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四十八文字の話『ヒ』2 もしかして「秘数」って事かな? 漢数字「五」と「十」に纏わる(まつわる)話をします。

⚪私の新潟時代

( 前回からの続き )

皆さん、実は私、今から約二十二年前、仕事の都合で一年間程「新潟県新潟市」に住んでいた事が有ります。
JR新潟駅近くのマンションを会社が借りてくれて、割りとリッチ?な生活を送りました。

新潟と言えば「日本酒」、デスヨね。

○銘酒「越乃寒梅」




も~、毎日毎晩、飲んでました。
そしてこれは意外だったのですが、「おつまみ」「食べ物」( 野菜、果物など ) も実に美味しいのには大変は驚き❗ました。
どこの居酒屋でも最初に出される「お通し」から美味しいんですよね~。

でも後からよく考えると、それもそうですよね。
「日本酒」がうまいのは、造るための「水」の品質が良いからでしょうが、「水が良い」と言うことはその水で育った他の作物も美味しくなりますよね。

それはそうと今回の話ですが。

私が新潟に住んでしばらくの時が経ってきた頃「或る事」に気付いてきました。

それはどういう事かというと、身近にいる職場の新潟の方々、ご近所などに、どういうわけか「五十嵐」( いがらし ) という姓を持った人が多いんです。

職場の同じ階のフロアーには必ず3~4人程、いました。
そして外に歩いていても、何気なく目に入ってくる知らない方々の住宅の表札にも多かった気がしてます。

まっ、その時は余り気になりませんでしたが、このブログを書くにあたり、段々とその当時の風景が思い出されてきました。

私が漢数字『五』と『十』が気になっているのは、ひょとしたらこの「新潟時代」があったからかも?

⚪『天皇』と新潟の「【五十】嵐」( いがらし ) さん達


ある日の事、「朝日新聞」のサイトを見ていたら下記の様な記事が出てました。



第十一代『垂仁天皇』( すいにんてんのう ) の皇子である『五十日足彦命』( イカタラシヒコノミコト ) が日本の古墳時代、   越ノ国 ( 現在の北陸地方 ) に赴きその地の開発に尽力した、そうです。

この皇子の御名前『【五】【十】日足彦命』から『五』と『十』を基に「五十嵐」と言う姓が出来た、という説を載せている記事です。

皆さん、どう思います?

ですが話はこれだけでは終わりません❗


○天皇の和風諡号 ( わふうしごう )

皆さん、「 諡号 」 ( しごう、おくりな ) をご存知でしょうか?

位の高い、高貴な方が生前に行った業績等を讃え、その方が亡くなった後に贈られる「御名前」です。
意味は違いますが、簡単に言えば、仏教で言うところの「戒名」( かいみょう ) の様なイメージです。

日本歴代、代々の『天皇』にも「諡」があります。
ですが、その「諡」には「和風諡号」( わふうしごう ) と「唐風諡号」( かんふうしごう ) とがあります。

例えば初代天皇。

『神武天皇』( じんむてんのう ) 、ですが
この呼び名は「唐風諡号」の「諡」です。

では「和風諡号」では何と呼ばれているか?

『神倭磐余彦』( カムヤマトイワレヒコ )


そして先程記した「五十嵐」さん達の祖先である伝わる『五十日足彦命』。

この方の父親は第十一代『垂仁天皇』です。
この御名前も「唐風」ですが、
この天皇の和風諡号は

『活目【五十】入彦狭茅天皇』( イクメイリビコイサチノスラメミコト )

更にその先代、皇子からは祖父にあたる
第【十】代『崇神天皇』( すじんてんのう ) 。
この方の和風諡号は

『御間城入彦【五十】瓊殖天皇』( ミマキイリヒコイニエノミコト )


どちらの『天皇』にも『五』と『十』が、その御代の業績を讃える『諡号』として贈られています。


日本では、一族内で名前の一文字に先祖の名前を継承していく、 例えば 足利氏なら【義】の文字、徳川氏なら【家】など、歴史の中では決して珍しくはないのですが、
ヤマトに朝廷が開かれてまだ間もない太古の時代、
それも日本の中心である『天皇家』の話ですから
やはり『五』と『十』には
何か秘められた「意味」が有るのではないか?
と思ってしまいます。

