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文明と野蛮(仮)

すごく思い悩んで息苦しくなってしまったとき、フッと「こんなときソーマがあればな」なんて思うことがある。半グラム錠のソーマがあれば、すぐにすべてさっぱり忘れてしまえるのだから。ソーマとは、オルダス・ハクスリーが1932年に発表した小説『素晴らしい新世界』に登場する、高度に文明化された社会で、全ての人に配られている、謎めいた錠剤(いわゆる合法ドラッグだろうか)のことである。この薬のおかげで、ストレスフルな高度な文明社会においても、人間はいつでも無条件に最上の桃源郷にいるような気分の中で生活することが可能になる。
服用すると気持ちが高揚し、楽しく快活な気分になれる薬というものは、現代のいまだ高度に文明化されてはいない人間たちの社会においては、基本的に禁止薬物に指定されていたり、社会に対する害悪であるとさえ認識されていたりする。だが、そこにいるすべての人間が一切与えられた環境に反抗することのない朗らかな毎日を送る社会(へとプログラムされた社会)にとっては、統治者から無償で与えられるソーマ漬けにされてしまう生活こそが、その社会を成り立たせ正常で善なるものとする(精神の自由の)根拠なのだと信じ込まされてしまっているのである。社会や世界が文明化されてゆく過程で、その倫理の根底の部分で(知らず知らずのうちに)何かがアベコベに逆転されることになるようである。
ソーマは、酒と宗教を一緒くたにしてミックスしたような精神と肉体の両面に効く、一種の麻痺的な酔い(麻酔)のための酒と宗教の代用品である(これを「でくの坊化」と言い換えることもできる)。それを飲むと二日酔いになったり変に偏って心酔したりすることは一切なく、全くの副作用を被ることなしに酒と宗教の効果を(人間が許容可能な最大限度まで)楽しむことができる。辛いことや嫌なことはすぐに忘れられ、ソーマを一日の単調な労働の終了後に日常的に摂取し続けることで、悩みや苦痛のない朗らかで幸福な(各人の能力に見合った生産的労働をアウトプットする)生活を送ることができるようになる。そこにあるのは、高度に文明化された、あらゆる社会的な不安が取り除かれた、安定していて、秩序のある、社会/世界である。
個人的な意見としてではあるが、依存性の強い酒と宗教といったものは、全くもって人間の生活にとって不必要なものであると思っている。まあ、それほどの依存度がないのならばあっても別に構わないものではある。だが、なくても全然困らないものでもあるはずだ。だから、実は本当は全く必要のないものなのではないかと思えてきたりもするのである。とにもかくにも、それは本来的な人間性を(一時的にも恒常的にも)失わさせる危険性をもっているものであるといえるだろう。人間を人間らしく生きさせないようにするための危険な誘惑を(依存状態によって、絶えず)投げかけてくるものが、酒と宗教なのである。か弱きものである人間は、常に辛さや苦悩から逃れたいと考えている。どこまで行っても逃れられない辛さと苦悩から目を逸らすことを許し、そこに設けられた束の間の安全地帯に逃げ込むことを嗾けるのが、酒であり宗教なのである。しかし、人間が生きる辛さや苦悩から本当の意味で逃げ切れるのは、自らの弱く小さな人間らしさと向き合い、そこにある人間としての(ちっぽけな)能力に否定に否定を重ねて錬成し、辛さや苦悩を越えるところまで高められたときだけである。酒や宗教のもつ意識や思考を虚弱化させる力を借りて、苦悩を追い払ったと信じ込んだり、心の平穏を得られたと感じたとしても、それは実は瞬間的なまやかしのものでしかない。酔いからさめれば、より大きな苦しみや苦悩に再び襲われて、さらに深く酒や宗教にのめり込んでゆくことになり、それに助けを求め続けなくてはならなくなってしまうという生き地獄が待っているだけである。
(そういう意味では、21世紀の初頭に小泉純一郎首相が構造改革の名の下に行なった、酒類販売の免許制の撤廃やアルコール専売の廃止などを押し進めた政策としての規制緩和は、常態的に市場に酒を溢れかえるような状態を生み出しやすくする、まさに国民に広くソーマ的なものを与えるような政策であったといえるだろう。あれで、どれくらいの(重度から軽度のものまでを含めた)アルコール中毒の依存症患者が国内に増加したのであろうか。多くのものを人間らしい生き方から遠ざけさせ、日常的な酩酊の中に逃避させることとなってしまったのではなかろうか。それこそ政府の思う壺であったのかもしれないが、ある意味では世紀の愚策であったようにも思われてならない。多くの規制を緩和して社会を豊かに潤ったものにしてゆくためには、まずは最後まで酒と宗教の元栓だけはしっかりと締めておくべきであったのではなかろうか。しかし、小泉純一郎は、自らにとって追い風になるだけの純ちゃん人気を継続してゆくためであったのか、真っ先に国民に酒を与えて酩酊させてしまったのである。そして、暗愚に堕した国民は、経済や市場状況の表層に現われる規制緩和の限りなく少ないプラスの面ばかりに目を奪われて、構造改革の本質的な中身にまでシッカリとチェックを入れることをやすやすと怠ってしまったのではなかろうか。)
