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ポカリダンスと巡りあって叶うもの

2017年夏に放送されていた、大塚製薬から発売されている清涼飲料水、ポカリスエットのCMは、16年夏にスタートしたポカリダンス・シリーズの最新作「踊る修学旅行篇」であった。これはそれまでのシリーズ中のエピソードではいつも学校内で踊っていた架空の高校である青波高校の生徒たち(約150人)が夏の修学旅行に行くという設定のCMであり、狭い学校を飛び出した高校生たちが青い大海原を行くフェリーの甲板や夕暮れ時の広大な砂浜で行なうキャンプファイアーの周り、バスターミナルの広場などで開放感のあるポカリダンスを踊りまくる姿がカメラに収められている。まさに青春の爽やかさや清々しさに溢れる映像である。その中心にあるのが、ダンスと音楽だ。彼ら高校生にとってダンスこそが青春であり、そのダンスがあればこそ人生で一度きりのイヴェントである高校の修学旅行も最高にキラキラと輝かしいものとなる。
このCMそのものは、それほど嫌いではない。高校生たちが踊っている姿は、とても楽しげだし、自分が高校生だった頃を思い出して(キラキラと輝かしい学生生活では全くなかったが)何ともいえない甘酸っぱい気分になったりもする。それにメインのキャストである八木莉可子さんは、とてもかわいらしく、透き通るような透明感のある美少女でポカリスエットや青波高校の生徒のイメージにぴったりとマッチしている。そしてそして、何よりも八木さんの全く作られた感じのしない素朴な爽快感にあふれる笑顔からは、ダンスを踊る楽しさがひしひしと伝わってくるようでもある。それでも、このCMを観る度に、どうも何か釈然としない感じが心のどこかに残ってしまったりもするのである。
振り返って考えてみれば、生徒みんなで一斉に同じ踊りを踊るなんていうことは、自分が10代の頃には一番避けたかったことであったように思われる。いつも学校の行事などで、その場から逃げ出したいという思いにかられていたのは、そういった類いの「みんなで一緒に」的なイヴェントや催し物のときではなかっただろうか。中学校までの義務教育の期間がやっと終わって、高校からは自分らしく自由にしていられると思っていたのに、小学生や中学生のようにみんなと一緒のことをするというのは、何だか自分というものの自主性や主体性を否定されているようにも感じられたのである。10代の思春期の真っ盛りの頃であったから、少し神経が過敏になってしまっていた部分もあったのかもしれないが、みんなと一緒というのは、どうも自分を失ってしまっているようで、絶対にどうにかして回避したいことであった。
あの頃から、もうすでに三十年が経とうとしている。何かとても遠い昔のことのような気がするのも、もはやそれらが実際に遠い昔のことだからなのであろう。今だから言えることは、高校生の頃のぼくは、まだまだとても子供じみた少年であった。自分ではもう一人前のことを考え、一人前のことを言っているような気がしていたけれど。だがしかし、いまだに一人前に考えたり言ったりすることがちっともできていないと思わざるをえないところがあるのだから、三十年前の自分にそれができていたとは到底思えない。毎日が行き当たりばったりで、たくさんの大きな壁にぶち当たって、何かも自分の思い通りにはいかなくて、いつもいじけていて、大いに悩んで、それでも何とか高校生らしく振る舞っているのが高校生らしい高校生なのだと思って日々を青臭く過ごしていた。だから、本当は自分が何をすべきかなんてことは全くちゃんとわかっていなかったのである。みんなと一緒のことをするが嫌なのも、何となくそんな気がしていたからだけだったのであろう。
