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いとくず(三)

20240315

余談ですが。先日、モーニング娘。24の北川莉央さんのインスタグラムに「実は先週、1人パリ旅行へ行ってきました」という投稿があり、軽く強い衝撃を受けた。黄昏はじめたパリの空をバックにしたエッフェル塔をバックにした北川さんの写真が、実に普通に普通の旅行写真でとてもいい。一人旅行なので通りすがりの現地の人に写真を撮るのを頼んだのだという。なんかもう、やることなすことすべてがかっこいい。北川さんといえば、今年の一月に成人式をしたばかりではなかったか。それなのにというか、それだからというか、とても大人だなあと感じずにはいられなかった。

また、ブログでは絶対に行きたかった場所のひとつだったというサンジェルマンのカフェドゥフロールに行ったことが紹介されていた。運よくテラス席に座れて、ホットチョコレートを注文したようだ。パリのカフェのテラス席に佇む北川さん、さぞ絵になったことであろう。だが、単身での旅行のためその写真はない。それにしても、ものすごい行動力である。もうすぐ二十歳という年ごろで、ここまで人間としてしっかりしているなんて。わたしなどこの歳になってもまだなにものでもなくなにひとつことをなせていないというのに。

考えれば考えるほど本当に恥ずかしくなってくるのだが、実際のところ北川さんぐらいの年齢の子どもがいたとしてもおかしくはない年齢なのである。そんな現実を目の当たりにすると、もはやかっこいいとかいっていられるような場合ではなく、かなり落ち込む。海外に一人で旅行に行ったことなんてないし、国内ですらしたことはない。こんな為体では比較の対象にすらならない。それに、まずもって、もしかしたら北川さんぐらいの年齢の子どもがいたかもなんてということ自体が実に烏滸がましい。結婚のけの字もなかった人生のくせに。

あのくらいの年齢のころに、自分がなにをしていたかを思い出すのも今となってはちょっとむずかしい。毎日ぼんやりしていて、なにもしていなかったから、なにも思い出せないだけなのかもしれないが。当時、ストーン・ローゼスのメンバーがインタヴューで言っていたことが印象に残っている。八〇年代後半にアシッド・ハウスと出会い、やっと二足歩行を始めて、ようやくダンスすることを覚えたばかり、というようなことを言っていた。これはうまいことを言うなと思った。わたしも当時まったく彼らと同じような感覚でいたからである。

八〇年代の後半、ロンドンを中心にアシッド・ハウスのムーヴメントが爆発的に巻き起こった。ひたすらに反復する打ち込みの四つ打ちビート、ばんばかばんばか飛び交うサンプリングのフレーズ、びきびきびきびきいってるベースライン。当時、十代の後半だった子どもたちは、その奇抜でシンプルで妙ちきりんなダンス・サウンドに夢中になった。その証拠に、それまではポスト・パンクやニューウェイヴ系のバンドやアーティストでいつもひしめいていたUKインディーズ・チャートが、ずらりとアシッド・ハウスだらけになっていた。

音楽史的にいうと、この革命的なムーヴメントをセカンド・サマー・オブ・ラヴともいうのだが、わたしたちにとってはそれは本当に初めて経験する巨大な音楽の波であった。パンクにもポスト・パンクにもその最初期の段階に間に合わなかった世代にとって、アシッド・ハウスはまさに自分たちの世代にとってのパンクであるかのような革命的ななにかであった。おそらくストーン・ローゼスのメンバーもマンチェスターの街で、その大きな新しい時代のうねりを経験したのだろう。マンチェスターのナイトクラブ、ハシエンダではロンドンのクラブよりも早くから最新のハウス・ミュージックがプレイされていた。

つまり、わたしたちは、あのころにアシッド・ハウスを聴いたことで目覚め、ようやく地に足をつけて二足歩行をしだし、初めて人間というものになれたのである。それまでは、まだ人間にはなれていないそれ以前の生き物であって、進化論的にいえば、要するにまだ猿だった。アシッド・ハウスのサウンドを聴いて立ち上がり、よたよたと体を揺らしてダンスするようになった。それまでの人間らしいことがなにもできなかった時代よりも、子どもたちは格段に進歩した。だがしかし、ふにゃふにゃとダンスするようになったとはいっても、まだ人間としては立ち上がったばかりのよちよち歩きの状態であった。

あのころから、どれくらいの年月が経ったのだろうか。しかしながら、わたしはまだ、あのころからなにも変わっていないようにも思える。まだ二足歩行をしはじめたばかりのよちよち歩きのままなのだ。だから、そんなわたしたちと同じ年ごろである今の北川さんが世界をひとりでしっかりと歩いている様子を見ると、その差の大きさにすっかり驚かされてしまうのである。今どきの二十歳とは、なんと大人な人間なのであろうかと。きっと、この三〇年で世界が大きく変わったのと同じように、人類もこの世界にしっかりと適応してかなり進化したということなのであろう。