🌕因みにですが、私の故郷「栃木県宇都宮市」に鎮座する「二荒山神社」( ふたあらやまじんじゃ ) 。
こちらの主祀神は『豊城入彦命』( とよきいりひこのみこと )  。

○「二荒山神社」( 栃木県宇都宮市 )

よく間違えられるのですが、同じく栃木県日光市 ( にっこう ) に鎮座しているのは漢字は同じでも読み方は「ふたあらさんじんじゃ」。違うお宮です。

○「二荒山神社」( 栃木県日光市 )
「徳川家康」公を祀る「東照宮」( とうしょうぐう ) の隣に鎮座してます。


この『豊城入彦命』。
先程述べさせて頂いた第十代『崇神天皇』の皇子です。
この方は毛野 ( ケノ ) 地方 ( 現在の群馬、栃木 ) の「開拓」に尽力された方であり、その功績で祀られています。

「五十嵐」さんの祖先とされる『五十日足彦命』の叔父になります。

北陸地方へ、そして北関東への開発に赴いた『皇子』様達。この時代、第十 ~ 十一代の『天皇』の御代は、ひょっとして昭和の「日本列島改造論」の先魁 ( さきがけ )、だったのでしょうかね?

そう言えば、通称角さん、田中角栄 ( たなかかくえい ) 総理大臣は越ノ国、新潟デスね。

○「田中角栄」氏


『五』と『十』に纏わる話、更に続きますよ。

⚪「【五十】鈴」( イスズ ) と神宮

第『十』代~『十』一代の『天皇』の御代。
ある出来事が起こります。

第【十】代天皇『崇神天皇』の時代に、得たいの知れない「疫病」( えきびょう ) が流行ります。

『崇神天皇』はこれを鎮めるため、自らの皇女 ( ひめみこ ) を各地に派遣し、ヤマトと同等な、三種の神器の一つ「八咫鏡」( ヤタノカガミ ) を祀るのに相応しい場所を探します。

それを引き継いた第【十】一代天皇『垂仁天皇』の皇女、「倭姫命」( ヤマトヒメノミコト ) は、ついにある場所に辿り着きます。

それが現在の三重県伊勢市。
「伊勢神宮の内宮」の始まりです❗



この神宮に現在でも「八咫鏡」( ヤタノカガミ ) が祀られています。



○「伊勢神宮」


伊勢神宮内宮に渡る「宇治橋」( うじばし ) 。

○「宇治橋」


その下に流れている川。

嘗て人々は神宮へ参拝する前、その清い水で身を浄めました。その清流の名、ご存知ですか?

「【五十】鈴川」( イスズがわ ) です。

○「五十鈴川」



「伊勢神宮の内宮」は、第【十】代、第【十】一代の、共に「和風諡号」に『五』と『十』が贈られている『天皇』御二人の「発願」により創建された様な「神宮」です。
そして「【五十】鈴川」、です。


『天皇』に関するお話はまた後程述べさせて頂きます。

この後は、視線を世界に向けてみますね。



⚪失われたイスラエル【十】部族


日本から遠く離れた中近東 ( ちゅうきんとう )、パレスチナ地方。

ここに遥か大昔、紀元前の十三~十二世紀の頃に、「古代のイスラエル王国」と言う国が有りました。

話は突然飛びますが皆さん、この時の「古代イスラエル王国」の人々、その子孫達が、ユーラシアの東の果て、極東のこの「日本」にやって来ていた 、という話を聞いた事有りますか?

「何をバカな❗  鉄道や飛行機もない時代だよ。日本にやって来るなんて、どうやったら来れるだよ? そんなの無理な話だよ」
「よくある【トンデモ話】だね」
と思う方がいるのは当然かな、とは思います。

ですが、ある方はこう仰ります。
「皆さんがそう思うのは無理もない事です。飛行機や鉄道、船での航行しか経験のない現代人にとっては、ピンとこない事です。ですが、ラクダの背に乗って、夏場など草原となっている西域の白鳥飛来ルートを通って行けば、中国側からイラクの首都、バクダットまで僅か一カ月ちょっとで悠々と辿り着きますよ。」


○「シルクロード」




客観的に言わしてもらえれば、古代の中近東の人々が日本までやって来るのは決して不可能ではない、という事になりませんか?