三十年前の高校生と今の高校生では、何かが全く違ってしまっているのであろうか。変に蟠りをもって集団からはみ出ようとすることは、今やとても浅はかで愚かなことだと思われているようにも感じる(おそらく、昔もそうであったのかも知れないが)。きっと、周りのみんなのすることに合わせて、みんなで一緒のことをするほうが(あれこれ思い悩んでいるよりも)断然楽なのだろう。真逆の境涯にいたものではあるが、それぐらいのことはだいたい想像はつく。何となく周りに動きを合わせて、ふわりふわりと浮き雲のように行動していた方が、あまり主体的に何かを考えて行動しなくてもよいはずであるから。いや、それとも、もしかすると最早いちいちの行動そのものに頭を使うことが(もうすでに)できなくなっているということなのではなかろうか。もっと別の心配事やささやかな自分らしさを作り出してゆくことに内面がとても忙しくなってしまっていて。だから、普段の生活では、とりあえず(それほど大きな過ちは犯さないであろう)みんなと一緒の方向性を選んでおくことにしているのかもしれない。だがしかし、それはちょっと危険なことなのではないだろうか。ぼくたちは、そういうところに潜む何か自分らしさを失ってしまう根源的な嫌なものを感じて、とにかくそれを回避するようにしていたのだから(ただし、今思えばまだ10代の若く浅い人間が自分らしさ云々というものに強く固執しようとすることもまた非常に青臭く危険な思考であるようにも思えたりする)。
当時、通っていた高校には、一学年に四十人程度のクラスが十クラスもあった。毎日、約四百人の同級生たちが、校舎の同じフロアにずらっと並んだ十の教室で、同じような簡素な机と椅子に腰掛けて、全員が同じ(西の)方向を向いて授業を受けていたのである。こうした場景が、校舎の一階から三階まで三学年分垂直に積み重なっていた。同じ制服を着て、同じ上履きを履いて。高校の授業というのは、まるでテストのための知識を詰め込むためだけにあるようにも思えていた。このまま学校で毎日を同じように過ごしていたら、同じ場所に千人以上もいる生徒の全体の中に埋没していってしまい、個でなくなってしまうのではないかと考えていたりもした。そして、そのことに対して強い危機感も覚えた。だから、少しでも人と違うことをしないと、自分が自分でいられないように思えてきたのである。誰かがやっていることではなく、誰もしていないようなことをしている自分でなくてはならない。だからこそ、何かに対して安心して熱中して没入してゆくことができたという部分もある。自分にとってそれは音楽であった。同級生の誰もまだ聴いたことがないような音楽を聴きたいと常に思っていた。そんな誰も知らないような、自分にとって(だけだったとしても)心底おもしろいと思えるレコードを見つけ出してきて、とにかくそれを聴きまくることが、ある種の救いとなったのである。
学校のない休日には、よく誰とも一緒にならない場所を求めて、あちこちをさまよっていた記憶がある。学校帰りなどにも制服のままひとりで電車に乗って、新宿や池袋に出かけたりしていた(あの当時はまだ渋谷は中高生がフラッと遊びに行くような場所ではなかった。行ったとしても原宿に行ったついでに代々木競技場や代々木公園のあたりをぶらぶら歩いたり、大中やタワーレコードを覗きに行くくらいであった)。家や学校の周辺にはない品揃えや専門性の高い書店やレコード店をウロウロして、ほとんど周りでは誰も聴いていないであろう自主制作盤のソノシートなどを探し回った。そして、そういうマイナーな音楽にのめり込んでゆくことで、必然的にそれが実際に聴ける場所である都内のライヴハウスを発見することになる(学校帰りに電車で新宿まで行っていたのは、情報誌『ぴあ』で調べたおもしろそうなライヴの前売りチケットをよく新宿ロフトなどのライヴハウスまで直接に買いに行っていたからでもある)。80年代の東京のアンダーグラウンドの音楽シーンは、あえて表通りからは見えないところに、ありえないくらいに様々なものがゴチャゴチャとうごめいている感じで、とても刺激的だった。そして、そのままの流れで、一般的な娯楽商品に堕したものや誰もが知っているメジャーな領域を積極的に避けて歩き続けた。明るい場所を逃れに逃れて辿り着いた先は、やはり地下の薄暗いナイトクラブであった。