20240323

余談ですが。いや、余談でもないか。いや、余談か。生きることというのは、とてもとても難しい。生きるためのことを精一杯にしていなくては、生きていることを続けることはできない。生きることとあまり関係のないことをしていると、ちっとも生きてゆくことはかなわない。生きるためのことを精一杯にしていると、ほとんど生きることとあまり関係のないことをしている暇はなくなってしまう。わたしは、そういう生きることとあまり関係のないことをして生きていたいのだけど。でも、生きることがそれを許してくれなさそうなので、ちっともそうやって生きてゆくことがかなわなくなってしまうのである。

20240324

余談ですが。いや、余談でもないか。でも、だいたい余談です。もうなんだかすごく限界に極めて近いように思うのです。本当に本当の限界にぶち当たってしまっている感じがありありとしている。この限界の先には、何かあるのでしょうか。いや、そもそももうその先には何もないと思っているからこそ、ここがもう限界で、その限界に鼻先をぶち当てているように感じでいるのではないか。ここが限界で、そこでもう終わりということ、だ。まだ何もはじまっていないというのに、もう終わりとは。とてもかなしいことだけれど、もう限界なのだ。どうすれば、この限界をのりこえられるのだろうか。どんなに考えても、さっぱりわからない。そんなことを考えたってさっぱりわからないから、本当に本当の限界なのだろう。ここでもう本当に終わりなのだ。

20240325

余談ですが。生きるか死ぬか、あっちかこっちかみたいないいかたをよくするけれど、そんな簡単に区切りのつけられるようなことではないとも思うのね。生きながらにして死んでいたり、死んだように生きていることだってある。死んでいるのにまだ生きていたりするようなこともあるし、時には死後に評価をされて生きていた時よりもよく生きるということもあるだろう。自分でどうにでもできる生きる死ぬもあれば、自分ではどうすることもできない生きる死ぬもある。そう簡単にすんなりと生きたり死んだりできなさそうだから、とても難しい。とりあえず、わたしはまだもう少しだけ自分なりに生きてみようなかという気持ちで今はいる。それを生きてるか死んでるかの判断をするのはたぶんきっと自分以外の誰かなのであろう。

20240327

余談ですが。いつの間にか周りの景色ががらりと変わってしまっていて、驚かされている。ひとりだけ呆然と立ち尽くしていて、周りのあらゆるものから置いてゆかれてしまったのだろうか。いや、そんなことはない。呆然と立ち尽くしていようがいまいが、時間はあらゆるものを平等に公平に未来へと連れ去ってゆくものではないか。わたしままだ今ここにいる。存在をしている。それはひとりだけ置いてゆかれずに、ちゃんとみんなと未来へと連れ去られたということなのではないか。なのに、周りの景色ががらりと変わってしまっていて驚き、そして呆然と立ち尽くしている。

20240331

余談ですが。小澤征爾のドキュメンタリー番組「日本人と西洋音楽」で度々背景に映り込んでくるベルリンの街の風景や空撮がとてもとても興味深くてどうしてもそっちばかり見てしまってちょっと困った。この番組が最初に放送されたのは一九九三年、小澤征爾への密着取材やインタヴューはそれ以前の九二年から三年の冬季に行われていたはずである。つまり、背景に映り込むベルリンの街の光景もまたその当時のものであるということである。

一九九〇年に東西ドイツは統一されて、第二次世界大戦以降東西に分割されていたベルリンもまたひとつの街に戻った。小澤征爾が指揮者として滞在している少し薄暗く寒々とした冬のベルリンの街は、この東西統一からまだほんの二年ぐらいしか経っていないベルリンなのである。街の雰囲気は、ブランデンブルク門の周辺だからかなんとなくがらんとしていて、空撮で見ると歴史の重みに疲弊しているようで、街路には工事現場が目につく印象。だが、街の中心部は賑やかに栄え、マエストロも言う通り人通りがとても多く、東西統一事業の真っ只中の光と影が入り交じる混沌とした空気に街がすっぽりと包まれているように感じられる。

この九十年代初頭の頃には、まだベルリンのテクノ・ミュージックはアンダーグラウンドな海賊的なナイトクラブやウェアハウス・パーティなどのレイヴのカルチャーとしてあるものであり、ラヴ・パレードもまだベルリンのローカルな音楽の祝祭的デモンストレーションといったものでしかなかった。それから三十年が経って、ベルリンのテクノ・カルチャーはユネスコの無形文化遺産に登録され、小澤征爾は八十八歳で身罷った。そんな今あらためて見る「日本人と西洋音楽」には、とても興味深いものを見ることができるような気がするのである。

