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続・不安ビエント

突如として世界を襲い、猛烈な勢いで地球上の隅々にまで広がり、そのまま世界を覆い尽くしてしまい、あちこちに良くも悪くも変化をもたらし、勝手に句読点やピリオドを打ち幕をかえてしまう。それがパンデミックというもののイメージである。目まぐるしく動いていた人間の(経済活動を中心とする)(ほとんど見せかけばかりの)活動は、見えないウィルスの大繁殖によって、みるみるうちにスローダウンしていってしまった。三密をさけ、ソーシャル・ディスタンシングを確保することの徹底によって、恐ろしい感染症への対応を真剣にすればするほどに、それまでの日常の生活がいかに公衆衛生の向上とは真逆をゆく、汚れて能天気なものであったかということが如実にあらわになってゆくだけだった。外から帰ってうがいと手洗いをしていても冬になって寒くなってきて空気が乾燥をしてくると呆気なく風邪をひいたりインフルエンザになっていたことを考えれば、それだけ目に見えない菌やウィルスに対してあまりにも無防備な生活をのほほんと繰り広げていたということがあらためて浮き彫りになったのだった。
そんなとき、ひとりじっくりと2020年の世界を眺めやってていたら、なぜだか急に視界が開けるような感覚が去来し、目に見えるものすべてが見渡すかぎりに一変している様子がおもむろにだがかなりはっきりと見えてきてた。まさにそれは目に見える時代の変わり目のようなものだった。パンデミックに襲われた年の終わりごろのことである。しかし、そのときには、世界のいろいろな人々がにわかにだが同じような方向を見るようになってきているらしき動きもあって、よりはっきりと鮮明に視界が開けてゆくような感じがしたものである。あの時期、世界はそんな風に見えていた。だが、年が明けて早々に花粉症の季節がきて、目や顔やあちこちが痒い症状に悩まされるころになると、またすっかりと目の前は曇ってしまっていた。そして、21年は前半からずっと霞がかかった状態が続いている。とても不透明である。
あの時期に、なぜかあちらこちらでよく見受けられた世界の危機に対処するためのキーワードが、いわゆる「禅資本主義」や「仏教経済学」というものであり、それに準ずるような仏教的で静的な考え方こそが鍵だとされているようなところがあった。完全に行き詰まった世界の様々な問題点が、パンデミックを契機に誰にでも目に見える形で露呈してきていた。そうした消しがたい負の側面こそが、長引く新型ウィルスの感染爆発に襲われた2020年という禍の年の特徴のひとつとなっていた。人類が大いなる危機の時代に直面していることを、あらためてわれわれはウィルスの感染症によって思い知らされたのである。今ここで何かを劇的に変革しなくてはいけないのではないか。今までのままでは破滅が待っているだけであろう。変革なき世界に未来はない。
あまり主流ではない禅や仏教というキーワードを概念的主軸に据えた思考が、なぜあのときにあれほどまでに世界同時多発的に静かに大きな盛り上がりを見せていたのだろうか。それらの考え方に新たなフェイズへ向けての活路や次の時代へと突き抜ける新たな扉のようなものを見いだせていたからこそ、あんなことになっていたのだとは思うが。近代の社会を生み出し成立させ発展させてきた資本主義や経済学といった、もはや疲弊しきっているかのように見える機構や制度や方法や論理や倫理に、(古くて新しい)禅や仏教の思想を導入することで、何か新たな突破口が開けるということなのだろうか。くたびれた資本主義や近代経済学が、釈尊の導きのもとでまた息を吹き返すのであろうか。
長い年月を経てふたたび東洋と西洋が(深層において)出会い、深く広く融合することで、世界にどのような変化をもたらすことになるのか。モダンな世界であらゆるものが行きすぎてしまわないようにスローダウンさせることが、東洋の知と信に求められている役割なのか。仏教の超越的な思考や価値観が、崩壊へと向かいつつある世界の文明の大きな動きに歯止めをかけることができるのか。最後の最後は、やはり浄土信仰なのか。必要以上に求めすぎず、薄く広く満ち足りている世界。多くの犠牲のうえに成り立たざるをえない暴力的な成長よりも、誰も傷つけず誰も置いてけぼりにしない平和。見えざる神の手の内におさまる道の模索。この地球で生き延びるための持続化。

パンデミックの勢いを削ぎ逆に押し返して対抗するための強行的な措置として、欧米の多くの国や地域で採用されたのが、人が多く集まる都市そのものを完全に閉ざしてしまうロックダウンという方法であった。猛烈な感染拡大を抑え切ることができなくなったイギリス政府は、20年3月の下旬から厳しいロックダウンの措置を発令している。大方の都市機能がストップしてしまった首都ロンドンでは、市民はそれまでの日常の生活とは大きく異なる極度に制限された暮らしを余儀なくされた。自由に街中を出歩けない、人と会えない、買い物は必要最低限で、気晴らしをしようにも劇場も映画館もカフェも人が集う場所は何もかもが閉鎖されている。
ロンドンを活動の拠点としているブライアン・イーノは、完全に封鎖された都市でいつも通りの生活を送るには多くの無理があると判断し、これを早々に諦めた。そして、ロックダウンによって機能不全に陥ってしまった都市を脱出する。その後は、別邸のあるイングランド東部の静かな田舎町に生活の拠点を移すことになる。いわゆるコロナ疎開である。そんな生活面での大きな変化のあった2020年を振り返って、「非常に充実した年」だったと語る。慌ただしいロンドンでの大量消費の波にもまれる、物質で溢れかえった生活から離れ、長閑な田舎の街で日々を過ごすことによって、初めて見えてくるものもあったのだろう。また、手頃でかさばらない電子機器や情報端末を手にしてさえいれば、世界中のどこででも大して変わらずにある程度のことはできてしまえる時代であるということも大きい。おそらくパンデミック以前から都市での生活にこだわる理由というのは急激に低減してきていたはずなのである。そうしたことにあらためて気づく契機を与えられたというのもまた、今回のような長期にわたるコロナ疎開がもたらした正の側面でもあったのであろう。
これまでの生活ではちょっとした些細な手間取る用事の数々に思っている以上に無駄に煩わされていたようだ。そうした諸々のことが、まるで手品か何かのようにすっと消えてなくなり、今までにはなかなか時間を割くことができなかった自分のためにする作業にじっくりと取り組むことができるようになった。イーノの場合は、散歩、インターネットで世界中の音楽を聴く時間、自らのボツ作品を掘り起こしてきて再検討する時間、そして読書と思索の時間をもてたことに対して、大いに充実感をもてたようである。つまり、パンデミックのお陰で「これまでいろいろ読んで溜めていたものが、自分の頭の中で、大局的なものとして形になり始めた」らしいのだ。これまでの忙しい毎日の中では、あれこれと断片的に読んで考えていたとしても、それぞれの知識や考え方がそれとしてそこにあるだけで、大局的なダイナミズムをもつ流れにはなかなか結びついてはいなかった。そんなあれやこれやを、ゆったりと流れる十分すぎるほどの時間がある中でじっくりと煮詰めるように考察していると、それぞれを広く大きく関連づけて見てゆくことができるようになっていったのであろう。
「私が興味があって読んだ様々な事柄が、バラバラの島として存在するのではなく、そこに繋がりが見え始めたのだ」とイーノは語っているが、あの時期(2020年の後半)にやはり何かが見えるようになってきたことは間違いないようである。仏教や禅について(あらためて)直接的には言及してはいないが、新たな時代の道筋を見極めようとするその思考や思索の方向性は、東洋的なそれとそう遠くないのではないように思われる。永遠に上昇することを宿命づけられた終わりなき成長を前提としている(西洋の)近代の社会や経済のシステムが、いよいよこれまでのままの活動を継続させていると遅かれ早かれ全面的に立ちゆかなくなるであろうことに対して、苛烈なまでの警鐘を打ち鳴らしているイーノ。これまでとは異なる新たなる道を探ろうとする姿勢は、自然とこれまでのモダンの枠からははみ出してゆくものとなるだろう。かつてはグラム・ロッカーであったためゴージャスなロングヘアであったが、現在はツルツル頭で見た目は完全に僧形なイーノ。そして、その音楽面での偉業であるアンビエント・ミュージックというコンセプトの創造と追求という仕事においても、やはりどこか仏教や禅に通ずる東洋的な思想や宗教的実践とのつながりがあるようにも思える。イーノはイーノなりの中道というものを、(西洋的なモダンの枠からははみ出すことも厭わずに)美学的に追求し形にする作業を通じて、これまでずっと追い続けてきたのではなかろうか。そうしたものの根幹や根底にある何かが、コロナ疎開期を経て、より目に見える形になって前面に現れ出てきて、バラバラの島だと思っていたものがそれぞれに結びつきはっきりと地続きになってきたということなのではなかろうか。

