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「雲霧仁左衛門6」について(+X)

BS時代劇「雲霧仁左衛門6」が放送された。二〇二三年八月二五日から一〇月一三日までの全八話。第六シリーズの舞台は、江戸を遠く離れて古の都、京都である。表面的には徹底的にドライであることを信条とする雲霧仁左衛門(とその一党)の無駄のないてきぱきとした仕事ぶりと全編に飛び交うまったりとした京ことばの絶妙に食い合わせの悪い感じが、何とも新鮮な感じがしておもしろかった。本シリーズの冒頭には、昼の日向の日差しのもとで寝転んで雲霧仁左衛門が昼寝をしているカットがあった。そこからずずっとカメラがズームアウトしてゆくと、仰向けになって雲霧が大の字で寝転がっていたのは、京都名物である大文字焼の大の字(大北山の左大文字)のど真ん中であったことがわかる、というシーン。もしや、これがやりたかったから、今回は舞台が京都なのかと思わせるだけのものが、そこにはあった。まだ何のストーリーも始まっていない物語の前段階であり、京都の街に雲霧仁左衛門が現れたことを告げる(ためだけの)短いカットであったにもかかわらず、もうすでに京都のシンボルのど真ん中にでえんと寝そべって、それをおのれの手中にしてしまっているかのようにすら見えたのである。また、雲霧仁左衛門を演じる中井貴一の実父・佐田啓二が京都出身であることを考えると、あのシリーズ冒頭の雲霧と大文字焼のシーンは何ともいえないものすごくぐっとくるものがあった。やっぱり、あれがやりたかったんだろうな。

ドラマの放送があってから、少し経ったころに録画しておいたものをだだだっと集中的に見た。その時に何かこれについて書こう思い、少しちらちらとメモを残しておいた。だが、それからまたかなり日にちが経ってから、ようやくこれを書き始めている。以前に書いておいたメモを見ながら書いてゆくつもりだが、もうかなり、細かいところは忘れてしまっているように思う。なるべく細かいところまで思い出しながら書くようにはしたいが、それも思い出せる範囲までである。見終わった録画したドラマはすぐに消去してしまうので、もう細部を見直すことができない。NHKオンデマンドとかで見ることもできるのかもしれないが、そこまでするほどでもないような気もする。そこらへんが難しいところではあるが、とりあえず最も原始的な思い出しながら書く方法をとることにする。思い出すのはただだし好きなときに好きなだけできるので。要するに、書くために何か特別なことをする余裕がいろいろな意味で今まったくないのである。

「雲霧仁左衛門」は、今回でシリーズ六作目。中井貴一の雲霧シリーズは、二〇一三年一〇月にスタートしているので、もう一〇年も続いていることになる。そして、これに匹敵する長寿シリーズ作品となっていたのが、東山紀之が大岡忠相を演ずる「大岡越前」であった。「大岡越前」がスタートしたのは、「雲霧仁左衛門」の第一シリーズの放送よりも半年ほど早い二〇一三年三月。つまり、こちらも一〇年近くシリーズが続いたことになる。昨年、二〇二二年五月からは「雲霧仁左衛門」より一足早く第六シリーズが放送されていた。そのときの「大岡越前6」の第一話を見た感想を、当時フェイスブックに「「大岡越前」と祝儀能」という文章にして残していた。そこから少し引用をする。

シリーズも六作目ともなると、いろいろと不安な要素は目についてくるものである。雪江の父・吉本作左ヱ門(寺田農)や忠相の母・妙(松原智恵子)、そして村上源次郎(高橋長英)といったところは、やはりかなり歳を取られたなあと感じる。人気のシリーズが続いてゆくことは、良いことだが、主要なキャストを同一の演者でどこまで続けてゆくことができるのかという部分では、ちょっとした心配もついて回るようになる。そして、今シリーズでの最も大きな変化といえば、かつては寺田農の付き人であった椎名桔平が、新たに八代将軍・徳川吉宗を演ずるようになったというところか。やはり。初代(平岳大)は、将軍の浮世離れした天然さ加減をよく表現できていたが、そのあたりはちょっと薄れたようにも感じる。吉宗が、ようやく威厳のある将軍らしい将軍となってきたということであろうか。