神は、不安定で秩序が確立されていないところを大いに好み、呼ばれてもいないのにそこにホイホイとやってきて「呼んだ?」と顔を出す。深く深く思い悩み、どこにも活路が見出せなくなり、生きることに苦しむものが、最後の最後にすがりつくのが、そんなどこにでもホイホイとやってくる神なのである。安定し秩序が保たれ、ソーマがすべての苦悩を取り去ってくれる世界においては、決して神は求められることはない。そんなものは、とうに忘れ去られて、もはや存在すらしないものとなってしまっているのである。
数奇な運命の悪戯によって蛮人保存地区で育った野蛮人ジョンは、文明国の総統ムスタファ・モンドと交わした最後の会話の中でこのように語っている。「わたしは愉快なのがきらいなんです、わたしは神を欲します、詩を、真の危険を、自由を、善良さを欲します。わたしは罪を欲するのです」と。野蛮人ジョンは、ソーマを否定し、神を欲するとともに、モンドの統治する文明国が、真の危険からは見かけ上は解放されているが、自由と善良さには著しく欠けた社会であることをここで告発しているのである。
それに対してモンドは、酒と宗教の代用物であるソーマで愉快になることを嫌うということは、文明国では不幸になる権利を要求するということに等しいのだと切り返す。酒と宗教のもたらす高揚と忘却の効果に逃避して、人間らしく生きることを放棄し、本来的な人間性を見失い、最適化されて誂えられた適度な外的刺激によって半ば強制的に愉快な気分になり、(束の間のまやかしのものではあるが延々と繰り返し付与される)満足に浸りきる。それを忌み嫌って、これを拒否・拒絶するということは、野蛮人ジョンの迷い込んでしまった文明国だけでなく、今のこの社会においてもバカバカしいことだと多くの人から思われるものであるのかもしれない。酒も宗教も(ソーマも)受け入れないということは、どのような社会にあってもそこが(高揚と喜悦と歓喜と陶酔と忘却に依存する)人間の暮らす社会である限り、自ら進んで不幸の中で生きることを望んでいるもののように見えたりもするのであろう。
しかし、それでも野蛮人は、神を欲し、自ずから不幸となることを欲するという。人間として決して拭い去ることのできない、穢れた汚らわしい人間的な罪を強く狂おしいほどに欲するものであるがゆえに、彼は神を欲してやまないのである。
安定した社会に暮らす文明の民は、何にでも効く万能薬であるソーマがあるためにもはや神を欲することはない。ソーマがあるから、酒も宗教も、その存在すら思いつかないのだ。だが、野蛮人は、高度な文明が完成する以前の不安定な世界に立ち返って神を欲し、自らの罪と苦悩に塗れて生きることを欲するのである。
わたしもまた酒も宗教も人間が人間らしく生きるためにはおそらく全く必要のないものだと考えるものである。これは、文明化された社会や世界で生きる文明人と同じ考え方や感覚なのであろうか。いや、ソーマという立派な代替品がある社会や世界では、より酒と宗教の効果を精製したものにどっぷりと浸かりきって生きているということになるのかもしれない。不幸な運命に翻弄されることとなってしまった野蛮人の母リンダのように。
野蛮人は、文明人の人間らしさを失ってしまった生き方に反対して、神を求めて罪を欲する。ソーマを拒絶し、人間らしさを取り戻すことが、人間にとっての真の幸福であり、人間らしい自由で善良な生き方であると考えているから。
ソーマを拒絶するということは、この現在の社会や世界でいえば酒と宗教を断固として拒絶することであり、生活圏の身近なところにある神的な存在の偶像(文明国であれば、小さなソーマの錠剤として、それは人々の生活に深く浸透している)を破壊するということでもある。
だがそれでも、野蛮人は神を欲する。その神というのは、全く身近なものではない、遠いところにいる(限りなく最も近い)神である。その神が罰する、人間のどこまでも人間らしい罪が、無秩序で不安定な生活の中にこそあるのだということを、生臭い生を生きる人間に幾度も幾度も思い起こさせ、人間の人間らしさを感覚させる助けになる。その助け、つまりそこに出現する救いのために、そこで神は切実なまでに必要とされているのであろう。
