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「マルクス・ガブリエル NY思索ドキュメント」を見て

19年初冬、ニューヨーク。おしゃべりしたり散策しているうちに図らずもなのか思索が深まりあらためて日本という摩訶不思議な存在(前近代性をあちこちに残存させている日本型(偽)近代システム/翻訳大国)にぶち当たるガブリエル。ほんの少し前まで慢性的な交通渋滞を起こし地下鉄の駅にも溢れかえりタイムズスクエアを埋め尽くしていた群衆(畜群)は、今はもう影も形もない。時代は変わった(のか)。あたかも時限爆弾のように周到に仕掛けられていた新実存主義が、実践的に試される舞台は図らずも整いつつあるかのようにみえる。「大いなる逆転の時代」(茂木健一郎)とは、リーヴァイスを穿きマクドナルドを食べながらタワーレコードでCDを試聴して盛んに頭を振っていたのに憧れのアメリカ人にはなりきれなかった欠陥グローバリゼーション時代人としての日本人を、いったいどこに押し上げるのだろう。先の見通せないモヤモヤがつのる日々が続く。様々な剥き出しの力が押し合いへし合いして事態をさらに混沌とさせてゆく。カゼとともにさりぬ。クズよさらば。どれほど時代が大いに逆転したとしても、根っからのダメなものはダメなままだろう。ゼロ価値のものに何を掛け合わせたとしても一以上のものにはなりはしないから。これまでガラパゴス化や内向きの難点を生み出すだけであった日本人特有の殻の硬い民族性のようなものが、新しい時代にあっては何かプラスに働く可能性がないわけではなさそうなのはなかなかに興味深い。来るものは拒まない見境のない折衷主義のようなものが、これからの開かれていながらも閉じた社会においては大きな意味をもつようになってくる場面もあるということであろうか。ただし、岩波新書の「新実存主義」を読んでも何がどうなるのかいまいちはっきりとは見えてこない。原文は18年に書かれたものであり、新型コロナウィルスの発生は運命的なもので時代の必然であったのかもしれないが当時はまだ誰も予兆すら掴んではいなかったのだから、今の状況をこの論がヴィヴィッドに反映していないことを誰もどうすることはできない(チャールズ・テイラーによる一文に「咽喉の感染症」という言葉が出てきて、ちょっぴりどきりとさせられる)。半年前のニューヨークにおいてもまだ思索を深め弾みをつけて跳ぶ前の助走を長めにとっていられるような余裕はあった。だが、いきなり時代は大きく動き始めてしまったようだ。何の前触れもなく。もはや、あまりのんびり構えてもいられなさそうだ。しかしながら、ここ最近のガブリエルが語ったりしていることから推察するに、まずは精神が大きな鍵になるであろうことは確かなようである。ドイツ語でいうガイストである。精神的な哲学を細やかに展開してゆくことで、自ずと変化や変革への道筋は見えてくるということか。そんなざっくりとしたものとして新実存主義というものを眺めていると、こちらのやわなわかったつもりを跳ね返すかのようにガブリエルの思考は極めて細かい部分まで手が行き届いていて思った以上に射程の広範囲に及ぶものであることが逆に見えてきたりもする。新実存主義とは近代以降の思想哲学の集大成であるような趣すらある。かと思えば、アリストテレスまで遡って新しい実存主義を古代ギリシャから浮き彫りにしてゆくような回路もある。個人的には廣松渉の思想と近しい部分ばかりが最近は目についてしまう。精神とは間主観性のことでもありそのそれぞれが意味の場をなすということだろうか。しかしまあ、カント、ヘーゲル、ニーチェ 、フッサール、ハイデガー 、サルトル、メルロ=ポンティ、西田幾多郎といったあたりを通って、今ここで間主観性にもひらかれた精神でもってみんな繋がってしまっているのだから、それも全て運命であり必然だといっても過言ではないのであろう。しかし、ガブリエルと廣松が完全に一致しているという風には読めば読むほど思えてこない。