一九九三年、ベルリンの街を歩く人々はそこでカメラを向けられて喋っている小柄な日本人がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者であるとは誰も気がついていないように見える。そして、たぶん、当時ほとんどのベルリンの人々はテクノ・ミュージックのカルチャーがベルリンの街のアンダーグラウンドに根づきつつあることをまだちっとも気づいてはいなかったのであろう。

20240406

これまでの世界をなしていたさまざまなものが至るところで完全に行き詰まりつつあるのをよく見聞きする。時代が大きく変わろうとしていることが日に日に強く感じられるようになってきている。だが、それとともにそれを引き止めて今のままの形を維持しようとする力も日に日に強力にふるわれるようになってきているように感じる。変化はいやがおうにもやってくるものである。だが、人間はそれに抵抗しうるだけの知恵と力をもっている。そういう知恵と力をもっていると思っている人々は、その変化を引き止めておくことも可能だと思い込んでいる。そして、その仕事にさらなる知恵と力を注ぎ込む。時代は大きく変わろうとしているだから、それを引き止めておくにはより強力な知恵や強力な力が必要になる。そして、その強力な知恵と力は、いつしかとても強権的なものになってゆく。

そのような現状において、もはや今の(形の)政治というものに何から何までを全て任せ切ってしまっていてはかなりまずいのではなかろうか。ただし、今だって何か政治にしか任せられないようなものというのは実際に数多くある。だがしかし、それだけがすべてということは決してない。政治の仕事というのは第一にそのような政治にしかできないことをすることなのだろうし、まずはそこのところを徹底してなすようにしてもらいたいものである。今の政治は巨大な予算を組んで安定的な経営をおこなう、まるでひとつの大きな企業のようなものであるかのように国家や都道府県の行政というものを捉えすぎている。だからこそ、その安定したものにすることを目指す経営には、必ずといっていいほどどこかに不安定な要素がつきまとうし、何かがあれば必ずどこかに皺寄せがゆくことになる。第一、経営というものは安定してしまったら終わりだから、常に不安定に揺れ動くものなのである。

ゆえに、その決してたどり着くことのない安定を目指して、政治は何から何まで極論すれば食べたものから出したものまで牛耳って詳細なデータを取ろうとする。今や数量的なデータほど経営の判断や決定に重要な意味を持つものはない。どうぞどうそ任せてください、あなたの代わりわれわれがしっかり監視して管理しますからと言わんばかりに国家や都道府県や地方自治体はあらゆるデータを差し出させてむしり取ってゆく。だがやはり、その人そのものではなく数字ばかりを見ている経営には、ちっとも人として信用できなくなるようなことが、往々にしておこる。それでも、ちっとも信用されなくたって、そこそこうまく安定して回っているように見えていれば、それでいいのだと言わんばかりに何を思ってかさらに輪を掛けて好き放題な経営をやりはじめる。

それならば、こちらだって何か対策を考えなくてはならない。任せていたって何もいいことがないのであれば、任せないようにするしかない。それこそがまさにもはや新しい自主・自律の民主主義の時代がもうすぐ目の前まで迫ってきているということの表れのような時代の動きそのものなのではなかろうか。議会でじっくりしっかり議論してもいい(議会でじっくりしっかり議論するべき事柄であれば)が、そこだけが唯一の政治の判断の場であり、政治的な決定をすることのできる唯一の場であるような時代は、もうすぐ終わりを迎えるのだろう。政治的決定というものも、本当の意味での(再)民主化をされる必要があるのではなかろうか。そして、大きな時代の変化はそうした世界を真っ当で正当なものにしてゆく動きを力強く後押ししてゆくことになるのであろう。(余談)

20240410

余談ですが。ほんのひと握りの貴族的な生活をしている人々がいて、そのまわりにはとても多くのただひたすらに生きてゆくのがやっとというような、貴族的な生活とはほど遠い生活をしている人々がいる。そして、そういった下層の人々の(奴隷的)労働が、ほんのひと握りの貴族的な生活をしている人々の華やかな生活を支えている。そういう非常に不均衡に二極化した社会の様相が、今から千年ほど前の平安の都を舞台とする大河ドラマ「光る君へ」において、実にシビアに描き出されている。きらびやかな宮廷生活のその向こう側にあるものを描くことで、あの時代がさらに立体感や奥行きをもって見えてくる。平安の都とは、ただの絵巻物の中だけの世界ではなかったということが。

平安時代から千年もの年月を経た二十一世紀の現在、あちらこちらで新しい封建制という言葉が目についたり耳に入ってくるようになってきている。もうすでに遠い昔に役目を終えたはずの封建制が、またよみがえって現在の社会にやってきているというのだ。封建制とは領主と家来の身分がはっきりと分かれた厳しい階級社会である。ただし、「光る君へ」を見ていると、あの平安の都の不条理な社会とは、どこか現代の社会にも通じるものをはっきりと含んでいるようにも見えるのだ。だから、ちょっと気分的には、新しい封建制というよりも、もしかすると実際には新しい貴族制がやってきているのではないかと思えてしまう面もあったりする。