人間の生活世界・生活環境に溶け込み、音楽ならぬ音楽として空間に漂い舞い、空間そのものが音楽そのものとなることで音楽的に機能するアンビエント・ミュージック。ブライアン・イーノは、そうしたアンビエントの音楽的コンセプトを思いついたことにより、音楽というアート/芸術の世界に新たなるオルタナティヴな道を開拓したモダン・カルチャーのパイオニアである。演奏したり聴いたり踊ったりという積極的な音楽の楽しみ方や音楽との関わり方とは、かなり趣を異にするサウンドの楽しみ方や関わり方というものがアンビエントという音楽の発見とともにひとつの概念もしくは形式なき形式として誕生した。よく、メディテーションや瞑想などの行為とアンビエント・ミュージックとの親和性について語られることがある。心や体から無駄な揺らぎを取り除きアタラクシアへと近づくためのメディテーションにアンビエント・ミュージックが用いられることはままよくあることなのだろう。ただし、アタラクシアがメディテーションのその先にだけあるわけではないように、アンビエント・ミュージックは瞑想のためのサウンドトラックとしてあるわけではない。しかし、アンビエント・ミュージックがアンビエントをミュージックするものであると考えるとき、そのサウンドが目指すところのものは、あらゆるパトスから解放されたアタラクシアと呼びうるものであるのかもしれない。よって、アンビエント・ミュージックをアンビエントをミュージックするものとして聴取する方法というのは、身体すべてを聴くための器官としてしまうような瞑想状態に極めて近いものとなるとも考えられるだろう。心と体を落ち着かせ、聴く器官としての身体をアンビエントに開かれたものとするということは、まさに空間とサウンドに身を任せきるということなのである。
「人間は身を委ねるのが好きなんだと思う。自分たちの身に起きるいわゆる「超越的な行為」、つまりセックス、ドラッグ、アート、宗教というのは、全て身を委ねることと関係している。どれも「世界は自分を中心に回っている」という考えを手放すことに関係している。身を委ねることで、自分が世界の中心でなくなるかわりに、世界の一部となるんだ」と人間存在と世界との関係性についてを語るイーノであるが、やはりこの「人間とは身を委ねるのが好きな生き物」であることを本質的に見抜き、その直感をサウンド・アートとして展開させたものがアンビエント・ミュージックなのだということがよくわかる。アンビエント・ミュージックを聴取する(厳密にはアンビエントは聴取するものではない)とき、その「超越的な行為」に没我した人は「世界は自分を中心に回っている」という考えを手放してしまっている。アンビエントをミュージックするサウンドに身を委ねることで、純粋に無常なるものとして流れ続ける音の世界の一部となるのだ。
イーノの頭の中で概念化されて非表現的表現の実践が試みられたアンビエントの根幹を司る、超越的な力のような何かに身を委ね、自己中心的かつ人間中心主義的な考え方を手放し、世界の一部となる(連続性)という考え方は、やはり仏教的な世界の捉え方と共振するものがかなりの部分であるのではなかろうか。釈尊の慈悲(大悲)に身を委ね、世界とひとつとなり正覚をとる。これはまさに他力道の思想であり、どこかアンビエント・ミュージックが包摂する環境・(人間)生活環境との接し方というものとも近いものがあるように思える。
しかし、「私がもうずいぶん長い間やってきたことというのは、「身を委ねることは負けを意味しているのではない。能動的な選択なんだ。違う形で世界と繋がるための選択なんだ」と伝えようとしている。これは40年くらいずっと言い続けていることなんだけど、今になってようやく、みんなこの考え方の核心を理解し始めたんじゃないかな(笑)。その理由として、最近はマインドフルネスやヨガ、瞑想といった行動を生活に取り入れる人が増えたというのが一つある。それらも同じようなことを目指しているからね。もはや突飛な考え方ではなくなったんだ」といったイーノの発言をよく噛み砕いてみると、それはどうも絶対的な他力道というわけではないようにも思える。他力道とは、どんなときでも自力で道を切り開けると思い込む「世界は自分を中心に回っている」のだという考えをすっぱりと手放して、阿弥陀仏に身を委ね完全に他力本願でいついかなるときでも救いが得られることを信ずるという道である。ただ、自力を諦めて身を委ねて他力本願に生きるということは負けを意味するものではないというところまではいいのだ。だが、それを「能動的な選択」だとするというところには少しばかり引っかかるものがある。他力本願と能動性のパトスには重なり合う部分はひとつもない。他力道が向かうところは自力道と同じく、正覚を取り悟りを得るということではあるのだが、その道行きに能動性らしきものは微塵もないのである。身を委ね切って絶対他力であろうとすることは、決して「能動的な選択」とはならない。そして、そうした選択をしないことこそがもしかすると負け続けること(もしくは、負け続けているように見えること)であるのかもしれない。それでも、そのことによって正覚が取れればそれでよいのだ。勝ち続けて何かが得られるわけでは決してない。そういう確信をもつことができてしまうところこそが絶対他力のなせるわざなのである。
現在73歳のイーノが「40年くらいずっと言い続けていること」の中心にある「身を委ねること」とは、近代社会の土台にある合理的理性を振りかざして振りまわして生きる方法とは「違う形で世界と繋がる」方法であるという考え方に通じている。これは、最近の「マインドフルネスやヨガ、瞑想といった行動を生活に取り入れる人」たちと「同じようなことを目指している」(同じようなこととは、違う形で世界と繋がること)けれども、根本の部分ではやはり違うものであるという一応の認識なのではなかろうか。ここで取り上げられている「マインドフルネスやヨガ、瞑想といった行動」は、仏教でいうところの行(修業)に属するものであり、ほぼ禅(座禅)と同じかそれにに近い自力道であるといえる。これまでずっと考えてきたことや言い続けていたことが間違いではなかったということが、ようやく時代の変わり目を経てはっきりと見えるようになってきた。そして、その考え方の核心へと至る道が他力道を通ろうと自力道を通ろうと「同じようなことを目指している」ことも見えている。目の前には一にして他の道がある。その道に身を委ね世界は自分を中心に回っているという考えを手放すことで、それまでとは「違う形で世界と繋がる」ことができるようになる。今やもう身を委ねてしまうことは「突飛な考え方ではなくなった」のだ。「身を委ねることで、自分が世界の中心でなくなるかわりに、世界の一部となる」という仏教的かつ禅的で他力道でも自力道でも辿り着くことが可能な考え方こそが、これからの世界のあり方や世界との繋がり方には必要なものとなってくるだろう。そういうことが、はっきりと見えてきた。はずなのだが、やっぱりイーノの他力道や他力本願の思想らしきものには、どこか確信めいたものにかけているように見えるところがあるのである。オルタナティヴな世界との接続の道を進むことができるならば、仏教的かつ禅的で他力道であっても自力道であっても能動的に選択をする姿勢。そういう意味では、それはとても中途半端な自力道/他力道になるのではないだろうか。
他力道としても自力道としても中途半端な道というのは、はたしてありえるものなのであろうか。禅の瞑想とは悟りを得るための行であり、修行の形式としては自力道のひとつの極致ではある。だが、象徴的な処世の姿勢として身を委ねることを強調するイーノが、長いあいだに渡って説いてきた亜流他力道ような道は、たぶん「同じようなことを目指している」のだから「マインドフルネスやヨガ、瞑想」をも包含してしまえるような、自力道の余地をも残した他力道というひとつの道として可能となるものであるのかもしれない。どこか中途半端なようにも見えるが、そのようなどちらにもつかないような新たな道を模索しようとする行き方そのものが、2020年の後半期に仏教経済学や禅資本主義というものに活路を見出そうとしていた世界の知の趨勢と強く共振していた部分でもあったのか。また、そうした中途半端でどっちつかずなところこそ、知性とポップの両局面をあわせもつ分裂症的なイーノのアーティストそしてプロデューサーとしてのここ四十数年間の立ち位置そのものなのだともいえてしまうだろうか。
中途半端でどっちつかずなことをややぼやかしていうならば、玉虫色とか両義的な姿勢やスタイルということになるか。または、現代のファルマコンにして軟体動物的な生のメソッドであろうか。孔子の言葉でいうと、中庸となるのか。まあ、そういったひとつところに振り切れない自由度の高さやあそびの多さこそがイーノらしさだといえばそれまでだが。だがしかし、それがただのそれまでのことではなくなりつつあるからこそ、みんながみんなあたふたとしてしまっているのである。そういったことが「もはや突飛な考え方ではなくなった」ことの方を、まずは現在進行形の問題として取り上げるべきであるのかもしれない。みんながみんな中途半端でどっちつかずであろうとし始めているということなのだから。それはなぜなのか。それでいいのか。いや、たぶん、それでいい。