ざっくりとしか新実在主義をまだ読めていないので、どこでどう裏返っているのかも掴みきれていないのだ(また、もともとかなり難解な廣松の文章は、読めば読むほどにその噛み砕けなさに襲われてしまうはめになる)(「世界の共同主観的存在構造」の付録の対談において、廣松はデカルト的コギトの最後の変形であると捉える実存を斥けるときっぱりと語っている。しかし、新実存主義の実存は精神を経巡ることでコギトの狭隘性や限定性を克服しているので実存主義の実存とは違うものなのであろうか)。やや近い気はするのだけれどただそんな気がするだけかもしれないといった程度のことなのである。ところで、ガブリエルは廣松渉のことを知っているのだろうか(木村敏の「あいだ」や福岡伸一の「動的平衡」もまたガブリエルのいう新実存主義やガイストを理解するための一助となるような気もする)。とにかく、これまでガブリエルがあれこれ言ってきたことや書いてきたことを、一笑に付していたものたちにとってもおしなべて顔を痙攣らせるような時代になってきてしまっているであろうことは間違いない。あらゆる価値の価値転換。地球の表面から人影が消えるとき、大いなる正午の鐘の音も蒸発する。ニューヨークの街を移動する車中においてガブリエルが自らの両親のことを話す場面がある。そこで父親が庭師のような仕事をしていたと語っていた。庭師というと思い出すのがジャン・バルジャンのことである。元々は枝下ろし職人として生活していて、後にパリの修道院の住み込みの庭師となる。ジャン・バルジャンとは、ヴィクトル・ユゴーによって十九世紀に書かれた物語『レ・ミゼラブル』の主人公である。善と悪の間で深く苦悩し正しい生の道を追い求めながらも善悪の大きなうねりの最中に投げ込まれ過酷な運命に翻弄されるジャン・バルジャン。『レ・ミゼラブル』が描くのは、理不尽にも心の底から善く生きようとするものがどんなに善行を積み重ねようが報われずに悪しき生(内と外の欲望)に苛まれ続けなければならない世界である。だが、そうした人間社会の構造というものは基本的には物語が書かれた約百五十年前とさほど大きく変わってはいない。いや、今の方が露骨に富めるものは富み、持たざるものの階層(デジタル・プロレタリアート革命?!)とは大きく生活そのものが隔たってきているようにも思われる。現在も多くのジャン・バルジャンが希望の光が見えぬ状況の中で爪に火を灯すような苦闘の日々を生きているに違いない。善悪に身を引き裂かれ煩悶する。何が正しくて何が誤りなのかが、すぐには見えてこない。それほどに世界は暗い。「バットダンス」のプロモーション・ヴィデオでプリンスが演じたキャラクター、ジェミニは、身体の右半分はバットマンであり、もう半分はジョーカーという存在である。ジェミニの暗い精神の内部ではバットマンとジョーカーが常に葛藤を繰り広げている。だが、どちらも勝利することはない。バットマンはジョーカーの存在なしにはバットマンではいられないし、ジョーカーもバットマンなしにはジョーカーではいられない。よって、ジェミニの中には常に暗い善と暗い悪が渦巻くことになる。そして、それは現代のジャン・バルジャンにとっても同じことであろう。庭師のジャン・バルジャンが正体を隠して善性を追い求める逃亡生活を送るようにバットマンはマスクの下に正体を隠して暗闇で正義を追求し続ける。そして、資本主義という史上最も華やかなショーの舞台でピエロ・メイクの道化として立ち回ることで闇から悪を抉り出す、そんな笑えないジョークが十八番のジョーカー。新実存主義とは、そうしたバットマンとジョーカーをそれぞれの意味の場に(あえて)解き放とうとする試みだといえるだろうか。ジェミニの両半身の混合体・結合体がガイストなのか。ガイスト=精神なき生は生きるに値しない。コロナ以降の時代の自由とは、新実存主義哲学的に見て・考えて・生きることそのもののことをいうようになるのではないか。もう自由を生易しいものにはしない。優しい想像力と厳正で厳粛な善。エラン・ヴィタル。

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