Note

このとき最も心配だと思っていたのは、一〇年近くも続く時代劇シリーズの主要キャストに明らかに見られた高齢化の問題であった。この一〇年の間に忠相の父・忠高を演じていた津川雅彦が他界していて、劇中でもそれに合わせてすでに隠居の身であった忠高が死去したのちの設定でストーリーが進められていた。そうした大きな変化もありつつも続けられてきたシリーズなだけに、今後もまだまだシリーズが続いてゆくということになると、段々と時とともに高齢化してきている忠相の周辺の出演者たちが、いつまで現役で芝居を続けられるのかということが、誠に大きなお世話であるが心配になってきていたりもしたのである。寺田農や松原智恵子や高橋長英たちが忠相の屋敷の縁側で時に語らい時にふざけあったりしているシーンは、「大岡越前」においてほんわかしたホームドラマ的な側面を担っているパートであり、いずれもみな決して欠かせぬ顔ぶれとなっているのである。だが、それから一年が経つか経たぬかといううちに、そんなこちらの心配は実にあっけなくとんだ取り越し苦労となってしまった。前代未聞のジャニー喜多川による長期の大量性加害事件を受けて、大岡忠相を演じてきた主演の東山紀之が芸能活動に終止符を打ったことにより、一〇年近く続いた「大岡越前」は第六シリーズ以降はもう制作がされないようなのである(二〇二三年一二月二九日、シリーズの事実上の最終話となる「大岡越前スペシャル~大波乱!宿命の白洲~」がスペシャル・ドラマとして放送される)。肝心要のお奉行が引退ということでは、もはやどうにもならない。一〇年近く続く長寿シリーズであったが、あまりにもあっけない実に残念な形での幕引きとなった。

「雲霧仁左衛門」「大岡越前」に次いでBS時代劇の長寿シリーズになっているのが、「赤ひげ」である。こちらは二〇一七年一一月にスタートしており、これまでに第四シリーズまでが放送されている。赤ひげこと新出去定を演じるのは、船越英一郎。舞台は小石川養生所。基本的に養生所にいる医療関係のスタッフは赤ひげよりも年若のものばかりであるので、こちらはシリーズを重ねてきていてもまだ高齢化の問題は起きてはいない。山本周五郎の原作とそれを基にした黒澤明の「赤ひげ」のストーリーは、最初のシリーズでほぼ描き切ってしまい、それ以降はかなり自由に赤ひげの世界を深めたり広げたりしながら各シリーズの物語を展開させている。赤ひげの過去に焦点をあてるエピソード・ゼロ的な掘り下げが多いのも特徴である。そうした赤ひげの若き日の恋の話や赤ひげの元妻が登場する展開に、元来の「赤ひげ」の物語から踏み出しすぎているという意見もあるようだが、いずれも新出去定という寡黙な医師の隠された人間性を内側から肉付けして描いてゆくエピソードにはなっていて、かなりしっかりと「赤ひげ」であったとは感じる。幼くして他界した実子の墓参りにゆく新出去定の姿なんて、このドラマでなくちゃなかなか見れるものではない。

映画「赤ひげ」では新たに養生所にやってきた青年医師・保本登の人間としての/医師としての成長をストーリーのバックボーンとしていたが、ドラマ「赤ひげ」においては第二シリーズ以降は赤ひげを尊敬に値する医師として認め自らも養生所の運営に欠かせぬメンバーとなってゆく保本の姿が描かれれてゆく。青年医師として日々の診察や診療をたゆまずに行い、私生活では家庭を持つ夫となり、そして父になる。シリーズを重ねるごとに赤ひげから大声で怒鳴りつけられて叱られたり小言を言われる頻度は減ってゆく。また、養生所には保本の後輩となる新しいスタッフも加わってきており、保本はそうした若手と赤ひげとの間にはさまれた中間職的な立場にある一歩退いた存在へとストーリー全体の中でも少しずつその役割を変化させてゆく。このようにドラマの「赤ひげ」では、所の長である新出去定を中心に養生所のメンバーを少しずつ増員させながらストーリーの世界を拡大させ、新しい「赤ひげ」を展開していっている。