それは自分のもっていた指向性を純粋に追求していったことで遂に見つけ出せた、自分にとってはすごく居心地のよい場所であった。クラブのダンスフロアにも様々なものがあったが、自然にハウス・ミュージックのダンスフロアに足が向かうようになっていた。まだ、ハウスはマイナーな音楽ジャンルの中でも極めてマイナーな存在で、日本での認知度もほとんどないような状況であった。だが、それゆえにそこには本当にハウスに興味をもち、それをとても好んでいる人々が集まっていたし、常にそのダンスフロアにはダンス・ミュージックやハウス・ミュージックへの愛情が満ち満ちているようにも感じられた。その薄暗い地下の空間では、誰もが思い思いに、黙々と音楽に合わせて身体を躍らせていた。
独特の音楽性やサウンドの奇抜さからくるおもしろさに惹かれて、ハウス・ミュージックが聴けそうなところを探し出しては深夜の街に遊びにいった。そこで踊っているうちに、そのダンスフロアにあった誰でも受け入れてしまえる懐の深さや、すべてを包み込んでひとつのグルーヴの内にあたたかく包含してしまうような空気感が、ハウス・ミュージックのバックグアウンドにあるナイトクラブの文化やダンスの文化に根差し、その文化的伝統をしっかりと受け継ぎ続けていることにダイレクトに由来しているものであるということが、段々と分かってきた。ハウス・ミュージックのダンスフロアで踊るということは、そこにあるとても深いものに触れるということでもあった。当時すでにロフトやパラダイス・ガラージは伝説として語られるようなナイトクラブであったが、東京の地下の狭く薄暗いダンスフロアでもそうした伝説的な場所とどこか繋がっているような感覚をはっきりと味わうことができたのである(例えば、すし詰めの青山MIXで汗みどろになりながらDJ HEYTAのプレイするMFSBの「T.S.O.P.」を聴いたときなどに)。ダンスフロアとは、ロフトやパラダイス・ガラージの時代から変わらずに、社会に馴染めず適合できないものや不条理なる理由のもとに社会から排除されいているものたちの吹き溜まりのような場所であって、昼の世界から夜の世界へと逃げ出してくるものたちの避難所としても機能していた。また、そこでダンスするということは、昼間の社会を中心に回る世界に対する(明かしえぬ)反抗の身振りや運動そのものでもあった。昼間の光に背を向けていても、そこではストロボライトやミラーボールがきらびやかに瞬いていた。毎回のパーティは常に異なるものであり、そこでは夜ごとに違うダンスフロアの空間が形成されていて、すべては移ろい、季節や暦とともに全ては移り変わってゆくにもかかわらず、これからずっとずっとそれまでと同じように続いてゆくもののようにも思われたのである。
東京のダンスフロアでも、思い思いに身体を動かして自己を表現するものとしてのダンスにのめり込み、そうしたダンスの文化への愛を深めてゆくものたちが続々と現れた。うたかたの幸福感に満ちたナイトクラブのダンスフロアで味わった豊かで深い経験は、そこにある人知れず息衝いている夜の世界の文化をもっともっと盛り上げたい、どんなものよりも素晴らしいものに思えるダンスの文化をメジャーにしたいという気分を掻き立てずにはおかなかった。そんな思いもあって、いつしかそれに関する様々なものを多くの人に向けて紹介するようなものを書くようになっていた。ダンス・ミュージック関係の記事や新譜の12インチ・シングルやCDのリヴューを書き、必要があればクラブ文化の歴史を何度でも説明した。それを多くの人と共有することで何かこれまでにはなかったような地下の文化のひろがりを目の当たりにできるのではないかと、ひそかに期待をしていた部分も多分にあったのだろう。時には、少し大げさにナイトクラブやダンスフロア、そしてハウス・ミュージックというものを持ち上げて書いてしまったこともあったかも知れない。