危機の時代とは、大いなる変革の時代でもある。ひとつの大きな時代の文化・文明が終焉の時を迎え、まったく新しい何かが何食わぬ顔で入れ代わるように台頭してくる。イーノが見据える変革とは、「私が一番願っているのは、我々がこの40年間生きてきた社会に象徴される資本主義社会の崩壊だ。いい加減終わりにしなければいけないし、これ以上長く維持するのは不可能だ」という類いのものである。この四十年間に様々な重大なる問題をはらみつつも経済成長による増益なるものを担保にあらゆるマイナス面を見逃され続けてきた資本主義社会の行きすぎた市場化と物象化の動きを見直し、今ここでその横暴なる所業を食い止めなくてはならない。人類の手によってそれが食止められるとすれば、これが本当に最後のチャンスかもしれないから。しかし、イーノのいう「資本主義社会の崩壊」が、それすなわち反資本主義という立場を意味するものであるのかは、よくわからない。それの終わりがくると世界はおしなべてコミュニズム的なエートスを導入することになるのかということについては直接は語られていない。発言の中では、社会連帯主義的な方向性もちらちらと垣間見せてはいるが、どこまでそうした市民的な連帯というものに対して本気で期待をしているのかという部分についてもあまりはっきりと見えてこない。
基本的には、イーノとはどっぷりとブルジョア的な側面をもった人物である。現在では知識人や文化人という肩書きももつだけに反資本主義的で社会主義・左翼的なスタンスで発言することも多いようだが、実際にはマイクロソフトのウィンドウズといえば何を隠そうイーノなのだ。九十年代半ば以降、世界中の人々が同じように指先ひとつでウィンドウズのパーソナル・コンピュータを起動させたはずだ。地球上の多くの人々はインターネットの世界と出会う前に、あたかもイーノに導かれるようにデジタライゼーションの門をくぐりグローバル資本主義の洗礼を受けていたことになる。だが、おそらくイーノ自身はこれっぽっちもインターナショナル平等主義的なコミュニスト寄りの人間ではないのだろうし、その社会をとらえる感覚には自由主義的な傾向が多く入り混じっているものと思われる。平等も大事だが、それよりも自由だ、と、アーティストの開かれた精神は宣告するだろう。
「これは常に言ってきたことだけど、生きていてある一定のところまで来ると、お金は重要ではなくなる。ほしいのは金ではなく、時間だ」なんていう発言をする人が、みんなと同じ生活水準にまで引きずりおろされてしまうことに、はたして耐えられるのだろうか。経済面での心配を全くしなくてすむ程度にまで成功した人が、今回のパンデミックによって余分な時間ができて、(多くの暇人たちのように)何もしなくていい時間がこんなにもたっぷりとあるということが、実は最高に贅沢なことなのではないかと気づいて無邪気に感嘆している。そこには、労働できない時間ができてしまうことを純粋に生存に対する脅威であり恐怖だと感じるような、本当にぎりぎりのラインで生活している人々との命の格の差が、明らかに存在しているのを見てとることができないだろうか。
社会の中で比較的高位な階層にいるイーノが重要視するソシアルとは、いかなるソシアルなのだろうか。そのような「ある一定のところまで来」ていると思える社会的地位にあることを前提とした上でイーノはソシアリストでなのあり、いわゆる社会主義的な傾向をもっているのである。ソシアルの天井付近からソシアル全体を見渡したとき、そこに見えてくるものとは、どれくらいに中途半端で無理のある平等の下にあるものとなるのであろうか。
社会に属するすべての人が必要とするものや必要とするサーヴィスを必要なときに必要なだけ必要なところに届けてくれる社会システムが、まずは理想であるのかもしれない。誰も社会の中でおいてけぼりにされないことは重要な事柄である。平等や自由の徹底は二の次であったとしても、すべての人がある程度のレヴェルの生活を保証されていると実感できる福祉行政サーヴィスの行き渡った社会こそが望ましい。
そうした社会の中で、人々は自由を謳歌する/自分を豊かにし高める仕事に打ち込む/そのことが社会を全体的に豊かにし高めてゆく/その循環により社会は一定のレヴェルより下には下がらないで上へ上へとゆるやかに上昇してゆく/幸福で満ち足りている社会が個々人の幸福と自由とともに実現される/そしてそれが恒久的に確かな強度をもって維持・持続される。
だが、それを必要としているものに対して必要なものを届けられる手厚い福祉とは、どこまでを最低限度必要なものとするのかを決定することを必要とする。すべての必要とされているものを、万遍なく臨機応変に行き渡らせることはできるのか。特定の必要最低限とは、誰にとっても同じように必要最低限となるのだろうか。行政事務作業がすべてAI化してしまえば、それも全て機械的かつ自動的に可能なものとなるのだろうか。社会が上昇してゆくにつれて、必要とされるものもさらに広く分厚くなってゆくのではないか。常に満ち足りた状態を目指す福祉とは、どこまでも社会の変化を追い続けるだけの特定のゴールを設定できないものになるのではないか。サーヴィスは、できるだけ画一性を避けて臨機応変であるべきである。市民それぞれの社会活動の範囲というものを近視眼的な社会が勝手に決めてサーヴィスを行うのでは本当に痒いところにまでは手が届かないかもしれない。
もしも、社会に社会のことを決定させるならば、福祉やサーヴィスは限りなく縮小してゆくだろう。すべての人が平等であるよりも、個々人が可能な限りの自由の幅をもって前向きに生きることが尊重されるであろうから。社会はあらゆる規制から解き放たれて羽ばたこうとする。上へ上へと上昇してゆこうとする人間的本能を蔵する社会をいつまでも同じ場所に結わいつけて固定しておくことはできない。ただ、そのときに、人間社会を社会にしている規範までもが断ち切られてしまうことが問題となる。大きく羽ばたこうとするものは、それをほとんど重要視することはない。自由の翼を羽ばたかせるものにとっては古い規範もまた枷になるからだ。しかし、その自由な羽ばたきによって巡り巡って大きな被害を被ってしまうものがいるとするならば、その規範は社会を維持するために保持されなくてはならない(もしくは、すみやかな再策定がもとめられるだろう。改良のための廃棄と廃棄からの改良)。
しかしまあ、イーノがいうところのソシアルとは、何から何まで社会が面倒見てくれるような社会ではないのであろう。「ある一定のところまで来」ている人と「ある一定のところまで来」ていない人では、たとえ同じ社会の中にいても同じ社会福祉や社会行政サーヴィスのもとにはあまり属してはいない。福祉やサーヴィスは、それを本当に必要とする人々がそれを本当に必要とするときにだけ受けられればそれでよいものである。そのかわりに自由にやる人は制限なく自由にやる自由をもっている。イーノ本人もひとりのアーティストとして、社会に煩わされることなく自由に活動したいと願っていることは確かであろう。そして、そうしたアーティストだからこそ創造的な行為や創造的な思考が、社会の根幹をなしてゆくような新しい社会の到来を夢見ているようなところもあるのではないか。そうした社会こそがイーノによってソシアルと呼ばれているものなのだろう。ソシアルはいまだ到来していない。それゆえに求められる。
あの世代の人というのは、どこかでやはり革命的な変革というものを夢見ているようなところがあるようにも思える。行きすぎた資本主義経済・社会に歯止めをかけることができるものといえば、直接的なものとしてはゼネストとデモである。ソシアルがソシアルを変革する形こそがソシアルにはふさわしい。それは68年を知る世代であるからこそもつことのできる社会的な改革にまつわる極めてポジティヴな感覚であるのかもしれない。
平時には資本主義で有時には社会主義になる。そんな入れ替わりの柔軟さをもつ社会こそが、自由度は高くなり、セーフティネットも分厚くなる。革命的変革はめぐる。ソシアルがソシアルを変革する。
あのころと同じような社会変革の風が、もう一度吹くべきだと思っている当時を知る世代の人々は多いのであろう。そうした時代の変革の波にのって、ある意味ではイーノは誰でもないものからイーノになった。それまでにはいなかったようなタイプのアーティスト、楽器の弾けないミュージシャン、ブライアン・イーノは、あの時代の新しいポップな美学の落とし子のような存在でもあった。時代がぐるぐる回転して激動している最中に、旧来の様式や形式からは遠く離れたものであっても、あっちとこっちの狭間で多様な生存が許容される余地が生じていたのである。
軟体的にふやふやとしていて、あまり決定的な説得力というものとは実は無縁であるというのも、イーノがイーノであるためには欠くことのできぬ要素なのではなかろうか。これまでの世界にはなかった音楽やアートやテクノロジーの可能性を模索し続けるのがイーノだ。開拓者であり、パイオニアであり、ポップな商品の優秀な売人でもある。あちらの極とこちらの極の間を、大きく揺れ動き、あるひとつのものだけにとどまることはなく、無常なるものであって同一性や等質性に同定することは決してない。
革命(レヴォリューション)で、何が変わるのか。リヴォルヴとは、回転して循環するということである。回転するものとは、ぐるっと回って何度も元に戻ることを宿命づけられている。ただ、そのようにぐるぐると回転し続けるのが革命というものなのである。何かが変わって、また元に戻る。その繰り返しが革命であり、革命的なるひとつの循環のサイクルのことをひっくるめて革命という。
おそらく、あの世代の人々というのは、そういったこともよく知っているはずなのではないか。どんな革命も、ものごとが動けばその動きに対応したそれだけの反動があり、いつだって中途半端なままになるものなのである。振り子のように一進一退で、もはや始まりも終わりもない。だからこそそれは純粋に(運動として)持続することだってありえる。完全にどちらかに振り切れずに、どこまでも中途半端だからこそ、そこで動的平衡を保ち続けることも可能になる。
持続する革命による、動き続ける社会というのが理想形なのだろうか。おそらくそれは可能なものなのだろうが、あまりにも循環する変化が忙しすぎても、誰もついてゆけなくなって人間も社会全体も疲弊しきってしまうのではなかろうか。そうなると人々はかえって落ち着いた社会を求めるようになってしまうのかもしれない。しかし、あまりにも落ち着いてしまって全く変化がなくなると、ふたたび革命の気運が高まってくるだろう。だからこそ、ほどほどに落ち着いた動きのある持続型の社会が求められるようになるのではないか。そこが理想形なのかもしれない。
中途半端なようで中途半端ではない、絶対的な自力道でも他力道でもない新しい道の模索。持続する革命、有機的な自律の連なり。これまでには見落とされていたような本当は大切で重要だったものやことへの気づきが、新しい(非啓蒙的)啓蒙の芽ぶきとなる。それが意識され小さな変化が積み重なりじわじわと伝播してゆくことによって、おそらく社会は確実に変わってゆくだろう。静かで穏やかな社会革命が、新しい社会を動かし続けるであろう。