ほんのひと握りの人々の生活だけが潤っていて、そのまわりにはとても多くのただただひたすらに生きてゆくのがやっとというような人々のちっとも潤いのない生活がある。今、こうした人間の生活の二極化は、ものすごい勢いで加速し、それぞれの極は遠く隔たりはじめている。一方の極からもう一方の極の生活は、その遠さからあまりはっきりと見通せなくなってきてもいる。新しい封建制や貴族制はもうすでに確実にやってきつつあるのではないか。知らず知らずのうちに上と下に分け隔てられた階級は固定されたままになっていて、特に下層から上層への移行というのはもはや極めて困難なことにもなりつつある。

最近のSNSにあがってくる投稿を見ていても、そういう部分はなんとなくだが感じ取れる。日々のことをあれこれ投稿して載せられる生活をしている人とそうでない人の生活というのは、もはやかなり遠く隔たっているのではなかろうか。平安の都の人々の暮らしに喩えていえば、貴族は文字の読み書きができるので、日常の様々なことをしたためて投稿したり、それを閲覧することができる。これに対して、都の人口の大部分を占める下層民たちは、読むことも書くこともできず、そうした投稿や閲覧とは無縁の奴隷的労働に明け暮れる日々を生きてゆかざるをえなくなっている。

そんな風に思って見ていると、近ごろのSNSは、かなり見ていて辛いものがあることもたしかである。そして、そういった声は今はまだSNS上で散見される。これは、新しい封建制や貴族制が確実にやってきつつ段階にあることと、やはり何かしらの関連があるのかもしれない。アルゴリズムに従っておすすめばかりを閲覧させる形式が本流となったSNSがもたらすものとは、SNS上の貴族とそうでないものを篩にかけて分離させるということなのではないか。辛くてSNSを見ていられなくなった下層の民は、「光る君へ」で描かれていたように読み書きをせず生きるために痩せた土地の畑を耕し続けなくてはならなくなるのだろうか。

なんだかとても辛いけれど、もうこの時代の流れというのはどうすることもできないのだろうか。こんなことをSNSで書いたとしても、もはやなんの意味もないのだろうか。たぶん、ちっとも意味なんてものはないのだろうし、そもそも誰もこれを読むこともないのだろう。だから、ここにもうすでに社会の下層へとこぼれ落ちてしまっているものによる余談としてひっそり書いて投稿しておくことにする。

20240412

余談ですが。インターネット上で「AIが音楽を変える日」という榎本幹朗さんによる「新潮」に連載されているコラムを読んでいて、ちょっとばかし気になったというかいろいろ考えさせられたことがありました。読んだのは、連載第七回の「AIがアルバムになる日」というコラムで、ここでは生成AIを導入したブライアン・イーノのドキュメンタリー映画「Eno」が紹介されている。この映画についても非常に気になるところはあるのだけれど、より気になってしまったのが榎本さんの著書「音楽が未来を連れてくる」からの引用文であった。

「おそらく“強いAI”とBUI(ブレイン・ユーザー・インターフェース)で育った未来の世代は『録音した、何度聴いてもどこも変わらない曲』に退屈してしまうだろう。彼らにとって、聴く度に演奏と歌声を微妙に変え、様々な表情を見せる楽曲こそ、シングルやアルバムとして聴くべき作品になっているのかもしれない」

https://www.musicman.co.jp/column/601688

これは、このコラムのタイトルにもなっている「AIがアルバムになる日」に関連する文章として紹介されているものであり、そもそもこの著書は三十年後の未来の音楽を想定して書いたものであったらしい。だがしかし、今回のAIを導入したドキュメンタリー映像のリミックス・ヴァージョンをさらにミックスしたようなイーノのドキュメンタリー映画を観たり、音楽生成AIがリミックスした千の別ヴァージョンをもつ新作をリリースしたディスクロージャーの作品を聴く限り、当初想定していた三十年後の未来の世界に、もはやわれわれはほぼ到達しつつあるのではないかということがコラムでは語られていた。

ゲームが、映画が、音楽が、生成型AIのテクノロジーと結びつくことによって、微妙にさまざまな異なる表情を見せるようになってゆく(たえまなく生成をつづけるイメージ)。ひとつの作品がさまざまなヴァリエーションをもつものになり、これまでは(ひとつの作品はひとつの完成形を有するという前提のもとにある)有限なものであった表現の形式が、無限の広がりをもつものに変化するようになってゆく。ひとつの作品にひとつの完成形というものはなくなり、尽きることなくヴァリエーションが生み出され、作品に終わりというものはこなくなる、のである。