そのうちにクラブ・シーンが段々と盛り上がりを見せはじめ、クラブ・ミュージックがおもしろいといわれるようになってきた。どちらかというと、ナイトクラブで聴けるような音楽以外の音楽がおもしろくなくなってゆき、小室ファミリーやJポップ系のロック・バンドのCDは爆発的に売れてはいたものの、日本の音楽業界全体が刺激に満ちた盛り上がりとはほど遠い状況に陥っていたせいで、クラブ関係の尖ったサウンドに脚光があたるようになったという方が正しいのかもしれないけれど。ナイトクラブで音楽を楽しむクラビングというものが一般化してゆき、そこは普通の人々が普通に夜遊びを楽しむ場へと移り変わってゆく。それそのものは、地上の側から見ていると新たな形式のみんなと一緒に遊興できる場の出現でもあった。ただし、それもこちら側から眺めていると、ずっと逃げ出したいと思っていたみんなと一緒を強いる場を後にして、誰の目にもつかないような(文字通りに法の外にある)暗く薄暗いダンスフロアに逃げ込んだはずなのに、みんなと一緒に娯楽したい人々がわさわさと後を追うようにして地下にまでやってきて、何となくナイトクラブを楽しくないものに変化させていってしまったという形になるであろうか。
ディスコ・ミュージックが全世界的にブームとなった70年代後半、日本の都市の繁華街にも多くのディスコが開店し華やかな賑わいをみせていた。このディスコのダンスフロアでダンスにはまった若者たちが、日本におけるディスコ由来のダンスの文化を形作っていったのである。また、ディスコのダンスフロアで集団で同じ振り付けで踊っていた若者たち(みんなと一緒の娯楽)は、いつしか原宿の歩行者天国という街中に飛び出して、路上でラジカセから大音量で流すディスコ・ミュージックに合わせて一糸乱れぬダンスをする竹の子族となり、社会的にも大きな注目を集める存在となった(竹の子族が生まれた背景には、ディスコにおいてみんなで同じ振り付けで踊る=ステップ・ダンスを禁止する店が多くなったので仕方なく自分たちなりの踊りを楽しむ場所を歩行者天国に求めたことで誕生したという説や、まだディスコに入店できない中学生や高校生が集団で原宿のブティック竹の子の服を着て同じ振り付けで自分たちの遊び場である原宿の街中で踊り始めたことが起源だという説などがある。竹の子族は沖田浩之のような超人気アイドルなども輩出している)。80年代半ばにはユーロビートが人気を集め、全世界的にはディスコ・ミュージックが下火になりアンダーグラウンドのナイトクラブに軸足が移りつつあったダンスの文化であったが、日本においてはマハラジャやキング&クイーンなどの装飾華美なディスコを中心に独自のダンスの文化が育まれてゆくようになる。こうしたディスコ・ブームから興った日本型のダンスの文化は、後にアンダーグラウンドのハウスやテクノが隆盛を極めた時代には、そうした新しいクラブ系の文化と結びついてゆくような流れもあったが、ほとんどはジュリアナやヴェルファーレなどのユーロビートの流れを汲むハード・テクノ・サウンドを中心とした伝統的な日本のディスコの夜遊びノリを保持する文化として生き延びてゆくことになる。そして、ナイトクラブの存在が一般化してくると、夜遊びそのものを主目的とするディスコのノリでダンスの文化に親しんできた人々にとっても、地下から迫り上がってきてそこにあったダンスフロアは遊興のための場所として当たり前のように認識されるようになっていった。日本のディスコの文化は、みんなで一緒に楽しむ人々によって形作られ、牽引されてきた。そうした夜遊びする若者たちの群れは、ナイトクラブという新たな選択肢を見逃さずに、みんなで一緒にダンスして遊興する場所にそのダンスフロアを組み入れていったのである。そして、ディスコ時代からの流れを汲むダンス文化の普及と発展のために、ディスコならびにナイトクラブのダンスフロアを舞台に、より積極的な活動をするようになってゆく。