また時代はかなり下りますが。

アジアから中近東、そしてヨーロッパを走破しユーラシア大陸に大帝国を作り上げた「元 ( げん : モンゴル ) 」。

皆さん、考えてみて下さい。

この時代に、飛行機や鉄道が存在してましたか?

勿論、無かったデスヨね❗
なのにユーラシア大陸中を往き来していた、それが可能であった、のです。





これらの現象を別の視線から言うと、「モンゴル」の時代と古代「イスラエル」との時代、ユーラシアの大草原地帯の環境はあまり変わりなかったのでは?、という事。
だとすれば、大昔にイスラエルから日本に多くの人々が来たとしても何ら不思議ではない、と増々思われてなりません。


○現在の「シルクロード」
そりゃ、大昔よりは安全になりましたでしょうがね




話を戻します。
この古代イスラエルの人々は嘗てはエジプトで奴隷生活を送っていました。が、預言者「モーゼ」の導きによりエジプトを脱出し、唯一の絶対神「ヤハウェ」と契約を結びます。
所謂「モーゼの【十】戒 」( じゅかい ) です。
そして聖都「エルサレム」に神殿を建て「イスラエル王国」を築きます。




後に北と南の二ヶ国に別れて、その内の北の国「イスラエル王国」は紀元前八世紀頃に他の国に亡ぼされ、人々はその国に囚われの身となり、再び奴隷となってしまいます。

ですが、イスラエルを亡ぼしたその国がまた別の国に亡ぼされため、紀元前七世紀頃に「奴隷の身分」から解放されます。

解放されたので、囚われの身だったイスラエルの人々は、当然故郷の「パレスチナ」に戻り、以前の平穏な生活を送ったのだろう、と思いますよね?
ですがこの時のイスラエルの人々は殆ど帰還をしなかった、そしてあろう事か、その姿、存在自体を消してしまった、というのが「失われた【十】部族」の話です。


皆さん、折角奴隷から解放されたのに、何故彼らは「パレスチナ」に帰えらなかったのかな~、と思いますよね?

ですがここでも是非想像してみて下さい。


イスラエル人が奴隷にされていた期間は約百年です。
百年ですから最初に奴隷にされた世代から見れば、孫や曾孫の時代です。

自分達にとっては懐かしい「パレスチナ」。
ですが、孫や曾孫にとっては一度も行った事がない、
「知らない土地」です。
解放されたからといって知らぬ土地に、わざわざ帰る必要性など感じなかったのではないでしょうか?

そして元来イスラエルの人々は「遊牧民」( ゆうぼくみん )です。


遊牧民の気質、生来その気質を持っていたであろう「イスラエル人」達は解放されたなら、自由に、気ままに、自分達が行きたい所、新たな地へ、他の遊牧民と共に行動しながら大陸中へ移動して行った、と思いませんか?





○「弓月君」( ゆづきのきみ ) が、第【十五】代『応神天皇』の許へ


西アジアと中国との中間点、所謂「西域」( せいいき ) に、ある国の存在の記録が残っています。

「弓月」王国、「ユヅキ」と言う名の国です。

中国で十一世紀に編纂された史書「資治通鑑」( しじつがん ) 。その史書の中に「弓月王国」が書かれています。

「弓月王国」は三~七世紀に栄えた西域の国。
「資治通鑑」によれば、この国は「キリスト教」 国家だと。
そしてその周辺には多くのユダヤ人コミュニティーが存在しており、シルクロード交易で栄えていたそうです。


○「弓月王国」

奴隷から解放された遊牧民たる「イスラエルの【十】部族」の人々。

全員などとは言えませんが、一部の方々でも、商売などをしながら、ここまで移動して来て、「国」などの範疇ではないにしても所謂共同体やコミュニティーと言った集団生活をする地域だったのではないか、と思われます。