これは、時代の変化の中での(人間の生身の手そのものによって作られたものという意味での)人工の限界に対するAI技術の勝利であり、本当の意味での作家の死ということを意味するものになるのであろうか。この新しい時代の表現の形式というのは、本当の意味での表現と呼びうるものなのであろうか。どこまでが、表現であり、どこからが表現でなくなるのか。もはや、(ボードリヤールがいっていたように)すべてがすべてシュミラークルでしかないということなのか。さっぱり、なにがなんだかわからなくなってくる。

だがしかし、そこの部分の根っこのようなところに、なんだかちょっと気になったところがあった。それは「録音した、何度聴いてもどこも変わらない曲」が「聴く度に演奏と歌声を微妙に変え、様々な表情を見せる楽曲」に変化するという、最も未来的な音楽の(再生と聴取の)様式が(わかりやすいたとえで)著述されているところである。この部分に書かれていることが、今現在のアートとテクノロジーの最先端で起きていることなのだとしたら、そこにはちょっとした既視感のようなものがあるような気がしてきてしまったのである。つまり、三十年後の未来の世代ではなく、むしろ三十年前のわたしたちの世代の話なのではないかと思えてしまったのだ。

今から三十年以上前のこと、当時の(一部の)音楽好きな若者たちは八〇年代に世界的に広まったDJカルチャーに触れ、音楽を聴く装置というよりも楽しむガジェットとして、二台のターンテーブルとミキサーを手に入れていた。ターンテーブルは、テクニクス社製。なぜテクニクスかというと、テクニクスのターンテーブルには他社の追随を許さなぬ質の良いピッチ・アジャスターが搭載させていたためである。当時、ターンテーブルの回転のピッチを変えられるプレイヤーはいくつか存在した。だが、テクニクスのターンテーブルのアジャスターの能力は、やはり群を抜いていたのである。友人の所有していたテクニクスに初めて触れたとき、瞬間的にすべてが理解できたような気がした。これだ。これだったのだ、と。

ピッチ・アジャスターは、二枚のレコードをミックスしてプレイする際に、非常に重要な意味をもつ、ターンテーブルに搭載されていなくてはならぬ機能である。この機能を使ってターンテーブルが回転するピッチを早めたり遅めたりすることで、プレイしているレコードの曲のテンポそのものをレコードに録音されている元々のテンポよりも早くしたり遅くしたりしてプレイすることが可能になる。よって、このピッチ・アジャスターを駆使することで、二台のターンテーブルでプレイされている二枚の別々のレコードも、ほぼ同じテンポの曲としてプレイすることが可能になるのだ。そして、この二台のターンテーブルでプレイされている曲の音量をミキサーを使って調整することで、二枚の別のレコードをぴったり同じテンポで混ぜ合わせてプレイしたり、一台のターンテーブルでプレイされている甲という曲からもう一台のターンテーブルでプレイされている乙という曲へとぴったり同じテンポで途切れることなく繋いでプレイすることも可能になる。

この二台のターンテーブルを使用してミックスや繋ぎをする際に、テクニクスのターンテーブルに搭載された良質なピッチ・アジャスターは非常に大きな威力を発揮した。というか、ミックスや繋ぎをしようとしても、テクニクスのターンテーブル以外のターンテーブルではそう簡単にうまくはできなかった。しかし、テクニクスのターンテーブルは、それを誰にでもすんなりとできる技能にすることに貢献をしたのである。それくらいにテクニクスのターンテーブルのピッチ・アジャスターは、重要なファクターであったし、もはやそれそのもので往時のDJカルチャーというものを確立してしまったのではないかと思えるほどに、だんとつの性能であった。そもそもテクニクスのターンテーブルは回転が異常なまでに安定していたし、ターンテーブルのピッチを変えられる可変域もとても広く、細かいピッチ・アジャスターの操作にも微細に素早く反応する、ちょっとわけのわからない高性能を誇っていた。その性能こそが、常に動き変化している音楽をミックスしたり繋ぐという行いをする際には重要な鍵になったし、もはや不可欠のものですらあった。

そんなテクニクスのターンテーブルを二台とその真ん中にミキサーを置いて、三十年前のわたしたちはレコードのミックスや繋ぎに熱中した。いわゆる、日本におけるオタクDJカルチャーのさきがけのようなものである。秋葉原の電器街に行ってもDJ用の機材を扱っている店などは、ほんの数軒しか見つけられなかった時代である。一九八四年にアメリカで公開された映画「ビート・ストリート」が、わたしたちオタクDJに大きな影響を与えた(もしかしたら、わたしたちではなく、わたしだけかもしれないが)。この八〇年代前半のサウス・ブロンクスを舞台にした、ヒップホップの勃興の中心地において、そのカルチャーにどっぷりつかって生きる若者たちの姿をいきいきと描き出した劇映画に、自宅で自分の好きなレコードを自由にプレイしてミックスするホームDJが、ヒップホップ・カルチャーを形成する非常に重要な存在として登場していた。