ただ、興味深いのは「大岡越前」と「赤ひげ」とにおける小石川養生所の描かれ方の違いである。「大岡越前」に登場する養生所は、とても綺麗で清潔な感じのする養生所なのである。これに対し「赤ひげ」の養生所は、お世辞にも綺麗とはいえないような煤けて汚れた見るからに予算不足であることを物語るかのようなぼろぼろでがたがたな建物なのである。小石川養生所は八代将軍徳川吉宗によって一七二二年に小石川薬園の内部に設置された。大岡忠相が吉宗によって南町奉行に登用されたのは一七一七年のことであり、忠相は養生所が町奉行の管轄であったこともあり、この施設の設立に大きく携わっている。よって、「大岡越前」に登場する養生所が、まだ出来たばかりの新しい綺麗な建物であることは、まあまあ理解できる。ならば、「赤ひげ」に登場する養生所は、吉宗による設立からかなり時間が経っている養生所なのだろうか。保本登は江戸から長崎に遊学し蘭方医学の知識を身につけて帰ってきた、当時としてはばりばりの若手エリート医師である。そんなエリート意識をもっている生意気な若造が、無知と貧困に苦しめられている庶民のための泥臭い医療行為をこつこつ地道に行う朴訥で武骨なタイプの赤ひげと事あるごとに対立したり摩擦を起こしたりしながらも小石川養生所の一員となってゆく過程を描いたのが、黒澤の「赤ひげ」であり、ドラマ「赤ひげ」の第一シリーズであった。そのような蘭方医学が江戸の町にも技術や知識として広まってきている時代であることを考えると、あれは吉宗の時代よりももっと後代の養生所なのではないかとおのずと思えてくる。だからこそ、あんなにもおんぼろで薄汚れてしまっているのだろうと。しかし、現時点では最新のシリーズとなる「赤ひげ」第四シリーズには、なんと吉宗が将軍として登場しているのである。ということは、あれはまだ将軍が吉宗の時代の小石川養生所だったのである。つまり、まだ新しくぴかぴかしていた「大岡越前」の頃の養生所から、そう時間の経っていない時期の養生所が「赤ひげ」のあれだったのだ。吉宗が征夷大将軍の座を九代将軍の徳川家重に譲るのが一七四五年のことだから、吉宗の在職中に小石川養生所は少なくとも二〇年ほどの歴史を数えることになる。その時間軸に当てはめて考えると、六一歳で将軍職を辞する吉宗がまだぎりぎり将軍だったころの、設立から約二〇年の年月を経たいい感じにぼろくなってきた小石川養生所が「赤ひげ」に出てくる養生所ということになる。それに「赤ひげ」第四シリーズで吉宗役を演じたのが、現在六七歳の宅麻伸であったことを勘案すると、これはこれでそれなりに辻褄は合うような気もする。だがしかし、「大岡越前」と「赤ひげ」とにおける小石川養生所の見かけの非常に大きな差異は、いつ見てもとても不思議で仕方がないのである。