そこで希求されているのは、本当に神なのだろうか。実は、そこに神なんていうものは本当はどこにも存在していないのではなかろうか。人間が人間らしく汚れて穢らわしく生きる、それが人間の人間らしい生なのである。それくらいに人間とは罪深い存在であり、その罪深さゆえに善良にもなれるし真に自由にもなれるということなのかもしれない。そこには不安定な安定があり、無秩序な秩序がある。神と呼びならわされるものは、その混沌とした生のただ中に人間の生臭い罪のあれこれを見つけ出してくれるだけのものなのだ。そして、その罪を直感的に見て取り、指摘し、鞭打ちという罰を与えているのは、(実は神ではなく)野蛮人その人の手と腕にほかならない。
そのとき神はどこにいるのであろう。そこにいるのは、ひとりの野蛮人だけなのではなかろうか。野蛮人の中の野蛮な人間が、人間の善良さの源泉たる倫理や道徳というものの本質をしっかりと見つめ、野蛮な自らにとってのソーマの代替品としての役割を果たしているだけなのではなかろうか(高揚と忘却)。
ソーマとは、アルコール的な機能をもつものであるとともに宗教的な神の代わりをなすものである。しかし、そこにあるのは神の姿などでは決してなく、ただの何の変哲もない錠剤なのである。そこに神の存在は見えないが、それは人々の生活を過剰に幸福にし朗らかにする(有り難い)効果をもたらすという形で(まるで宗教のように人々を骨の髄まで)支配する。そこに、ソーマに対する、盲目的かつ無意識的な信仰が生まれる。文明国の人々は、上級のものも下級のものも、少しでもストレスを感じる場面に遭遇すると、すぐに口々に「ソーマ、ソーマ」と言い出し始める。そうした先天的に植え付けられていたものでもあるところの条件反射的なソーマへの信仰が、人と錠剤・薬との間の、目に見えず、それを特別な救済の形として感じ取るようなこともない、(完全なる)宗教的な関係性を構築し強化(教化)してゆくことになるのである。
高度に文明化された世界は、その全体主義的(ウルトラ共産主義的/ポスト民主主義的)な思想の下で神を徹底的に否定し、全く人間の生にとって必要のないものとして、初めからそれを廃棄してしまっている。だが、その全体主義的な(極端な)階層秩序の徹底こそが、人々の間に、目に見えないが生活を支配する様々な形態の神や、錠剤という形で何の威厳も厳粛さもなく当たり前にそこらに転がっているだけの全く神がかっているようには感じられない神の必要を生じさせ、そうしたものへの信仰を(日々の何気ない生活の中で)繰り返し作動させてゆくことになるのである。
野蛮人ジョンが欲する神とは、それは決して信仰の対象としての神(だけ)ではない。それは、自分の中にある道徳的な規範や倫理に照らし合わせて行動をさせ、そこで人間としての善良さを導くものとしての神(らしきもの)なのである。そこに神として存在するものを欲しているのでは全くなく、目に見えないし(実感をもって)感じられないものではあるが、自分の中のもうひとりの自分のような魂や息吹やダイモニオン的な性格をもつ霊性としての神(もしくはリトル本田的な精霊や妖精だろうか)である。そして、それは、素っ気なく日常の生活の中に溶け込んでくる錠剤のような形ももたず、決して偶像崇拝の対象にもならない神である。
自分の中にある自由と詩への渇望と真の危険を空っぽになって見つめるとき、そこにもすでにその神は紛れ込んでいる。そこでは、まるで神のような言葉にできぬものを感じ取ることもできるはずである。しかしながら、それははっきりと目に見えるものではない。ただ、よくわからない神的かつ霊的な力として、自由への想念や詩的感覚を、そこに導き出させるだけなのである。
ソーマなんていらない。苦痛や罪の意識を忘れ去ってしまうようなものはいらない。それもこれもすべてわたしが本来的にもつ(べき)ものであるにほかならないから。まやかしの安定や秩序よりも、人間としての不幸や真の危険を欲する。それが、どんなに野蛮なことで、自ずから不幸を招き入れる馬鹿げたことのように見えたとしても。きっと、そうしたものに塗れて生きることこそが、(本来的なものに近い)人間の生であるはずなのだから。苦しみや悩みから解放されずに、決して忘れることのできない深く刻まれた不幸や後悔を、どこまでも背負い続けるのが、救いなき野蛮人としてこの世界に生まれ死ぬまで生きてゆかなくてはならない人間に与えられた宿命・宿業なのである。

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