クラブやブロック・パーティではなく自宅でレコードをミックスしたり繋いだりしてプレイしているホームDJが、ヒップホップ・カルチャーにおいてどのような重要な役割を果たしていたかというと、ブレイクダンサーたちがサウス・ブロンクスの街角でブレイクダンスをする際にすぐそばに置いていた巨大なラジカセ、マスターブラスターから流すブレイクダンス向けの音楽をミックスして繋いだスペシャルなミックステープを自宅でせっせと作ることで、往時のユース・カルチャーに多大なる貢献をしていたというわけである。そして、このサウス・ブロンクスのホームDJが行っていたミックステープ制作の楽しさに、わたしたちオタクDJもどっぷりとのめり込んでいった。しかし、基本的にオタクなので、街角で踊るブレイクダンサーたちのためにミックステープを制作したのではなく、専ら自分で聴いて楽しむためだけに録音していた。最新のダンス・ミュージックの新譜からもう誰も見向きもしないような激安の中古レコードまで、ありとあらゆる種類のレコードを買い込んできては、テクニクスのターンテーブルにのせてミックスして繋ぎまくった。

ありとあらゆるジャンルのレコードをプレイすることでリベラルかつシリアスなDJカルチャーの基礎を作り上げた、ロフトのデイヴィッド・マンキューゾやパラダイス・ガラージのラリー・レヴァンといった伝説的なクラブDJのプレイ・スタイルからも、わたしたちは多大なる影響を受けていた。さまざまな音楽のさまざまな曲を、如何にひとつのミックスの流れの中に混ぜあわせてゆくか、そこの部分にオタクDJはすべてを賭けていた。そして、録音したミックスを後で聴き返してみると、いつだってそこにはさっきまで自分でしていたこととは思えないような新鮮さや驚きがあったのだ。ミックスとは、その瞬間に一度だけ起きるマジックのようなものだった。

三十年以上前、複数台のターンテーブルをつかってDJたちが複数のレコードをミックスしてプレイしていたとき、そこでプレイされていた楽曲は、もうすでに「録音した、何度聴いてもどこも変わらない曲」ではなくなっていて「聴く度に演奏と歌声を微妙に変え、様々な表情を見せる楽曲」に変化していたのではなかろうか。すでにピッチを調整してプレイされているレコードに録音された楽曲とミックスしたり繋いだりするために、次にプレイするレコードに録音されている楽曲もまたピッチ・アジャスターを操作して微妙に変えてプレイする。そうすることで、DJたちは常にオリジナルの録音された楽曲を変化させてプレイしていたともいえる。つまり、DJたちがターンテーブルにのせてピッチを調節してプレイいるレコードの楽曲は、それはもう元々の録音されたままの何度聴いてもどこも変わらない曲ではなくなっていたということなのである。

それに、わたしのようなオタクDJは、常に新しいミックスを試したくてうずうずしていたので、レコード店を何軒もまわり買い漁ってきたレコードを、家に戻るとすぐにターンテーブルにのせていた。そして、ピッチ・アジャスターに指をかけ、次から次へとプレイされている楽曲にピッチを合わせてミックスし繋いでプレイして、その日に買ってきたレコードの内容をチェックしながら吟味しつつ聴いていた。そのように、買って帰ってきてすぐにいきなりピッチを変えてプレイしていたので、あの当時に買ったほとんどのレコードは、そもそものアーティストがプロデュースした楽曲の形そのものである、そのままの正しいピッチで聴かれたことは、もしかすると一度もなかったのではないか。ピッチ・アジャスターによってすべての楽曲のオリジナルのヴァージョンは抹消の下に置かれたのだ。オタクDJにとっての音楽とは、すべてがすべてオリジナルなきシュミラークルとして存在していて、そのように聴かれるべきものでしかないものであったといってもいいのだろう。

わたしたちは、まだ強いAIなどは影も形もなく、自前のB UI(ブレイン・ユーザー・インターフェース)だけでやっていた世代であったわけだが、三十年後の未来の世代が日常的に行うようになる「聴く度に演奏と歌声を微妙に変え、様々な表情を見せる楽曲」を聴くというようなことを、もうすでにテクニクスのターンテーブルを駆使して行っていた、のかもしれない。あれが何らかの原型のようなものとなって、三十年という長い年月を経てその方法が広く浸透し、現在のような「聴く度に演奏と歌声を微妙に変え、様々な表情を見せる楽曲」を聴いて楽しむという新たなカルチャーの確立へとつながっていったのだろうか。もしくは、ごく一部のオタクな若者たちが、ごく限られたオーディオ機材を使って密かに実験していた音楽の聴き方や楽しみ方が、ディジタル・テクノロジーの急速な進化と発展によって、誰にでも簡単に楽しめるようになったというだけのことなのだろうか。それとも、三十年前と現在の間にはインターネット革命やAI革命などの多くの断裂があり、もはやあの頃のあれと今のそれにはなんのつながりもないということなのだろうか。