兎にも角にも「赤ひげ」とは、やはり新出去定次第の物語なのである。赤ひげが確固たるものとしてその胸中に抱いている無知と貧困との戦いという、大きな物語のテーマとなる柱があることで、養生所のスタッフやメンバーが少しずつ増えて、エピソードが個別のドラマに枝分かれしてどんなに広がっていったとしても、その各話の根底には常に新出去定が発する通奏低音が流れつづけておりドラマとしての揺るがぬ安定感を醸すのである。よって、しばらくは「赤ひげ」のシリーズは続いてゆくであろう。もしも、「大岡越前」のような心配事が生ずるとするとしたら、それもまた新出去定次第というところか。第四シリーズでは、新出去定は将軍吉宗から小石川養生所に併設する医学校の責任者となることを打診され、無知と貧困との戦いをライフワークとしている身であるがゆえに医療の現場から離れることに対しての踏ん切りがつかず深く逡巡をするが、最終的には養生所と医学校の責任者を兼務するという条件をつけて吉宗からのオファーに首を縦にふる。養生所で日々奮闘をしながら成長してゆく保本たちの姿を間近で眺めることと同様に、若い有能な医師を自らの手で育ててゆくことも、長い目で見れば無知と貧困との戦いになるであろうことは赤ひげもおそらく最初から悟っていたのだろうけれど。これによって、きっと次のシリーズからは赤ひげは学校の運営にも携わってゆくようになる。実際の医療の現場である養生所は、次第に赤ひげの手を離れ、赤ひげの意志を受けつぐ若い医師たちの活躍の場となってゆき、それこそまったく新しい形の「赤ひげ」のドラマへと展開してゆくのかもしれない。水戸の御老公ならぬ小石川の御老公的な存在となり各エピソードの最後の最後で目覚ましい活躍ぶりをみせる新出去定というのもあってもいいような気がする。

そして、「雲霧仁左衛門」も変化をしている。一〇年続いているシリーズでは、かなり頻繁にメンバーが入れ替わり、ごく自然にキャストの流動化が起きている。これは、刻々と世代が移り変わり変化をしてゆくことが当たり前な盗賊団のもつ宿命的な性格を明確に反映させたものでもあって、これによりそれぞれにテーマの異なるシリーズを重ねていったとしても無理なく雲霧の物語をつづけてゆくことができている。現在、第一シリーズからずっと雲霧一党のメンバーとして活躍しているのは、もはや七化けの千代と洲走りの熊五郎の二人だけではなかろうか。ただし、京都の町が舞台であった第六シリーズには江戸に残って江戸幕府中枢の機密情報を収集するスパイ活動を敢行している七化けの千代はドラマの画面上には一度も登場しなかった。よって、事実上はすでにずっと昔からいる古参メンバーは洲走りの熊五郎だけになっている。盗賊の世界は決して生やさしいものではない。これまでに雲霧一党も多くの犠牲者を出している。雲霧仁左衛門は盗みはしても殺人ましてや人を無闇に傷つけることも決して行わないフィロソフィーをもつ盗賊であるので、その一党の中で命を落とすものが数多あることは、ある意味では一方的な損失でもある。それでも雲霧仁左衛門は決してその終わりなき闇の仕事の手を緩めることは決してなく、一党のメンバーも入れ替わり立ち替わり盗賊団の一軍メンバーに昇格してきては御頭のために命を投げ打ってでも仕事に励むのである。最新の京都を舞台にした第六シリーズには、前裁の勘助、胡蝶、亀菊、与之助と新顔の一党のメンバーが多く登場した。この新メンバーが次回のシリーズにもそのまま登場するのかは、まだわからない。京都を拠点として活動している雲霧一党の関西支部のようなゆるい組織に所属するメンバーで、何か特別な大仕事のある時にしか助っ人として江戸にやってこないメンバーも、この中には含まれているかもしれぬから。それに江戸では江戸でさらにまた新しいメンバーが次々と登場して目覚ましい活躍をすることだってありうる。第六シリーズのラストで江戸へと戻る街道からふらりと脇道に逸れた洲走りの熊五郎が、そのまましばらくどこかで道草を喰って江戸の町に戻らなかったとしても、その穴を埋める働きをする切れ者は必ずや雲霧の配下に現れるはずなのである。