そしてこの「弓月国」の国王である「弓月君」( ゆづきのきみ ) 。

この方が色々な諸事情 ( 他民族との争いか? ) により、自ら大勢の民を率いて、遥か大陸の西域から中国、朝鮮半島を経て日本までにやって来た、との記録がこの現代にも残されています。

その出来事を記しているのは、日本の史書「日本書記」です。


そんな大人数を受け入れてくれる国は、大陸、朝鮮半島になどにはなく、やっとの思いでやって来て、その思いを綴った手紙を当時の日本の『天皇』に送りました。

この時の『天皇』は
このブログシリーズ「四十八文字の話」の前回、『匕』1 で述べさせて頂いた第【十五】代『応神天皇』です。

時代にすれば四~五世紀の頃の話だと思われます。


○「日本書記」  該当の条 ( くだり )


『応神天皇』はその願いを快く受け入れました。

この時に受け入れられた人々は、この恩義に感じ入ったのでしょうね。その後、この日本の発展のため多大な貢献をします。

例えば各地の神社建築、町の造営。
そして特に自分達を受け入れてくれた『応神天皇』、次の第【十】六代天皇『仁徳天皇』( にんとくてんのう ) の、世界最大級の墳墓、「前方後円墳」( ぜんぽうこうえんふん ) の築造に多大な力を発揮します。

○「応神天皇陵」



○「仁徳天皇陵」




この「弓月君」が引き連れてきた大勢の民。
この中には、建築技術に長けているグループがいたのでしょうね。

またその他にもおそらく、「戦い」や「戦術」、「武術」に優れた者達も大勢いた事でしょう。

🌕以下は私の推測ですが。

当時の日本にはない「最新兵器」の製造、「戦術」などを駆使していたかもしれないこの様な武人達を『応神天皇』は採用されたとしても不思議ではないと思います。
そして採用された彼らが、「身辺警備」や「戦い」においてかなりの活躍をしたのではないかと、想像出来ます。

この様な者達に守られている『応神天皇』。

前回のブログ「四十八文字の話」『匕』1 でも記しましたが、その後の日本において、武家の棟梁「源氏」が『応神天皇』を『武ノ神』『八幡神』として祀ったは、この時の『天皇』のお姿が有ったからだと推測してます。



また「弓月君」が引き連れてきた民の中には
「イスラエルの【十】部族」の子孫、所謂「ユダヤ人」がいた可能性は大いに有り、です。

そして更に注目すべき点は、この国「弓月王国」の領内、またはその周辺地域かもしれませんが、そこには「ヤマトゥ」( = 大和? ) という地名を持つ地域が有った、との話です。



○「ユダヤと日本との関係」、この分野における「泰斗」( たいと ) な存在であるユダヤ人


🌕「失われたイスラエル【十】部族は、日本に来ていますよ❗」

こう主張をしているのは、著名なユダヤ人歴史研究家
「 ヨセフ = アイデルバーグ 」氏。

○「ヨセフ = アイデルバーグ」氏



この方は日本へ来日するために自らで「日本語」を習い、京都の「護王神社」( ごおうじんじゃ ) で「見習い神官」にもなったほどの人物です。





( 以下、Wikipedia  より )

日本を訪れるために、1963年に日本語の勉強を開始したときに、ヘブライ語と日本語に発音と意味の同じ言葉が数多くあることに気がつき、「日本人」と「失われた10支族の関係性」を本格的に研究を開始する。

「日本書紀」「古事記」「十七条憲法」「大化の改新の詔」など数多くの日本の文献を研究し、古代ヘブライ人と日本人の関係について独自の見解を発表する。

神道・日本語・日本の歴史についての研究にあたっては、京都の護王神社の見習い神官にもなって研究を行った。
日本語とヘブライ語の単語を詳細に比較研究した結果、5000語以上のリストを作っていたとされる。
遺稿となった「日本書紀と日本語のユダヤ起源」においては厳選した500語を分類して掲載している。
それと並んで注目すべきは、「日本書紀」「古事記」「十七条憲法」「大化の改新の詔」の内容と、「聖書」に書かれている物語や「トーラの教え」との共通点を詳細に研究し、文化や道徳観の「共通点❗」なども明らかにしている。