「コンピューターの何が問題かというと、身体の首から上しか使わないことだ。あとはマウスをクリックする指が一本あれば事足りる。つまり、首から下を全く使わないということは、人間の知能の大きな無駄遣いなんだ。なぜなら、人間の知能は頭の中だけで機能しているのではなく、体全体で機能しているのだから。身体の動き、筋肉の動き、それら全てが知能の一部だ。」
現代人の営む何から何までコンピューターに頼り切っている生活の様式に、イーノは疑問符を突きつけて問題を指摘をする。今や人間の脳はコンピューターにべったりと張り付いてしまっているといってよい。コンピューターのてきぱきとした的確な補佐があるからこそ脳は正常に機能することが(かろうじて)できている。そういうところまできてしまっている。現代の人間の生にとっては、脳とコンピュータの結合がほとんどすべてであり、脳と直結した指一本による動作だけでその間に起こる全ての回路を取り結びそれを管轄している。
「鉛筆を使うときは、身体を大きな脳として使っている。この「肉体は大きな脳」というのは、友人のピーター・シュミット(イーノがアイデア出しに活用したカードセット「オブリーク・ストラテジーズ」の共同発案者としても知られる画家)が何年も前に言ってた持論なんだけどね。」
一方で、ペンや鉛筆で文章(言語)を書く際には、こちらも外観として見えているものは指先だけの動きにはなるのだが、このとき「肉体は大きな脳」になっているという。これは、頭の脳内だけでなく、全身の感覚を使ってペンや鉛筆で「大きな脳」から言葉を書き出すということを意味するのであろう。「人間の知能は頭の中だけで機能しているのではなく、体全体で機能しているのだ」。指一本だけが突き出たただの大きな脳になるのではなく、身体すべてでひとつの大きな脳になるのである。そういう意味で、肉体全体が大きなひとつの脳となって、それぞれの各部位に備わったそれぞれの知能がそれぞれに機能してはじめて、大きな脳となった人間に元々備わっている知能の全体が(フルに)機能するということになるのであろう。
いずれの場合も人間は脳のみの存在となるのだが、このふたつは全く異なった状態のことをいっている。第一の形態は、身体なき器官。これは身体性を失って脳という器官だけになり、微かに残っている指先を微かに動かしてコンピューターを操作する人間である。第二の形態は、器官なき身体。身体全体に備わっている多様な知能を最大限に活用して、ペンや鉛筆という道具を使用し手で書く人間である。身体は思考を言語化して書く(語る)ためのひとつの大きな脳となっているが、脳というひとつの器官だけになってしまっているのではない。そこには、身体だけがあり(一般的にいう頭部の頭蓋内におさまっている)脳という器官はなくなっていて、身体に備わった様々に種類の違う知能(様々に種類の違う脳)が、そこでは総動員されている。「身体の動き、筋肉の動き、それら全てが知能の一部」なのだ。
ペンや鉛筆で書くという行為は、近ごろはあまり流行らなくなってきてしまっているようである。かつての何から何まで手書きで書いて書き残して管理していた時代と比較すれば、ペンや鉛筆で書くことはほぼ絶滅の危機に瀕しているといってもよいだろう。だが、器官なき身体となって、身体全体に備わっている記憶や知識や感覚の蓄積を総動員して思考することは、とても重要な意味をもつことなのである。指一本しか動かさずに身体機能を排除してしまうことは、人間の身体に備わっている「潜在能力の大部分を無駄」にしてしまうことになる。
身体なき器官となった身体性を失ってしまった人間は、外部情報のインプットが一方通行になってしまうことにより、いつか「重大な誤りを引き起こすことになる」だろうとイーノは警告する。人間そのものを裏返しにしてツルツルになった器官なき身体が、まるで踊るように活動するのとは対照的である。そうした踊るような人間のあり方こそ現在の人間がつとめて意識的に取り戻さなくてはならないものなのかもしれない(行き着くところは、やはり主客合一なのであろう)。そうした些細な部分での人間の身体に対する気づきや実践こそが、持続する革命の土壌となり、自律の連鎖を生み出してゆくことになるのではないか。