第六シリーズの京都編において非常に興味深かったことといえば、全八話のシリーズのすべての回にスペクタクルな盗みの仕事をするシーンがあったことが挙げられる。これまでのパターンでいうと、目標とする大きなターゲットに向けて少しずつ照準を絞ってゆき充分にためをつくって助走をつけて大団円へというシリーズの流れが多かったかと思うが、今回は毎話そこそこ大きな盗みの仕事を繰り返してゆくことで京都の町の裏の金の流れを追い尻尾を掴みまるでからくりを解いてゆくかのように最終的なターゲットに迫ってゆくという流れであった。ある意味では、毎回その最終盤になると悪い奴らが悪いことをして溜め込んだ大金が、すっかり雲霧仁左衛門によって盗み取られている(最終話だけは隠し蔵の中の汚れた金だけを盗み、あとの金はそのまま蔵に残してゆく)というお決まりの話の流れが繰り返されることで、ティピカルな時代劇的なストーリーのパターン化のようなものが見えてきて、雲霧一党のてきぱきとした用意周到で無駄のない仕事ぶり(すっからかんになった金蔵の中に残れた「雲」の一字がしるされた紙が一枚)も相俟って一種のカタルシスさえ覚えるようになってゆく。まあ、京都の土蔵が江戸の土蔵よりも比較的破りやすいので毎回ちょくちょく忍び入ったということではないのだとは思うけど。御用金の夢は土蔵の疲れ。

また、少しばかり逆の意味で興味深いものがあったのが、新メンバーの与之助であった。この通人の与之助という男は、何かが匂う核心めいたところに常にふらっと神出鬼没で現れる。シリーズの序盤には、素性や背景のまったくわからないまさに謎の人物として(意図して)描き出されていて、どこかで雲霧一党と通じているのか、もしくは通人とは仮の姿で実は公儀隠密のような存在であり京都での雲霧の動きを逐一嗅ぎ回っているのか、ちっとも判断がつかなかった。しかし、シリーズの中盤以降は、何のことはない雲霧の配下のものであることがあっさりと判明し、その神出鬼没ぶりを発揮して盗賊団の仕事を陰に日向にこなしてゆくようになる。しかし、この与之助なる男、この名をもち通人と称されているところから察するに井原西鶴「好色一代男」の世之介をモデルとしているのではないかと思われるが、これを演じているのがダイゴ☆スターダストことDAIGOであり、あまり通だの粋だのといったものを感じさせない芝居であるのが、ちょっとばかし残念でならない。一応は京都の町の謎めいたあやしげな遊び人といった線を狙っている芝居だったのだろうが、どうしても与之助がすると変なコミカルさが前面に出てきてしまう。これまであまり雲霧一党にはいなかったタイプの(隙のある)メンバーであるので、そこはとてもおもしろいと思うのだが、どれほどに与之助というキャラクターがDAIGOが演じてゆくことで深まるのだろうかという点においては、はなはだ疑問多しというほかはない。だかしかし、与之助のような裏の顔をもつ通人というあやしいキャラクターを演じられる若い俳優が、今ほかに誰かいるのだろうか。最も手っ取り早いのは、歌舞伎などの伝統芸能の世界の若手俳優を起用するという方法なのだろうが、そればかりに頼っていては一向に時代劇ができる平場の若手の俳優は育たなくなってしまうであろう。それでなくても「大岡越前」と「雲霧仁左衛門」には、(もうすでに)かなりの役者のダブりが見受けられる。今、時代劇の世界は慢性的で非常に深刻な人材不足の状態にあるといってよい。長く時代劇で活躍してきたお馴染みの俳優たちの高齢化も問題だが、きちんと役柄をこなせる若手があまり育ってきていないことも今後の問題として非常に大きい。それに、そもそもの話が、今どきの若者は総じてスタイルがよく驚くほど小顔な体型なので、髷や着物がどうもしっくりこないというか何かちっとも似合わないのである。「そろばん侍」や「幕末相棒伝」、それに大河ドラマなどにも出演していた向井理を見るといつもそう思う。昔の日本にあんなにすらっと背が高くしゅっとした小さい顔の人は絶対にいなかったであろうと。そういう意味では、二一世紀の時代劇は(絶滅の)危機に瀕しているといってもよい。逆に、「善人長屋」で主演した中田青渚は、すらっと背も高く目鼻立ちもはっきりくっきりしていてまるで少女漫画の世界の中から飛び出してきたような雰囲気であったが、そのあの時代にこんなにきらきらしてる町人の娘はいなかったでしょうよと思わずにはいられないような飛び抜けた存在感が、やや荒唐無稽なところのある物語の内容と絶妙にマッチをしてもいた。そういう意味では、新しい二一世紀の(あまり時代劇らしくない)時代劇というものに(もしかすると)時代劇の活路はあるようにも思えるのだ。やはり、与之助に西鶴の世之介を重ねて見ようとすることの方が間違いであったということか。あれはたぶん新しい二一世紀の時代劇を見てゆくためのまったく新しい感覚で見なくてはならない与之助であったのだろう。