「日本」と「イスラエル」の共通性を特に「言語」の面から、探求した方です。

この方は日本語の「大和 = ヤマト」と言う言葉、これを「へブライ語」では「ヤマトゥ」、「神の民」を意味していると指摘しています。

この方の本を何冊か読みました。
記憶しているほんの一例を上げてみます。

例えば日本語の「弥栄」( いやさか ) 。
これはヘブライ語の「ヤーサカ」、日本全国に鎮座する「八坂神社」( やさかじんじゃ ) の「ヤサカ」であり、
意味は【神への信仰】。


北海道の民謡である「ソーラン節」。
皆さん、ご存知デスヨね?

ですがこの歌の「掛け声」、

「ヤーレン、ソーラン、ソーラン~」

という「掛け声」ですが、皆さん、この「掛け声」の意味、分かります?

この「ヤーレン、ソーラン~」の意味については、
我々が使っている「日本語」では一体何を言っているのか、全く理解出来ない言葉です。

ですがこれを「ヨセフ = アイデルバーグ」氏は
ヘブライ語に訳する事が出来ると言い、こう説明します。


ヘブライ語に訳すると
【神はわれに応えり、注目せよ】、の意味だと。


北海道だから 「アイヌ語」かな?、
と思った事もありましたが、
どうやらそれは違う様です。


何故「日本語」と、遠く遥かなイスラエルで話されていた「ヘブライ語 」がこんなに関連性が有るのか?
古代から、「日本」と「イスラエル」は何らかの関係があったのでは、と思いますよね?


「弓月王国」周辺にあった地名「ヤマトゥ」。
これは正に「ヘブライ語」だと思えます。
ならば、やはりここには古代イスラエル人がいた、
と言う事になります。

また日本において
朝廷が開かれたとされる現在の奈良は
嘗ては「大和 = ヤマト」と呼ばれていましたよね。
「大和」、「ヤマト」はこの「弓月王国」、
引いては「イスラエル」から始まったかもしれませんね。

○それ以前から

「弓月君」が来日した出来事。

この時にユダヤの民達が日本に来た可能性は大いに有りまが、何もこの時に限らず、それ以前にもユダヤの民が日本に来ていた可能性は大いに有ります。

それは先程から言わして頂いている様に、ユダヤ人はそもそもが遊牧民。
ならば「シルクロード」等に代表されるユーラシアの「貿易航路」を通して大陸中を往き来していたはず。

その中で、記録には残らず、規模や人数は少ないながらも
大陸、朝鮮から日本海を渡ってきていた人々もいたはずです。


⚪「神」と言う諡 ( おくりな ) を持つ三人の『天皇』


話を日本の『天皇』に戻します。

このブログでも述べさせて頂いた「諡」。
これには「唐風」と「和風」があると述べさせて頂きました。

現在の『今上天皇』( きんじょうてんのう ) は百二十六代。




今まで有史以来この日本には百二十六代の『天皇』がおられました。

「天皇は『神』である」

と言われた時代も有りました。
確かに所謂「二千六百年」もの長きに渡り
この日本においては『神』と言われる様な存在です。

それで実際、その『神』という文字を
「唐風諡号」に贈られている『天皇』がおられます。
皆さん、ご存知ですかね?

百二十六代の中で僅か三人です。

それはまず
初代『神武天皇』。

初代ですから『神』が贈られている理由は何となく理解できるかと思います。



ですが、あとの二代は誰か?


まずは
第【十】代『崇神天皇』です。

そして
第【十五】代『応神天皇』、となります。



新潟の「五十嵐さん」、
「伊勢神宮の内宮」の話の中で
記させて頂いた『崇神天皇』。

そして「イスラエル【十】部族」、「弓月君」の中で
記させて頂いた『応神天皇』。


この三代の『天皇』の方々です。

『神』という「諡」を贈られた二代の『天皇』に纏わる『五』と『十』。

皆さん、どう思いますか?