グローバルなコミュニケーション手段としての戦争によって滅びるもの。ローカルなデモンストレーションとしての戦争によって滅びるもの。時代の移り変わりともに自ずと没落してゆくものを食い止めることなどできることなのであろうか。いやしかし、己の意思で踏みとどまろうとしないものを食い止めることにどれほどの意味があろうか。
戦争という言葉が物騒すぎるのであれば、それをウィルスのような微細なもの/知らぬまに増殖するものによる組織・機構の内部からの破壊・デコンストラクションと言い換えた方がよいであろうか。ただし、その戦争で破壊されることになるものがひとつの社会であるとするならば、もうすでにそれはそれ以前から崩壊していた(崩壊しかけていた)社会であったという可能性もないわけではない。
ソシアリズム的革命と戦争の間のどちらにも振り切れない道の模索。それは仏教的な峻厳をも突き詰めた中途半端さなのであろうか。そして、足元から視野を広げれば広げるほどになにもかもがあやふやになってゆく中庸の世界か。
「コロナを機に多くの人々が周りを見渡して、自分たちを支えているのは政府ではなく、地元で頑張って活動をしている人たちやエッセンシャルワーカーだったりすることに気づいた。みんな薄給でがんばっている。大金を稼いでいる人たちは何の役にも立っていない。銀行家や政治家や、従業員の460倍の給料をもらっている企業の社長といった人たちを我々は必要としているわけじゃない。本当に必要なのは医者や看護師、地元のヘルパーや介護施設を運営する世界中の女性たちだ。」
「資本主義の崩壊と共に、私が熱望する変化は女性の台頭だ。」
これまでもそこにずっといたというのにちっとも見向きもされてこなかったエッセンシャルワーカーの存在に、これほどまでに多くの人々の目が向かったというのも2020年の特筆すべき出来事であったと思う。パンデミック下の地球上で何が起きていたかを思い出せるだろうか。現在の社会の内部には、それらの小さな労働が小さな機械の部品のように完全に内部にびっしりと組み込まれてしまっていて、世界全体がどんなに大変な事態に見舞われていようが、それはもう全地球的なグローバル社会/経済というものの動きを止めてしまわないために、決して取り外すことのできない小さなたくさんの生きた細胞のようなパーツになってしまっていたのである。それぞれのワーカーたちは人間というよりもシステム維持のための部品として酷く安い賃金で雇われて過重な労働を強いられている。非正規労働者やパートタイマー、単身女性などの弱い立場のもの、弱者や構造的貧者に負担を押し付けているだけでは、いつまでたっても社会はクソのままで、そのうちにそのまま腐ってゆくだけであろう。エッセンシャルワーカーが本当に社会にとってのエッセンスであるならば、それに見合った報酬が与えられて然るべきである。そこには限りなく厳密な公平と公正とがなくてはならない。それは決して少ない給料でこき使われる使い捨ての人材がこなすべき仕事ではないだろうし、(待遇から雇用形態まであらゆる面において)企業の正社員と同等かそれ以上であってもおかしくはない。自分がした仕事以上の給与を受け取っている盆暗会社員は、かなりの割合にのぼるだろう。それをちゃんと均して配分することによって、それなりの地位と見返りが与えられたエッセンシャルワーカーも自分の仕事に誇りをもつことができ、胸を張ってエッセンシャルワークをこなせるようになるのではないか。さらにそこからまた違う自分がするべき仕事を見出して、そこを巣立つものが出てきたとしても、それでも次々とその仕事を志望するものがあらわれるはずだ。社会を維持するためになくてはならぬ仕事だと認められ、そのことに対して誇りがもて、そしてものすごく待遇がよいのであれば、誰もがエッセンシャルワークをやりたがるだろう。最終的には、おそらくはエッセンシャルワークが天職だと信ずる(パンデミック下でも決して過酷な現場を離れなかった医療従事者のような)エッセンシャルワーカーがそれぞれの職場のコア・メンバーとして代々残ってゆくことになるのではないか。
コミュニティによるコミュニティのための(よりファンダメンタルでエッセンシャルな)エッセンシャルワーカーというものが必要である。通常、社会の中で注目を集める目立った社会的な動向というものと縁の下の力持ち的なエッセンシャルワーカーの距離は遠い。だが、それがコミュニティとしっかりエッセンシャルに結びついたものとなってゆくならば、おそらくそこに関わるすべての人がそれに関わるべきワークに関わるという認識が生まれてくるのではなかろうか。そうしたエッセンシャルなワークを分担してゆくことでコミュニティにおける本質的な共同・コモンの基盤は底堅いものになってゆく。共同の場が成立するのは、そこに関わっているものがみな身近なところにいて身近だと感じられるワークの仲間だからこそではないか。そこでの仲間はみな、エッセンシャルワーカー同士もしくはワークするものとワークされるものとしてつながる仲間でもある。宮台真司がよく「社会という荒野を仲間と生きる」というときの仲間も、おそらくはこうした共同体の中のエッセンシャルワーカーの存在を通じた仲間のようなものであるのだろう。
ソシアリズムというか分化細胞的なコモニズム社会主義へと向かう、仲間たちが作り出す新しい(新実在論的)世界。コミュニティは、全体的な社会の内部で複層型多細胞的な仲間世界=社会を、ぶくぶくと無限に生成する泡のように形成される。そこには多くの(新旧の)社会や世界を両生類的に生きる人間がいる(まさに「大阪なおみは、ひとりじゃない」ように)。そして、多様なワークを仲間たちで分担しあえるコミュニティが、活気に満ちて豊かになってゆく(誰も置き去りにせずに)。もはや富裕層だからといってどうなるというわけではない。資本力があるからそれで何か新しいおもしろいことができるというわけでもない。
違う分野や違う文化や違う視点などに由来する違いを多く取り込めることこそが、様々なワークを分担しあえるつるつるで踊るような新しい非閉鎖的な社会を作り上げてゆくことにつながる。常に動いている社会を沈下させてしまうような古い時代の残骸を残滓を極限まで萎んでゆかせながら。そこで取り入れられ参照されるのが、禅資本主義や仏教経済学といったものの考え方であるのかもしれない。それは根本的に中途半端であることのすすめである。そして、身を委ねる生き方をあらためて繰り返し説き続けるものでもある。アルミン・アルレルトは、なにも捨てることができない人には、なにも変えることができないと語った。自分をも捨てることのできる人が、他力本願の道を一気に突き抜けて、真っ先になにかを変えてしまう。流れに身を委ね、世界と繋がり、世界とひとつになる。平らに凪いでいる連続性のただなかに沈み、古い世界の人間性や人間らしさも捨て去るとき、そこに新しいなにかが始まる。

「ソーシャリズムこそが答えなのだ。なぜなら、そういう状況ではソーシャリズムが有効だから。政府が「今はマスクを大量に作る必要がある」と指示をすればいいし、「医療費が払えないからと言って、人を見殺しにするわけにはいかない」と言わなければいけない。他に誰が言うんだ。企業が言うわけがない。何の利益にもならないのだから。だから、危機に瀕したときに我々はソーシャリズムに移行する。でも、危機が過ぎ去れば全て忘れてしまう。せっかく学んだことを忘れてしまうんだ。」
大きな危機のときには、政治のソシアリズム的な傾向が強めに社会の前面に出てくることが社会としての真っ当でふさわしい在り方であろう。社会に起きる問題を即座に次々と解決して滞りを解消してゆくためには、社会全体の流れを単純化し整序することのできるソシアリズムこそが有効だ。しかし、そこにあった危機が様々な有効な対処措置が打ち出されることにより無事に乗り越えられてしまえば、そこで何が有効だったか、どのような有事の社会のあり方が危機によってもたらされる大崩壊を回避させたかを、当事者出会った人々はすっかりと忘れ去ってしまうのである。気鬱になるようなことにいつまでも思い煩っているよりは、すっぱり前向きになってしまった方が気分的にも晴れやかであろうから(万事うまくゆけばの話だが。いくつもの小さな失敗は、極めて根深い怨恨・遺恨を後代にまで残すことにもなる)。そして、次の危機に備えるよりも、平時のぬるま湯に浸かって日々を意味もなく忙しくやり過ごすだけの生活にかかりきりになってしまう。人間とは、面倒くさいことからはできるだけ目や耳を遠ざけていたい生き物なのである。ソシアリズムは有効だがいろいろと面倒くさいところがある。そこでは平時の生活においてのように、あれこれと理由をつけてだらけてばかりはいられない。
救済や救民のためのソシアリズムとは、まるで災害ユートピアのようなものとして音もなく降って湧くように出現し、喉元を過ぎればすぐに忘れられてしまう。それが、危機のときから平時へと移行し回復の道を辿ってゆくさいに社会や市民が通り過ぎるごく当たり前の動きとなる。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件。2011年の東日本大震災。甚大なる衝撃をもたらす出来事は、突然に起き、今までになかったような唐突で強烈な変化が社会にもたらされ、その影響は長く尾を引いて続いた。まるで世界が一変してしまったように感じられる、ひとつの出来事であった。
2020年の新型コロナウィルス感染爆発によって巻き起こされたパンデミックも、それに匹敵するぐらいの出来事だったのではなかろうか。いや、考え方によっては人類にとってもっともっと大きな歴史や時代の転換点となったものであったのかもしれない。今はまだ誰もよくわかってはいないけれど。人々が我先にと接種したワクチンだって、もしかしたら遺伝子レヴェルで今後数世紀の人類の運命を大きく変えたものだったのかもしれない。そこもまだ誰にもわからない。良い方向に変化させたのか、悪い方向へ変化させたのか。わからないからこそ様々な可能性があることを全て排除してしまうようなことはできない。
しかし、あれほどのことが目の前や自分の身の回りや全世界中で起きていたのにもかかわらず、まるでなんでもないかのように感じている人たちがいるようだ。よくわからないけれど変に危ないだの危険だなどと騒いでいる人たちが一部にいるだけで、いきなり外出自粛やら三密回避などといわれて、おうち時間だけが増えてゆき、旅行にも外食にもいけやしない、ちょっと散々な一年だった、といったぐらいの認識しかもっていないような人たちである。そういう人というのは、実はかなり多くいるのではなかろうか。それは、本当に感覚的にずれたり麻痺したりしているせいで、何も感じていないということなのだろうか。それとも、意識的に大変なことがあったと思うようにはしていないし、つとめて何も感じないようにしているからなのだろうか。もしくは、本当に目に見える景色が何も変わっていないから別段何も感じないのか。そういうことについて考えることすらも面倒くさくて、感染症(インフェクション)という文字でさえ小難しいと感じてしまう。だから考えない。最初から何事も考えたって仕方がないと思っているのである。だから、なんでもなかったなんでもないのだと思うようにしている。なんでもなかったのだと思っていれば、そのままなんでもないように日々は続いてゆくだけだ。今のままがなんとなくいいなと思っているだけで、ちょっとした変化でさえ恐れるがゆえに、まったく変化を受け入れようとはしない。人間の生や生命にかかわる様々な事柄からも、自ら目をふさいで関心を示さないようにしている。深く考えなくてもそれなりになんでもなるようにはなる。そうやって毎日がただただ往き過ぎてゆく。それなりになんとかなった過去にしがみついたままに、そのまんま未来へと運ばれてゆくだけ。その先にあるはドス黒く腐った最悪の未来なのではないかと、本人もうすうすは感じ取っていたとしても。

