見出し画像

いつかまた桜の咲くころに

こちらの一文(「読まずに死ねるか(2022)」)にもちらっと書いた通り、ちょうど一ヶ月ほど前の三月の末に、母が他界した。そして、その十一日後、母の妹である叔母もこの世を去った。あまりにも突然のことであり、あまりにも衝撃が強すぎたのか、正直なところ、いまだに何が起きて、今どういうことになっているのか、まだちゃんと理解できていない、把握できていないような気がしている。心に、大きな穴が空いてしまったようにも感じるが、まるで自分の中のとてもとても大きな部分がいきなりすっぽりとすっかり失われてしまったような気がして、もうその後には何も残らないような気がして、自分が自分ではなくなってしまうような気がして、もはやこの世界に自分というものが存在する理由がなくなってしまうような気がして、極力ちゃんとしっかりと考えないようにしているようなところもある。あの日は、ちょうど東京の桜が満開になったと、ニュース番組で伝えていた日だった。叔母の告別式の日も斎場の外ではたくさんの桜の花びらが風に吹かれてひらひらと舞っていた。元々あまり花見などをする方ではなかったが、今後はより一層積極的にそういうことを敬遠するようになってゆくのかもしれない。桜の季節というのは、一年で最も楽しい気分になれない数週間になるであろうから。いつの日か、大きな穴から空気が抜けきってしおれてしまった心が、とにかく癒える日がくるまでは、きっとそうなのだろう。だが、いつかそんな日がくる、というようなことは、今はまだ到底考えられるような段階ではない。項垂れて暫し打ち遣れ桜ばな。
いや、ただひとつだけ、見たいと思う桜がある。横浜の西区赤門町、京浜急行黄金町の駅を降りて広い通りを渡り門前の密集地の狭い路地を歩くと見えてくる東福寺の赤門をくぐったところにある桜である。墓参や法事の折に、よく祖母と母と叔母と一緒に桜の花を眺めたような気がする。が、本当にそんなことがあったのかは、ちょっと定かではない。子供のころに、春休みの期間中、そんな桜の花の咲くタイミングに法事などがあっただろうか。あったかもしれないし、なかったかもしれない。それでも、赤門といえば、桜のイメージは、ずっとあった。お寺での法事が終わった後に、みんなでぞろぞろ歩いて食事にゆく際にも、大岡川の桜を見たような気がする。のだが、ちょっとこれも記憶が定かではない。しかし、間違いなく、三月の末に亡くなった祖母の法事の際には、東福寺の桜は満開で、ぶわっと一面を被うような桜吹雪が境内を白く淡い桜色に染めて舞っていたはずである(母が他界したのは、祖母の命日の二日後であった)。だけれども、このときにはもう祖母はいなかったのだから、みんなで一緒に桜の花を眺めるというようなことはできなかったはずなのである。おそらくは、この時にも、気分的には、祖母はすぐ近くにいて、みんなで一緒に桜を眺めたという気分になっていたのだろう。そして、それが、そういう記憶となって頭の中や胸の中にすっかりと定着してしまっている。のである。だから、あの思い出の桜の花吹雪の中にたたずめば、また一緒に、みんなで、桜を眺めることができるような気がするのだ。いつかまた、あの桜が咲くころに。
東福寺は、太田道灌と所縁があり、安藤鶴夫が敬愛した長谷川伸の墓所があり、門前の赤門町には舞踏家の土方巽が一時期暮らしていた(澁澤龍彦も友人土方の居所がある黄金町や赤門町をしばしば訪れていたという。きっと、渋澤もあの界隈の独特な空気に触れ、さぞかしちむどんどんであったことだろう)(西区と中区の赤門町の狭い路地には、ひとたび足を踏み入れると、どこか不思議な別世界に迷い込んでしまうような雰囲気があった。門前のほんの狭い区画に幾筋かの細い路地がまっすぐ伸びていて、そこに古めかしい小さな家屋がびっしりと建ち並び、そういったどれも同じような通りが幾つも幾つもある。だから、歩いていると、どこまでいっても目的地にたどり着かないような感覚にとらわれる。「あれっ、この曲がり角、さっきも曲がらなかったっけ」とか「さっき通った家の前にいたおばさん、またこっちにもいた」とか、同じところをぐるぐるぐるぐる巡り巡っているような気分になる。そして、気がつけば、坂道を降りてきた道路にかかる歩道橋のところに出ていたりする。ただし、そこで焦ってしまって、「あっ、まずい。これは、お寺を通り過ぎちゃったかな」と思って、来た道を急いで引き返そうとすると、さらにどつぼにはまる。実際には、まだ通り過ぎてはいないので、本当にいつまで経っても目的地にたどり着けなくなってしまうのである。だが、よく注意して周りを見て、慎重に進めば、狭い路地の奥にある赤門には、すぐに難なくたどり着けるものなのである。子供心に、赤門町は、とても不思議な場所だった。また、寺の裏山の上の方にある墓の前から振り返って横浜の景色を眺めると、すぐ隣の関東学院がある高台の急な斜面が間近に見えた。その先にも木の生い茂る山のような高台の連なりは、ずっと続いていた。墓地のある裏山の急斜面の下には道路が走り、上の方からは野毛山公園で遊ぶ子供たちの声が微かに聞こえていた。見渡せば、眼下には黄金町などの妖しげな繁華街があった。墓所の端っこの崖上のようなところに立ってみると、そこが下の世界と上の世界の際のような場所であることがよくわかった。東福寺の裏山は、子供のころに本当に好きな場所だった。いつだって探検家のような気分になれた。大人たちは、階段が狭く急で長く、いつも文句ばかり言っていたけれど)。坂を下って、大岡川を渡れば、その先は横浜橋通商店街で、もうちょっと行くと三吉演芸場につき当たる。商店街から、ちょいと横を見れば、そこは桂歌丸生誕の地、真金町である。このあたりを子供のころにうろちょろし、赤門前で揚げたてのコロッケにかぶりついていたわたしにとって、この黄金町界隈とはずっと特別な場所なのである。そして、今ではそれらすべてが何かわたしにとって強く因縁めいたものであったのではないかとすら思えるようになってきている。みんなで一緒にまたあの赤門の桜を眺めたい。

【追記】
川越の斎場では、どこからかお囃子の音や木遣り歌が聞こえてくることがある。わたしは、そんな最後の最後まで祭礼一色なハードコアな祭りバカがいる街に生まれ育ったことを、とても嬉しく喜ばしいことだと思う。ここにはまだ江戸の風が吹いていることが、そんなところからも微かにだが感じ取れるから。東福寺の桜を散らせていた風もまた同じような浅草観音裏あたりを思わせる匂いのする風であった、といくつものよき思い出とともに記憶している。


☆補足
フェイスブックに「読まずに死ねるか(2022)」について投稿した際の前口上が、ちょっと長くなったので、こちらに全文を掲載することにする。子供のころの思い出や赤門近辺のことなど、楽しく読んでいただけると嬉しい。


ここから先は

0字

¥ 100

お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートはひとまず生きるため(資料用の本代及び古本代を含む)に使わせていただきます。なにとぞよろしくお願いいたします。