今回は漢数字の【五】と【十】を取り上げましたが、
この一件、やはり何か重要なメッセージが含まれている様な気がしてなりません。




⚪最後に漢数字『五』、『十』の成り立ちについて

「漢数字」。

皆さんは普段、何も気にせず、書いたり読んだりしていますよね。

ですが、「漢数字」は単に「数字」自体を表しているだけはなく、それぞれ各々に「と或る意味」を含んでいる「表意文字」です。
ここでは表題の通り、『五』と『十』について述べさせて頂きます。
( 他の「漢数字」は別の機会で)


○『五』( イ、ご )  

「一」( いち ) は横線一本、
「二」( に ) は横線二本、
「三」( さん ) は横線三本。
では「よん」は?
日本では「四」ですが、大陸では横線「四本」の文字があり実際に使用されている様です。

そして『五』。

『五』はよく見るまでもなく、
縦線が二本、横線が三本の字形デスヨね。



まずは横線三本、つまり「三」についてです。
これは以下の内容を象徴していると思われます。


横線それぞれには、下記のような意味が含まれている様です。
🌕上段の横線  ➡️「天」
🌕中段の横線  ➡️「人」
🌕下段の横線  ➡️「地」

これを他の表現に変えると

🌕上段の横線  ➡️「精神」
🌕中段の横線  ➡️「心」
🌕下段の横線  ➡️「物質」

になるかと思われます。

精神、宗教の世界では「三」はとても重要な文字なんですが、ご存知でしょうか?

⚪神道  ➡️「造化【三】神」( ぞうかさんしん )
⚪キリスト教ネストリウス派  ➡️「【三】位一体」( さんみいったい )
⚪仏教 ➡️お寺にはよく「○○【三】尊像」なんて、ありますよね。
⚪古代ユダヤ ➡️「生命ノ樹」( 【三本】の木  カッバーラ )

「三」という漢数字は、精神的、思想的に人を満つ ( ミツ ) な状態にします。

「ミツ」➡️ 「ミ」と「ツ」も、共に【三】画デス。

ですがこの「三」の字形のままでは、それぞれの横線が離れています。これでは互いが疎遠、遠い関係になってしまいます。

そこで
🌕「天」↔️「人」↔️「地」
🌕「精神」↔️「心」↔️「物質」
の繋がり、「縦」の繋がりの関係をより強固にするため、
中央に「縦線」を引きます。

そうすると



とになります。
これで「横線三本」の関係が強くなります。


が、このままだと字形は「王」( おう ) で、四画です。


「王」というのは、あくまでも「人」としての「王」、「地」の「王」です。

横線三本の関係をより強くするため、
更にその上に、それも「人」としての存在ではなく、
もっと「高い地位」、「現世」を越える存在の
或る尊い存在が必要となります。

ですので
「王」の上に「・ ( テン   天 ) 」を乗せてみましょう。

すると、「主」( あるじ ) 、となります。




キリスト教徒の方々が祈りを捧げる時に唱える「主よ、」の、「主」となります。これで文字は五画となります。

では『五』ではなく『主』を「5」の扱いにすればよいのでは?、と思いますよね。

私もそう思います。

ですが
尊い存在の方というのは普段は姿など見せませんよね。
ですので「主」の上の「・ ( テン 天) 」は目に見えない存在となります。

その代わりに、普通の人々が実際に自分の目で見る、自分の『五』感で体験出来ているこの現世、現実の世界において

🌕「天」↔️「人」↔️「地」          ➡️  【人↔️地】 の部分
🌕「精神」↔️「心」↔️「物質」  ➡️  【心↔️物質】の部分

の結び付きをより強固にするため
敢えて中段と下段の横線を結ぶための「縦線」を
付けたのが『五』ではないのかな~、と思ってます。




○現在よく使われている『五』を上げてみます。

🌕「【五】大陸」( ごたいりく )
🌕「【五】大湖」( ごたいこ )
🌕「【五】大宗教」( ごだいしゅうきょう )
🌕「【五】輪」( オリンピック )

等々。

また日本では

🌕「七【五】三縄」( しめなわ )
🌕「陰陽【五】行」( おんようごぎょう )
🌕「【五】重塔」( ごじゅうのとう )
🌕「【五】山十刹」( ござんじっせつ )
          「京都【五】山」、「鎌倉【五】山」など。