日本におけるダンス文化の(さらなる)活性化に向けた動きは、長年に渡りディスコやナイトクラブを陽の当たらない場所にしてきた風営法の改正に向けた社会的かつ政治的な運動へと昇華されてゆくことになる。また、それと並行してダンスの文化への理解を深めるために、小中高の学校で体育の授業でダンスを必修化する動きも前進した。教育の現場にまでダンスが浸透してゆくことで、ダンスの文化を明るく健全なイメージに結びつける傾向が加速化してゆくことになった。ビートのきいた音楽でダンスすることの一般化が若年層の中で進んでゆくことで、ディスコの文化もダンスの文化も決して閉鎖的なものではなくアンダーグラウンドなものでも全くない、より開かれた健康的なスポーツやレクリエーションに近いものとしてとらえられてゆくようになってゆく。ダンスが青少年の育成にまで重用されるようになった裏側には、若者の間で大ブレイクしたエグザイルやE-Girlsのようなダンスを音楽や歌と同列に前面に押し出したパフォーマンス・グループの存在があった。その人気から醸成されるダンスというものに対する開かれて好意的な世情が、様々な方面への働きかけへの土台となり後押しとなっていたところは多分にある。実際にエグザイルの中心的なメンバーたちは、80年代から90年代にかけての六本木や横浜などの夜遊びが盛んな街のディスコ文化の伝統を継承し、それをエンターテインメントとして発展させ、周到なマーケッティング戦略の下で成功を収め、全国的に普及してゆくエグザイル的なパフォーマンス系のダンスのスタイルを作り上げた。さらに、各地に系列グループのダンススクールを開講・開設し、ダンスの文化の裾野を広げることにも尽力した。そうした方向性がダンスとパフォーマンスを軸とする彼らのエンターテインメント・ビジネスをさらに拡大させてゆくことにつながる。それゆえに様々なダンス文化の発展の働きかけに対しても積極的に携わってゆくようになる。風営法改正もダンス教育の必修化もダンス文化にまつわるビジネスをポジティヴな方向に導くものであるであろうことは間違いないところである。グループのブレイクによって火がついたダンスのムーヴメントを永続的なものとしてゆくために、そして新たに設立した株式会社を繁栄させてゆくために、いつしかダンスの文化はビジネス拡大のためにどもまでも利用され尽くされるものともなっていたのではないか。だが、そのエグザイルに代表される形でメインストリームを形成していった伝統的な日本型のディスコ文化のダンスのスタイルだけが、ダンスの文化では決してない。そうしたダンスの文化のほんの一端を、極度に分かりやすく若者向けにデフォルメしたBボーイ/フライガール的かつ街の不良的なルーディ・スタイルへと定着させる形で商品化して、資本主義経済の原理に則して広く浅く売り込んでいっただけでは、そこからごっそりと抜け落ちてしまうものがあることはいうまでもない。
体育の授業でダンスをしたり、部活動では創作ダンス部があったり、学校においてダンスというものはもはや当たり前にそこに存在しているものとなっているのではなかろうか。教室でも体育館でも廊下でも校庭でも音楽を流して当たり前にみんなで一緒に動きを合わせて踊ってしまう。一緒に振り付けを合わせて踊ることで得られる一体感が、学校の中での生徒同士の結びつきを強め、同じ方向を向いて同じように歩んでいる仲間と踊る楽しみを倍加させる。それは同じ学校という枠の中での同じ学校の学生同士という結びつきが前提としてある一体感でもある。同じ制服、同じ体操服。だからこそ結びつくことができるのではなかろうか。もしも、知らないもの同士であっても、それぞれの学校の制服を着ている同じ学生という共通の属性をもつものだからとか、同じ年代の若者だからだとか、同じダンスを踊れるからとか、そうした何かしらの互いに一発で(直感的に)確認しあえる大前提というものがまずあって、その上に一緒に踊る一体感や楽しみがそこに生じてくるということなのではなかろうか。
そうした学生によるダンスの楽しみや一体感の行き着く先が、あのポカリダンスのCMに描き出されているようなダンスと青春がしっかりと結びついているようなキラキラした学生生活なのである。もはや一般的な学生生活の中に、集団でのダンスが自然に浸透している状況が実際にあるからこそのあのCMの雄大なる表現も現実感をもって受け止められるのであろう。
