科書」「教育」に多大な影響を及ぼします。どうか「フィクション」、その時の「流行り」に惑わされず、真実を地道に解明していく様に期待しております。


⚪「旅順要塞」を落とした事実がその後の「陸戦」を優位に運んだ


「旅順要塞」は落ちましたが、まだ戦争が終わったわけではありません。

まだまだ満州には大多数のロシア軍が待ち構えています。

将軍率いる「第三軍」も味方の日本軍と連携を取りながら、「満州軍参議部」の指示通りに進軍して行きます。


○映画「二百三高地」より

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そして日本軍は数々の大ピンチ、それこそ全滅する寸前の危機を何度も切り抜け、満州の地において勝利します。

因みに、最後の大決戦「奉天の戦い」( ほうてんのたたかい ) は、参加兵力が日本軍「二十四万人」、ロシア軍「三十六万人」にも及ぶ、欧州においても、これ以前、以後にもない正に「空前絶後の大会戦」でした。これにも勝利した日本軍。


これはあまり指摘されていない事かも知れませんが。

将軍の「第三軍」よりも先に満州に入った「第一軍」と「第二軍」。勿論これらの軍もどんどん満州を北上して行きます。これらの軍より少し遅れたタイミングで北上する「第三軍」。

ですが待ち構えるロシア軍にも当然「旅順要塞」が陥落した事は耳に入いります。この出来事を聞いた当のロシア軍自体も当然かなり狼狽したことでしょうね。


「おい、あの【旅順要塞】が落ちたぞ。」

「まさか? 一体どうやって? どの軍が落としたんだ?」

「【ノギ】とか言う将軍に率いられた日本軍だ。」

「そりゃ大変だ❗。それで、今その軍はどこにいるのだ? 我が陣地に近づいている日本の【第一軍】【第二軍】と共にやって来るのか? それとも【別動隊】か?」

「それはまだ分からない。」


つまり待ち構えていたロシア軍、ロシア指令部にとって、「難航不落の要塞」を落とした【第三軍】の存在は、かなりの動揺、混乱を引き起こします。一体どんな軍なのか? どんな戦い方をするのか? 皆目その正体が分からないロシア軍。

この事が、まだまだその時では余力が十分残っていたロシア軍に、そしてその後の「日露戦争の戦況」を大きく左右する結果となりました。


🌕「英雄談」の一コマ。ロシアの雑誌に描かれた「乃木将軍」。敵国の将軍をこんな風に描きますかね? 常識では考えられませんよ❗

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⚪「うちのおやじ」


冒頭で述べた通り、将軍は日露戦争後、「学習院院長」に就任しました。それは「明治天皇」からの要望であり、孫の、後の「昭和天皇」の面倒を観てくれ、との要請から発してます。

将軍は勿論この要望に応えますが、将軍には他に考えが有ったかと思われます。

それは、皇族や旧貴族以外の子供達にも、自分の想い、経験を伝える為に、この要請に応えたではないかと思います。


将軍は学習院のそれまでの教育制を改めて「全寮制」とし、ご自身も月に1、2回しか自宅に帰らず、生徒達と共に寝食を共にし、指導します。

親から将軍についての「英雄談」を聞いていたであろう生徒達。最初はどんな人だと思っていましたが、次第にうちとけ、いつからか、将軍を「うちのおやじ」と呼ぶ様になります。

おそらく嘗て満州で共に戦った当時の「第三軍」の人達と同じ想いだったと思われます。


○褌 ( ふんどし ) 姿の「学習院院長」の頃。生徒達に水泳を教える将軍

250px-褌一丁姿の乃木希典



実際に「日露戦争」で二人の息子を亡くしている将軍。

生徒達がまるで自分の子、孫に見えていたのではないでしょうか? 


そして暫くして「明治天皇」が崩御 ( ほうぎょ ) され、大正元年( 1912 ) の9月13日、「大葬の礼」の日に、夫人と共に「殉死」( じゅんし) されます。

これを聞いた当時の「学習院」の生徒達の想いは、どうだったのでしょうか?

「昭和天皇」は当時の事をこう仰っておりました。

「殉死」の一報を聞いた後、自然に涙が溢れ「ただただ残念な事である」と。



将軍のご葬儀には、日本中各地から大勢の人々がやって来ました。

その中には「旅順」で将軍の下で戦った人達もいたでしょう。


そして将軍の邸宅の在った地が、議会により「乃木坂」と命名されたのはこの直後の事です。

最初に述べさせて頂きましたが、「人の名」が「地名」となった、今では考えられない稀なケースの話です。


最後に主な「乃木神社」を記させて頂きます。

現代では、実在のお人を祀る事自体が奇跡です。

お時間があれば、是非とも参拝して下さい。



東京都港区赤坂

栃木県那須塩原市

京都府京都市伏見区












 








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