平安時代からの貴族の主流である「藤原」氏 ( ふじわら )。
その末裔達は下記の『五』の家系 に別れて、現在でも続いています。

🌕「【五】摂家」( ごせっけ )
一条家  ( いちじょう )
二条家 ( にじょう )
九条家 (くじょう )
鷹司家 ( たかつかさ )
近衛家 ( このえ )

 「豊臣秀吉」時代では
🌕「【五】奉行」( ごぶぎょう )
🌕「【五】大老」( ごたいろう ) 

江戸時代の
🌕「【五】街道」( ごかいどう )  
🌕「【五】人組」( ごにんぐみ )

その他には
🌕「三々【五】々」( さんさんごご )
🌕「【五】臓六腑」( ごぞうろっぷ )

などなど。

これらを観ると、その各々の時代の気風、「雰囲気」や「文化」、「治安を維持する事」などを象徴するためには、『五』の「漢数字」が必要だったのかもしれませんね。



○『十』( ジュウ、と )

「クロス」、交わりの意。

特に
「|」 ( 縦線 ) ➡️「尊い存在」( 天 ) と
「一」( 横線 ) ➡️「人」 との「交わり」を表します。

🌕「天」 ➡️  英語の「10 :  Ten」 ➡️ 漢数字では「十」です。

また「一」からの「最後の数」でもあり、「完結」をも表しています。

よく使用されている例は、このブログでも述べさせた頂いた様に

🌕モーゼの「【十】戒」( じゅかい )
🌕「イスラエルの失われた【十】部族」

そして我が国においては

よ~く観てみてみれば分かりますが、多くの「漢字」の中に含まれていますよ。

まずは、字体の右側に有りますね。

🌕「叶」
 口の右側に【十】。口に出してみれば夢が【かなう】 んですよ❗



下部
🌕 「本」
大は【人の姿】の象徴。その下に【十】を付けると 「本物」の【ほん】です。

◎「大」 + 「十」


左側
🌕「博」
「専門」( せんもん ) の「専」、その字の左側に【十】。「博士」( はかせ )、「博識」 ( はくしき )  の【はく】。



上部
🌕「克」
 兄の上に【十】。自分にとっての兄や先輩達は目標であり、目標克服 ( こくふく ) の【こく】、です。



中央部
🌕卍 ( まんじ )
『十』の「|」「一」の各々の先端に、更に短い「線」が付いてます。
これは「四つの方角」「四方 = 大地」を表しているかと思われます。


皆さん、この「卍」、この文字に例えば「風」を当てると、ある一定方向に回転する様なイメージ、出てきませんか?

 このイメージにピッタリの「遊具」が有るんですが。


皆さんもご存知の遊具。
それは、「風車」( かざぐるま ) です。



そう言えば、地図の記号で「卍」は「寺」を表していますよね。
「寺」と「風車」、我々日本人に取って、何やら「懐かしい風景」デスね。







この様な「漢字」はまだまだ沢山有ります。

また【十】の上にカタカナの「ノ」を乗せてみます。

すると【千】( セン、ち ) になります。

「ノ」という文字。この文字はその字形から、「天界」から「地上」へ降ってくるエネルギーを表している様です。
「ノ」を乗せるだけで、【十】が【千】になるんですよ❗
正に「勇気【百】倍❗」ですね。




🌕「【十】和田湖」( とわだこ )   ( 青森県十和田市 )



「特別名勝」、「天然保護区域」にも指定されている「十和田湖」。
この湖には昔から「青龍権現」( せいりゅうごんげん ) 伝説が伝わっています。

「青龍」 は  東の方位神。
では「十和田湖」の東側には何が有るでしょうか?






東の方向には
「キリスト ( =【十】) 」の墓とされる伝説が現在までも伝わっている、青森県三戸群新郷村 ( しんごうむら ) が有ります。

またこの地域には嘗て「戸来村」( へらいむら ) と言う地域が存在してました。
「戸来  =  ヘライ」 ➡️  「ヘブライ」に通ずる、との話も伝わっています。

○「キリストの墓」( 青森県三戸群新郷村 )





今回はこのへんで。
皆さん、今回の『五』と『十』の話、如何でしたか?

では、失礼します。





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