だが、あの頃のわたしたちオタクDJという種族が、ひっそりと地球上の片隅に最初に現れた小さな哺乳類の先祖のようなものだったのだと目されるようになるような近い未来を想像することもできなくもないのではなかろうか。あのピッチ・アジャスターにぴったりと張りついて動いていた指先は、無意識のうちに過去と現在と未来のピッチを合わせてスムーズにミックスして繋ごうとして、いつもいつもプラスへマイナスへとふらふらとスライドしながら動き続けていたのかもしれない。

20240417

余談ですが。四月になってからほとんど何も書けなくなってしまった。あらゆる面で余裕というものがなさすぎて、何かを自分の中から出してきて書き表すという作業そのものが、とても難しい。やはり文章というものは、ある程度の心と頭を自由にはたらかせて動かすことのできる余裕というか内面に余地をあらかじめ確保できているような状態でないと、なかなか思い切り書くことはできないようである。どっぷりと沈み込んでしまい、まったくはたらかなくなってしまっている心と頭を使って書こうとしても、どうしても窮屈で狭いところに閉じ込められたまま無理に心と頭を動かそうとしているような感じで、とても書くことが難しい。文字をひとつひとつ書いてゆくことが、すごく重苦しくて、余計に気分が沈んでしまう。だから、今はこれぐらいのことを書くのが精一杯である。

わたしはとても臆病すぎて、実際にわたしが今どのような状態にあるために書く余裕がなくなってしまっているのかを、詳しく書くことができない。そのことにもまた、悲しくさせられる。とてもだめな自分や情けない自分をありのままにさらけ出してしまうことが、まだとても恥ずかしいのだ。だが、かろうじて少しだけ短歌を詠むことだけはできている。ただし、とても低調で重苦しいうたばかりである。そのようなうたしか詠めなくなってしまっているのが、今のわたしである。そのことだけがわかる低調なうただ。どんよりと沈みきって硬直してしまっている心の底から出てきているうたのようだと自分では少しだけ思っているが、たぶんまだそれは本当の本心から出てきているものではなく、わたしという人間のうわべだけをうたにしているようなうたでしかないのかもしれない。

いつまで経ってもわたしには本心からの自分のうたというものが詠めない。それが、とても悲しい。わたしには、何ひとつとしてちゃんとできるものがないような気がして落ち込んでしまう。そんなときでも、短歌さえちゃんと詠めたならば、それに思い切り取り縋って心の拠り所や支えにできたのかもしれぬが、わたしにはそれがちゃんとできないようなので、それを心の支えや拠り所にすることもできない。深く沈んでしまって、何ひとつとして取り縋って掴まれるものがない。頭の中や心の中にある悩みを打ち開けて相談ができる人もいない。そして、結局ちっとも埒があかない。沈み込んだまま、一歩も動けなくなってしまう。この先にはもう真っ暗闇の破滅しかわたしには道が残されていないことは、自分でもよくわかっている。こんなにもだめな人間なのだから、それも致し方ないところなのであろう。本当に、もはやこれまで、なのだろうか。自分で自分に対してとても悔しい。

20240418

余談ですが。もはやどうにもならなそうな状況の中で、今日もまたもがくように書いている。朝方に目が覚めて、いろいろと考えてしまい、やはりなんにも答えらしきものは出てこなくて、とても怖くなってしまった。だが、どうすることもできず、ひとり椅子に座り、俯いたままの姿勢でじっと堪え続けた。体が震えてしまうほどの恐怖ではなかったけれど、今にも心と体がばらばらになってしまいそうで、じっとして小さくなって耐えるしかなかった。ただひたすらに言葉で自分の内面をなだめすかしながら。もう本当にだめになってしまいそうな時であったとしても、言葉というものは意外なほどに効くものである。そのことを、あらためて思い知らされた。何の根拠もない言葉だったけれども、効くときは効くものなのだ。

そんなことがあったせいもあり、もしかしたら、わたしの本当にどうしようもないうたでも、効くときは効くのではないかと思えてきてしまったりもした。こういうところ、誠に単純な思考回路ではある。思い切りもがいている最中なので、わたしの中でもそういう願望がきわめて強くなっているということなのだろう。今はもう毎日の短歌ぐらいにしか望みがもてそうにない状況であり、なんとかそこの一点に望みをかけたいという一心の表れでそうなっているのかもしれない。だからこそ、何とかして日々もがきながらではあるけれど、ただひたすらに最後まで望みを捨てずに、もしかしたら自分のためにもなるかもしれない自分のうたを詠んでいきたいと思う。のだけれども、それがいつまで続けられるかは自分にもわからない。