昨日までの世界とは違う世界になってしまった世界で、新しい啓蒙や社会規範が求められ必要とされている。この啓蒙や規範というものは、あまり大上段に構えたものではなく、変化が面倒臭い人というにでも、日々の何気ない生活のレヴェルから、ちょっとずつ変化してゆけるような、ささやかだけれど大きな転換点への通路を用意してくれるものであらねばならぬ。
法や制度が動き出すよりも先回りして新たな社会規範が知らないうちに回っている回り舞台のようにぐるっと動いて、いつの間にか旧態依然としていたものがそっくりひっくり返ってしまっているという状態が最も望ましい。
ちょっとの変化でも恐れる人ほど、自分だけが周りと違ってしまっている状態を嫌がるものである。だがしかし、そういう人ほど、回り舞台のような(リヴォルヴ/レヴォリューション)形式には意外とすんなりと適応しやすいのかもしれない。それが、新しい啓蒙や社会規範の浸透と作用の目標とするところとも重なる。危機のその先にある世界や社会を見据えた大変革が、われわれの足元で静かに進行する。
何かがあった時にうろたえてしまうよりも、普段から何があってもそこそこ平気な生活や暮らし(もしくは、何があっても平気だと普段から思えている生活や暮らし)を営みたい。普段からばらばらのものが、いきなりばらばらに集まって、ばらばらに組み合わさったり散ってゆくのでは、いざというときに何かをなすにはちょっとばかし非力すぎるのではないか。ともにその場で生きる仲間と、そこ(それを共同体やコミュニティといってもいい)でともに生活している感覚を、ささやかな日常の中からもつようにしておくといい。そうしたゆるくてもつながりのある仲間のような存在が集まる方が、いざというときに太くしっかりした力を事の端緒の時点から発出することができるであろう。
どんなに物質的に豊かであったとしても、それだけでは防ぎきれないものが世界には数多ある。本質を見極めれば見極めるほどに、物(物質)離れは進む。不必要なものや無駄を切り捨てることこそが断捨離である。そして、最後の最後で頼りになるのは、やはり物ではなく人なのだとさとる。結局、ダメな人やアレな人が、何かあった時に近くにいると、自分にも危険や危害が及ぶ確率も高くなる。安心・安全な生活のためには、普段から人を選ぶようにしてゆくことも必要なのだろう。とりあえず人で選ぶ。ものではなく、人。それが、いざというときにはものをいう。

閉じた世界から開かれた世界へ。閉じていると、たとえちっぽけな人間であっても、何かをその中で自分の思い通りにコントロールしてしまえるかのように感じるようになる。その中の全てを把握できていると人間はあっさり錯覚できてしまうからだ。閉じていようが開いていようが、ひとりの人間などには何かをどうすることなんてほとんどできやしないというのにも関わらず。人間の愚かさを見くびってはいけない、のである。
「SNSというのは、そういうクローズドシステムを奨励する。となると、当然外部の人たちは信用できなくなるし、中には入れない。自分とは全く違う人種にしか見えないわけだから。」
完全なるクローズドシステムとは、狭い世界の中で完結している閉鎖系のことをいう。それを人間の手で作り出すことは不可能に近いだろう。しかし、人間はそれに似たようなものをあえて作り出そうとしてしまう。狭い世界の中で完結しているシステムであれば、それは人間の手でもコントロールしやすいだろうと思えるから。ただし、問題のSNSにおいてさえもそうしたものは結局可能ではない。それは大きなネットーワークの中のほんの一部分でしかなく、完全に閉じることはなく、どこかは必ず開かれている。それでも、不完全なクローズドシステムの中で完全なるクローズドシステムの幻にひたりきって外部を遠ざけ排外的感覚を味わうには、現在ではSNS以上に最適なものはなにもないのもまた確かなのである。
「でも現実世界では、いろんな人と交わらなければ生きていけない。会社の同僚はもしかしたら、同じ政党に投票しないかもしれない。それでも仲良くやっているし、ランチを一緒に食べたり、お茶をしたり呑みに行ったりもする。多少考え方が合わない部分もあるかもしれないけど、だからって嫌いにはならないだろう。でもSNSの世界では、価値観の違う人たちを否定する、ヘイトが横行している。これこそが世界中で不信や分断を生んでいるのだと思う。」
幻想のクローズドシステムにひたりきることがどれほどに危うく凶的で狂的であるかということをまざまざと見せつけてくれたのが、SNSという現代のデジタル蛸壷の世界であった。あのバカげた軽薄な狂騒を生み出すSNSの世界が、われわれに教示し示唆してくれるところは実に大きい。閉じていることは極めて重大な害悪をもたらす。多少考え方が合わない部分もあるかもしれない人が必ずやいる世界に対してさえも、とりあえずは開かれていないと、閉じたままではいずれ何の動きもなくなっていってしまうだろうから。それではもはや問題を改善することができなくなる。別に誰とでも分け隔てなく仲良くしなくちゃいけないというわけではない。外との交流があろうがなかろうが、とにかく、開かれていることが重要なのである。開かれていればこそ、多様で多層的な共同も可能となる。