全員で一緒に、きれいに整列して、全く同じ振り付けのダンスを踊り、それを楽しく心地のよいものだと、漠然とした大きな一体感の中で感じ取る。今の若い世代は体育の授業や課外活動を通じてそのような人間類型へと教育されている。地下の薄暗いハウス・ミュージックのダンスフロアにおいても、特にガラージ・クラシックやディスコ・アンセムといわれる楽曲がDJによって的確なタイミングでプレイされたときには、そこには大きな一体感に包み込まれているような感覚があった。その場に誰ひとりとして知っている人はいなかったとしても、その感覚は言葉を超越したものとしてそこにあった。このふたつの漠然とした大きな一体感は果たして同じものなのだろうか。おそらく、どこかに共通するものはあるのだと思われるが、基本的には全く違うものであるような気がする。ダンスの文化の流れの中でポカリダンスにまで培養されてきた一体感のその裏側には、バラバラなことはダメでちっとも認めることができず、みんなのダンスの楽しみを乱すものは集団の中に受け入れられないという(排他的な)心性が隠されているのではなかろうか。授業でのダンスなどを通じてそうした教育を受けてきた世代が、刻々と増えていっているということのひとつの顕れがあのポカリダンスのCMなのだろう。あのCMで描かれている今の高校生たちというのは、そうしたダンス教育にどっぷりと浸かり、ダンスは学び学習するものである(ダンスにおける受動性の過多)という教育の成果がしっかりと根付いた世代となっている。そうした世代は、すぐに学生の層だけでなく社会人の大半をも占めるようになっていって、ゆくゆくはしっかりと教育され教化された、とても踊らされやすく一体化したダンスをすることに喜びやこの上ない楽しみまでをも感じるものたちばかりの社会が形成されてゆくことになるのであろう。そんな絶望的なまでに従順な国民が、この国のあちらこちらで集団で整列して楽しげに一糸乱れぬダンスを、一体感の根幹となるもの(シンボル)を奉り高らかに誇らしげに掲げてみせながら、ファンキーでノリノリなファシスト・グルーヴに歓喜してまんまと踊らされ続けることになるのだ。そうなると高揚感の大波に攫われ続けて、もうかつていた(素朴な楽しみや喜びがあった)場所には、そう簡単に降りてくることはできなくなってしまう。
しかし、それでもいいのかなと思えてしまう部分も実はどこかにあるのである。そうした流れを辿るべくして、すべては積み重ねられてきていて、現在のポカリダンスへと至り、さらにその大きな一体感を拡大してゆこうとしているだけなのだろうから。こればかりは、実際に踊らされているものたちが本当に何か心底痛い目にあったりして、その踊りを根本から見直してゆかない限りどうにもならないであろうという部分はある。一度走り始めてしまったものは、そう簡単にはとまらない。このあたりにいる人々は、そういう痛い目にすでにあっているはずなのだが、また大きな一体感を求めて想像以上の未来へと踊り出してしまったようである。おそらく何とも中途半端で片手落ちな制裁を短期間に受けただけにとどまってしまったようなところがあって、根本から見直せたのはほんの一部分だけに限られてしまっていたのかもしれない。よって、あの時は本当に心底痛いと思うようなところまでその痛みをすべてのものに分配できていなかったのではなかろうか。だからまた、もう一度あれを繰り返してしまうというのもすでにわたしたちが何十年も前から背負い込んでしまっていた宿命にほかならないのかもしれないと思ったりもするのである。みんなでポカリダンスのようなものを楽しく前向きにみんなにとっての幸福として追い求め始めてしまったら、もうそれは行き着くところまで行かないと止められないのであろうとも思うのである。もはや社会そのものが大きな幸福の一体感にすっぽりと包まれ続けてしまうのだから。

(2017年/2021年・改)

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