20240421

余談ですが。意味のないことを書くことにも、やっぱりちゃんと意味はある。ここでいう意味のないことのなかには、意味のないようなことも当然のことながら含まれている。そういうことを書くことにだって、それぞれにちゃんとした意味があるのである。それが、本当に意味のないことが書いてあるものであったとしてもだ。今ここで意味のないことだったり、意味のなさそうなことであったとしても、それがいつまでも意味のないことのままであるとは限らない。意味のないことが、いつしか意味をもちはじめることもあるだろうし、意味のなさそうなことがその意味のなさゆえに意味があると思われるようになることだって、もしかするとあるのかもしれない。

ただの何ということもない文字の羅列であったとしても、一旦そこで書かれてしまったものは、いくらでも意味のあるものになる(可能性をもつのである)。太古の人類が書きつけた文字を見て、たとえそれが今はまだ解読不可能な文字列であったとしても、それがまったく意味のないことが書かれているものだと思う人はほとんどいないだろう。もしも、そこにどんなに意味のないようなことが書かれていたとしても、本当に意味のない文字の羅列というものは決して存在しないものなのである。今はまだ誰も意味を見出せないようなものであっても、いつか誰かが何かしらの意味をそこに見出すようになるかもしれない。もしかすると、それはそれを書いた人の意図しないような意味であるかもしれない。だとしても、いつか誰かが何かしらの意味を見出してしまうようなことはあるのである。大昔に誰かが何気なく書き込んだ木簡の文字が、一千年以上の年月を経て発見され貴重な歴史的資料となったりもする。

書かれたこと、書かれていることの意味などというものは、どのようにでも変化するものであるのだし、今ここで読み取られている意味だけが、そこに書かれていることがもっているすべての意味であるということは決してない。だから、人間というのはそもそもちっとも意味のないことを書くことができないものなのである。意味のないことを書こうとしても、やっぱりそこにはちゃんと意味がある。意味のないようなことを書いても、そこにはちゃんと意味がある。意味のなさそうなことを書いても、やっぱりそこには意味がある。いくらでも意味は後から追いかけてくる。ついてくるなといってもついてくる。だからといって、書くことを決しておそれてはいけない。大丈夫、そこにはちゃんと意味ついてくるのだ。意味のないようなことを、たくさん書いて、なんなら今まだここにないような新しいたくさんの意味をつくりだしてしまえばいいだけのことなのである。

20240427

余談ですが。このわたしという存在にちっとも意味というものが見出せなくなってしまっている日々が続いている。そもそもの話が、それぞれの存在にそれぞれの特別な意味などというものがあるのだろうか。まず、そこからして問題であるような気もする。どちらかというと、存在には最初からそれぞれに固有の意味などはないのではなかろうか。それとも最初はあったはずのそれぞれの意味が、どこかで失われてしまうということなのだろうか。最初から意味なんてなかったのなら仕方がないが、何かしらの意味があると思えていたのにそこにちっとも意味が見出せなくなってしまうとういうのは、それはそれでちょっぴり困った事態ではあるし、なんだかちょっとさびしい。

そんなこんなで、わたしは今わたしという存在にちっとも意味というものが見出せなくなってしまっているのである。そもそも存在なんてものに意味がないのなら、もしくはどこかにあったかもしれない意味がもはやすっかり失われてしまっているのであれば、ここに存在する意味なんていうものももうないのではなかろうか。わたしひとりいなくなったところで、世界はちっとも変わらずに存在し続けることだろう、たぶん。今このときにわたしが存在している世界から、次の瞬間にはわたしはそこに存在しなくなり、世界はわたしが存在していない世界として存在するようになるだけのことである。存在に意味がないのであれば、そんな世界の存在の仕方の変化にだって大して意味があるとはちっとも思えないではないか。

存在していた意味のないものが存在しなくなったとしても、世界はちっとも変わらずに存在し続けてゆくのだろう。いやそれとも、そこにいたはずものがいなくなることで、世界はわたしが存在していた世界からもはやわたしが存在していない世界へとやはり何らかの変化をするのだろうか。もしも、そこに何かしらの変化があるのなら、それはそれでもうわたしという存在に何かしらの存在の意味があったということになってしまうことなのではなかろうか。だが、もしもそうであったとしても、わたしいなくなることを前提にして確かめることができるようになる、わたしという存在にとっての何かしらの存在の意味というものに何の意味があるのだろうか。少なくとも今ここにいるわたしにとって。

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