みんなと一緒のまるっきり同じダンスをみんなでする感覚。流行のダンスをいち早く覚えて踊ってみて最新の流行の一部になる感覚。みんなで揃った振り付けのダンスをして、みんなと一緒の一体感を楽しむ感覚。みんなが歌っている曲を、みんなで/みんなと一緒に歌う感覚。みんなと一緒のものを聴いて、積極的にみんなの一部になろうとする感覚。
きらきら輝いているクールな人を見て、その真似をしてみる。みんなが聴いているものを聴く。みんなが見ているものを見る。おすすめされるもので満足する。きらきら輝いているクールな人が聴いているものや見ているものを自分も聴いたり見たりしていつも真似をしていれば、多分きっと自分も同じようにきらきら輝いているクールな人になれるだろう、という願望をもつ。いたるところでおすすめされるみんなが聴いているものやみんなが見ているものを、自分も率先して視聴することで、みんなが真似したくなるようなきらきら輝いているクールな人にいつかはなれるかもしれない、と信じる。流行しているものは、絶対にインだから。それをおさえておけば、間違いはない。
流行りのものにはすぐに飛びついて、賞味期限がきれてしまう前にきっちり食べきっておく。絶対に乗り遅れない。いつもみんなと一緒。いつもちゃんと真似して、間違っても流行の輪の中からあぶれてしまわないように心がける。
こういった最近の若い世代の非常に流行に敏感で「いいね」を中心に全てが回り動いているような生のあり方を、実はこれまであまりよくないことだと思っていた。だが、もしかするとそうでもないのかもしれないと、最近になって思うようになってきたところだ。だんだんと。みんながみんな右向け右で同じ方向を向いてしまう瞬間や状況というのは、(それが意図されたものであれ、意図されたものではないのであれ)あらゆる場面で忌むべきものであり、やがて全体主義的精神性をむくむくと育んでゆくものであるように思えて、何がどうあろうととても危険なものなのではないかと思っていた(「ポカリダンスと巡りあって叶うもの」を参照)。甲子園の高校野球やプロ野球のスタンド、Jリーグのスタジアムで、多くの人が一斉に応援歌を歌ったり決まったフレーズを唱和するのでさえもテレビ中継で見るたびに全体主義・同一性・均質化に対するアレルギーが発動してしまって、ちょっと不気味だと感じるほどにまでなってしまっていた。だが、今の若い世代の人々にとっては、そうしたことは何かまた違った(エモい)ものを感覚させるものとしてポジティヴに作用する面も持ちあわせているようにも思える(ポジティヴであろうか何であろが危険なものは危険であることに変わりはないのだけれど。よって、そこの部分で完全に気を抜いてしまってはいけないのだろう。なんとなく流されてしまってはいけない。そういうみんながひとつになれる晴れの場であったとしても醜悪なるファシストの群れはソコでいとも簡単に生み出されていってしまうものなのだ)。
しかし、これからの(より過酷で苛烈なものになってゆくであろう)時代を生き抜いてゆかなくてはならない、そしてその時代そのものを背負ってたつことになる世代としては、いくつもいくつも襲いくる大きな危機の波を乗り越えてゆくために、そうした一体感や横のつながりや共感や集合の感覚というものもまた、もしかすると相当に必要になってくるものであるのかもしれない。
社会規範や倫理観という以前に正しく生きるための意識などの土台となる部分が、多少は青臭くともしっかりと内面化できている世代であるならば、それが何らかの集団や群衆として時代の流れに流されていってしまったとしても、そんなに悪い方向へと向かうようなことはないのかもしれない。
小さな仲間内だけで閉じてしまわないように、常に(立ち止まらずに、新しい)クールなものや人を真似たり模倣するようにする意識をもつことは重要だ。個々それぞれに意識して、ミリ単位であっても意識的に動き続けることで、停滞や閉塞を跳ね返すことができるであろう。しかし、何かしらの変化による成果をよしとして現状に満足してしまった人たちが相対的に多くなってきたとき、その仲間のつながりそのものが閉じていってしまい、そのまま硬直して流されてゆくだけになることもある。大きな時代の流れの中では全てが流れ動いているので、その閉塞して硬直に陥っているものもまた動いているように見えることになるのかもしれないが。しかし、実際にはその内部はもう完全に止まってしまっていて新しさも出口もなくどんよりと動かなくなっている。見た目の動きだけに騙されてはいけない。
みんなと一緒に真似してばかりでも閉じてしまわないために、全体の一部になることを大きな集団に吸収されて停止してしまうことではなく、その中にあってもとにかく「いいね」と感じるものを真似して模倣する動きを多種多様に継続することにする。貪欲に「いいね」して、みんなが意識して良い方向へと動いているのだから、そうした誰しもが次々と更新されてゆくようになることこそが、いつも一緒ではないみんなと一緒の感覚の根底をダイナミックに支えてゆくようになるはずだ。よって、動き続け更新し続けることを止めてしまうと、もはやみんなとの共通のあがる感覚を共有できなくなくなってしまう。微妙に古い流行は、もはや「いいね」の対象にはならない。
集団化や群衆化とは、人間にとってある種の(特殊で例外的な)病的状態であるとともに、それはとても人間らしい健康な状態でもあるという。大いなる危機の時代の大いなる健康(特殊で例外的な時代の特殊で例外的な健康)というものがあるとするならば、それは一面ではみんなと一緒であり続けることを熱心に追求する状態のことをいうのではなかろうか。
そうした新しい時代の人々が動かしてゆく時代の流れが、常にクールな人を真似して「いいね」して意識を高めて生きる人々が多数派である限りは、決して危険なものにはならずに、おそらく躓く可能性も極めて低いのであろう。そして、そうした動きや流れの外側や周辺にいる人々をもじわじわと巻き込んで、群衆や大衆を大きく強く導いてゆく先導的な原動力にもなってゆくのではないだろうか。
携帯もインターネットもなかった時代に、ゆるくつながって自分たちのためだけの共同体のようなものができることがあった。同じ志向をもつものたちが同じものを共有できる場所がそれである。それは一瞬だけ何かが起きるときに、そこに出現して、すぐに消えてゆく。それは、通常の世界とはまた別の場所にふつふつと湧き出してきたかのような〈明かしえぬ共同体〉であり、何かが終わればまたみんなバラバラになってしまって、まさに一夜にして跡形もなくなってしまう。そのときを逃せば、そこに誰がいて、そこで何が行われていたのかは、さっぱりわからない。確かな記録は何もない。それでも、誰かがそこで多分みんなと同じようなものを共有できていたであろうことだけはほぼ間違いない。
八十年代から九十年代にかけてのアンダーグラウンドでオルタナティヴなカルチャーに、もしも何か後代の人々にとって参考になる部分やヒントになることがあるのならば、それをこれからの世代の人々に伝えてゆくということもまた、先行した(先行して潜行した)世代にとっても重要な意味のある活動になってゆくのではなかろうか。そういうものの本質部というのは縦に通時的に(断続的に)伝播してゆくことが多いはずであるから。
個人の自律、個々の法。ある程度の精神主義的倫理観(「良心の積極性は自由を顕示するにある」)が浸透した上での、個々の法と自律であるならば、社会の中での自由と平等をどちらかに大きく傾くことなく均衡させて成立させえるような、自律型社会を実現させることができるのではないか。(永久)持続革命、自律の連鎖。

一一

精神主義とアンビエント。否、アンビエントは精神主義である。
アンビエントは、そこにいる誰かが聴いていても聴いていなくても、別にどちらでも構わないというようなものとして、そこにある。アンビエントは単音ではアンビエントではなく、常に流れている音である。ただ流れている。純粋に持続する音として流れている。アンビエントは重なり合い連なり合っている。だが、いまそこにあったとしても、次の瞬間にはもうそこにはない。ただ重なり合い連なり合っているだけだが、ただの音の連なりではない。アンビエントは、その流れも連なりも、ただ重なっているもの連なっているものとして、その重なりや流れというものによって認識されるのではない。今あったものも、次にくるものも、その次にくるものも、あまり変化はしない。ずっと同じように、そこに流れて連なってある。川の流れのように。それでも、アンビエントは常に流れているし重なっても連なってもいる。聴いていても聴いていなくても別にどちらでも構わないというようなものとして流れている。重なっても連なってもいる。意識していても、あまり変化しないし、意識していなくても、あまり変化しない。それでも、ずっと同じように、そこにあるというわけではない。
アンビエントが教えてくれるものとは。それに、身を委ねてしまうことで、自分が世界の中心ではなくなるということ。そのかわりに世界の一部となる。世界の一部として存在していたアンビエントに身を委ねるということは、それはそのまま世界の一部としてのアンビエントそのものとなることである。厳密にいえば、世界の一部になることは、世界の中心でなくなることと同じことではない。世界の中心もまた世界の一部でしかないからだ。音の流れや重なりや連なりに身を委ねることで、自分を中心とした世界(の在り方)そのものが手放されて消えてしまう。そして、中心を失い世界の一部でしかなくなっている自分が流れや重なりや連なりとともに世界を満たしてゆくことを聴くのみとなる。アンビエントがアンビエントを聴く。アンビエント・ミュージックとは、アンビエントをミュージックするものである。それは空間を音楽する。世界を(脱中心化し)音楽する。
二十一世紀という気候変動と感染症爆発とグローバル経済がない交ぜになった不均衡と格差と分断の時代にアンビエントが、なぜフィットするのか。世界とアンビエントは、なぜ通じ合うのか。二十世紀に音楽は、創作された製品として流通し商業主義的な傾向を強くし、広く多く売れるためにポップ化を強く押し進めた。音楽産業の利潤の追求のために、ポップな商品としての音楽もまた極めて利己的な拝金主義の先棒担ぎでしかなくなっていってしまったのである(音楽のサブスクリプション・サーヴィスは、音楽の物象化の最終形態である。おそろしく薄味なフェティシズムが人類の耳を優しく包み込む)。時代とともに音楽は変節したのだろうか。時代がアンビエントを求めているのだとしたら、変わったのは時代のほうか。アンビエントを時代が求めているのだとしたら、実は時代は何も求めてはいないということなのではないか。もしくは、時代がアンビエントしてきているのであるのだろう。
アンビエントは音楽なのか。それとも音楽は、すべてアンビエントなのではなかったか。始原の音楽もアンビエントであり、終末の音楽もアンビエントである。ミクロコスモスの音楽もマクロコスモスの音楽もみんなみんなアンビエントだ。それを「始まりも終わりもない音楽」と言い表したりもする。まさにアンビエントはアンビエントであり、始まりも終わりもないのだからすべてがすべてアンビエントとなる。つまり、音楽はアンビエントしているのであり、アンビエントしているのが音楽なのだ。
ピエール・ブーレーズもジョン・ケージもグレン・グルードもカールハインツ・シュトックハウゼンもクラフトワークもマイルス・デイヴィスも、みんなアンビエントだった。ブライアン・イーノだけがアンビエントであり、その始原だというわけではない。かといって、そこが終末でもない。誰もが音楽というものを突き詰められるだけ突き詰めて、その行き着くところまで行ってみようとしていた。そこで目指されていたのがアンビエントであった(だけな)のだ。すべての音楽はアンビエントに通ず。しかし、いまだアンビエントを作品として完成させたものはいない。常にアンビエントは未完のままだ。それは「始まりも終わりもない音楽」であるから。
今は亡き木村敏であれば、これをノエシス的な音楽といっただろうか。そして、それは無限に持続する音の流れや重なりや連なりのことであり、どこまでいっても意識はそれに追いつくことができない。よって、音楽のノエマ的な側面にコーダはない。それは「始まりも終わりもない音楽」であるのだから。
時代は、もはや音楽を求めていないのだろうか。いや、そんなことはない。ただ濁った集金システムでしかない経済活動といまだに芸術的に純粋な部分を残している音楽が、これ以上近接してしまうことを求めていないだけだろう。それは新しい感覚をもつ人々が導入する時代が求めるものでもある。もっともっと音楽は解放されるべきではないか。資本主義経済と商業音楽は、あまりにも密接な関係になりすぎてしまった。所有から共有へ。いつもそこにあってすぐに聴くことのできる音楽へ。生活と音楽は(また)より近くなる。音楽を取り巻く世界が、いま変わりつつある。時代が、人間が、変われば、音楽と人間の関係性もおのずと変わる。世界が音楽する。音楽は、アンビエント化する。ポップ・ミュージックの自己表現的な有限性という側面は、そこに自身(わたし)を投影することはできたとしても、自分(わたし)の自己表現からなる歌ではないので完全には身を委ねることができない音楽であることを意味する。音(音楽)が閉鎖性や有限性から抜け出し環境や世界の一部になることで、それは身を委ねられる音(音楽)へと移行する。アンビエントとは、環境であり無限に連なる世界そのものでもある。それは音楽を聴くように聴く音ではなくなる。それでも有限性を聴く音楽としてのポップな音楽(ポップ・ミュージック)は存在するだろう。ちっぽけな限定されている自分に立ち戻り、苦悩したり思い悩んだりする人間臭い喜怒哀楽の感情を(あえて)楽しんだりするために。楽しめる音は、楽しめない音にもなる。それが音楽というものである。
基本的に聴かれることを念頭に置いていない音楽は、がちゃがちゃと騒々しいところでプレイすれば、あっという間にノイズにかき消されてしまうだろう。これを見方を変えて考えると、ノイズがノイズに溶け込んだだけのことであるのだけれど。逆に、基本的に聴かれることを念頭に置いていない音楽であったとしても静寂の中においてならば極めて小さな音量でプレイするだけで、ゆったりと空間の隅々まで音の響きとなって満たしてゆくものとなる。これも見方を変えて考えると、空間(アンビエント)において静寂とノイズが混ざり合い溶け合っただけのことなのかもしれない。
アンビエント・ミュージックとは、アンビエントをミュージックするものである。内側の世界・環境を満たしてゆく音楽と外側の世界・環境を満たしてゆく音楽。あらゆる主体も客体もアンビエントをミュージックする音に満たされて、その世界と環境の一部となる。何もかもが絶対無限の境地にいたり、そこで音の流れや重なりや連なりに委ねられた自己と相見える。あるがままの世界・環境を受け入れて、無限なる自然の流れや重なりや連なりに身を委ねて生きる。そこには優劣もなければ上下もなく左右も負けも勝ちもない。よって、すべてが勝ちであり、その勝ちにはすべての負けもぴったりと縫合されている。それが、無限であり、自然である。そこでは、一切が有であるがゆえに一切が空である。空なるもの、つまりアンビエントだ。空間とは空なる間のことで、完全に包み込まれ囲い込まれているものなのだが、そこは空であってどこまでも寂静にして清浄である。まるで涅槃。
内観とは、客観にも主観にも依らない主客合一のヴィジョンである。因縁の結合による純粋経験を通じて見通す絶対無限の空間。中から外を見て、それをあるがままにそのまま受け入れ、自己を捨て、あるがままに従うとき、中から見ていた外はなくなり、どこまでも中でありながら外になる。有限なる自力を超越することで、絶対無限に突き抜ける。ちっぽけな有限は、すべて無限の海に飲み込まれ、その奥底に沈んでゆく。
すべてにおいて他力本願で自己を捨てていること。身を任せてしまうこと。どこかに偏ることもなく、あちらでもなくこちらでもなく、潮の流れのままに海藻がゆらゆらと揺らいでいるように、とても中途半端だが、そのままでそれぞれがひとつになろうとするとき、全体がゆらゆらとした偏りのないひとつの中道がそこに現れる。それは中途半端な一(全体)という動的平衡だ。万物が一体となる中道とは、どこまでも多様さや中途半端さを許容する。
中途半端に中途半端を見ないようにする。中途半端でありながらも万物は一体となってしまう。中途半端なものは、どこかに大きく寄るわけでもなく、どちらかに傾いているわけでもない。あちこちに中途半端にばらけていて偏ってはいない。そこにある意味や理由があるから中途半端にばらけてそこにあるだけだ。その中途半端にばらばらにばらけている万物を一体であるように見る。ばらばらで偏りがない。偏っていたら、それは中途半端ではない。それゆえに、それぞれの中途半端はそれぞれが中途半端であるために万物は一体のものであると許容しあえるのだ。中途半端な万物は、そこに中途半端があるとは見ずにばらばらな一体を見るのである。
中途半端とは、分離から未分への道の途中のことである。それは、誰もが通る道である。それは、誰もが通っている道である。二極化しばらばらに分離されてしまった無限の有限が、未分化な統一とともにある有限なるものを無限に包み込み囲い込む無限へと向かい到ること。それを中途半端という。
流れ重なり連なる音は包み込み囲い込むが、その包み込み囲い込みの中は空である。それがアンビエントであり、「始まりも終わりもない音楽」。サウンドがあり、聴くもの・感じるもの・観るものがいて、包み込まれ囲い込まれる空なる間がある、そうした条件が整えば、それはいつでもどこにでも生じる。
「我々の生活は、一度我々の知性や願望を遠ざけ、自から進んで為すにまかせるなら、非常にすばらしいものなのである。」(ジョン・ケージ)
理解を空しくし身を委ねる、他力本願へと無限に開かれることで、現実の世界との共感・共鳴が可能になる。信念を惑わさせるような(無我の)音楽は、もういらない。ありのままの姿の世界を見て、始まりも終わりもない絶対無限のサウンドこそが、永久に不変の音であることをさとる。それがアンビエント・ミュージックである。ミュージックをアンビエントするとき、音楽は音楽の煩悩から開放されて、ヒトは初めて/最後に/いつでも流れ重なり連なる音と出会うのである。
人間的精神の持続はアンビエント・ミュージックとともにある。精神主義の成り立たぬところにアンビエント・ミュージックはない。ただし、どこまでも突き詰めてゆくと、ポップとアンビエントの境目はなくなってしまう。無限なる包み込み囲い込みもまた一切は空であるところのアンビエントを開発させ、無限なる空は一切の有限をも包み込み囲い込んでしまうだろう。
純粋に流れ重なり連なる音があるところでは、ポップにアンビエントが聴こえ、アンビエントにポップが聴こえる。音とサウンドと音楽の統一としての始まりも終わりもない音楽だけがそこにある。アンビエントをミュージックするものが、ミュージックをアンビエントにする。

一二

イ)
われわれが実際に生活する世界であるところの社会とは、みんなで見るテレビのようなものである。ひとりで見るテレビもあれば、家族で見るテレビもある。街頭で群衆が群がって見るテレビもある。そして、テレビにはいろいろなチャンネルがある。暇なときにぼんやりとテレビを見る人もいる。人がテレビにアクセスする場面は、本当に人それぞれである。テレビをつけていてもさほど関心をもたず、ただ流しっぱなしにしている人がいる。サウンドをオフにして、ただ画面だけを見る人がいる。コマーシャルばかり見せられて、イライラしている人がいる。好きなものだけを見たくて有料のチャンネルを選択する人もいる。テレビを見る人もいれば、テレビに出る人もいる。今、テレビを見ている人も、明日にはテレビに出ているかもしれない。テレビに出ていた人も、次の瞬間にはテレビを見る人のひとりになる。テレビの中も外も大して変わりはない。それは外から眺めることもできれば、実際にその中で生活することもできる。みんなテレビとの付き合い方はまちまちで、距離感も位置付けもばらばらである。しかし、それでもすべての糸はひとつのテレビというものにつながっている。そこに、やはり可能性というものもあるのではないか。

ロ)
意志して動くことも重要だが、とりあえずまずは思考せよ。闇雲に行けばなんとかなるだろう精神で進んで、一時はどうなることかと思ったがまあなんとかなるもんだなで乗り切っていてばかりでは、いつかどうにもならなくなったときに即座に進退きわまるなんてことにもなりかねない。だから、ときには立ち止まってゆっくりじっくりと考えて見ることも重要なことなのではないか。成長も低成長も成長することには変わりはない。なにがなんでも成長を目指すことは動き続けることと同じである。走りながら考える。とにかく成長を目指すならば全速力で走る。低成長に目標を設定したとてもジョギング程度に走りながら考えなくてはならない。動きながらではじっくりゆっくり思考することはかなわない。ちゃんと立ち止まって考えてみることが必要だ。しっかり思考して、もはや低成長でもよいのでゆっくりじっくり走り出せばよい。ゆっくりじっくり思考することによって、意志して動き出し走りながら考えていたときには見過ごされ見捨てられ排除されてしまっていたものにも目が届くようになるだろう。まずは思考することで、誰ひとり置き去りにすることなく動くことができる。見過ごされ見捨てられ排除されるものがいなくなることで、今までよりもずっとやさしい、今までとはまた違った、より豊かな人間が生活する世界を構築してゆくことが可能になるのではなかろうか。

(2021年春〜秋)

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