そのほかの「雲霧仁左衛門6」の良かったところをいくつか挙げておく。

やはり、まずは胡蝶はんである。第六シリーズは、もはや胡蝶の存在なくしては成立しなかったといってもよいくらいのものですらあった。今回の京都での仕事のためにいつから潜入をしていたのかわからぬが、花街の芸妓になりすました雲霧一党の胡蝶が大奮闘をしたのが、この京都編であった。今シリーズより登場した新メンバーのひとりでありながら、京都には来れなかった七化けの千代の不在の穴を埋めるに十二分な活躍ぶりであった。浅はかな京の男たちを手玉にとってたくみに操る手練手管のまことに鮮やかなこと、これには唸らされた。それに多芸多才で、芸妓らしからぬ(実際、芸妓ではないので、芸妓らしからぬもなにもあったものではないのだけれど)かわいらしさも併せもつ(かと思うと、京都での仕事を終えて江戸への帰途につく最終話のラストでは、すでにはんなりとした京都弁から伝法な素の江戸弁にすっかり戻っていて、その落差の大きさにもきゅんときた)。雲霧一党に最強のルーキーが登場した!と思っていたら、シリーズ最終話の大詰めで京都東町奉行所の手勢に尻尾をつかまれ絶体絶命のピンチに陥る(よくありがちな)展開に。ああ、これは第六シリーズだけの出演だったのかと、半ば諦めかけたところに、御頭が颯爽と登場して胡蝶を救出する。ほっとした。ほっとしたが、橋の上で周囲を追っ手に囲まれ追い詰められていた際に、もはやこれまでと観念した胡蝶が、スパイ活動で得た情報を伝達するためにしたためてきた文を証拠隠滅のために橋の上から、そっと後ろ手の体勢で(ノールックで)投げ落として廃棄しようとした。のだけれど、これがとんだ胡蝶らしからぬしくじりとなった。そっと落とした文がちゃんと橋の下の水の中に落ちなかったのだ。そのため、中途半端に水に浸かった状態で文が落ちていたところを奉行所の捜査員に発見され、それを持ち帰った安倍式部らによって(水に濡れてところどころの文字がにじんで読めなくなっている)文の内容を解読されてしまうことになる。だがしかし、この胡蝶のしくじりがあったからこそ、最後の雲霧一党の大仕事が終わった後にようやく現場に駆けつけた安倍式部と雲霧仁左衛門の対面が再び叶い言葉を交わす名場面が生まれたのだとも考えられる。いつだって雲霧の存在に迫れるのは安倍式部ひとりであり、今回はその接近・接触の契機を与えたのが、あの胡蝶が橋の上から水の中に落とし損った文だったというわけである。一面では胡蝶のしくじりではあったのだけど、結果的にあれはドラマの演出上においても胡蝶の隠れた大ファインプレイであったのかもしれない。まさに、雨降って地固まる、である。

雨降って地固まる、といえば、やっぱり今津屋の女将・おつるの一人息子・佐一である。物語に登場する大店の若旦那というのは、大抵がだめな子である。この佐一も言うに及ばず。今津屋は今では京都でも指折りの両替商であるが、元々は小さな一軒の呉服店から稼業をスタートさせている。佐一は、現在の今津屋にあってもその創業時からの家業というべき呉服部門を統括する大店の経営を任されている。しかし、そこはまったくもって若旦那らしく、ちっとも仕事には身を入れずに花街に入り浸っては散財してばかり。しかし、京都に(実は佐一とも因縁浅からぬ)雲霧仁左衛門が現れてからは、両替商として公家や武家とのつながりも深い今津屋の中にもあれこれと大小の波風が立ちはじめる。だが、遊んでばかりいてまだ商人としては一人前でない佐一は、母のおつるからも店が一大事を迎えているにもかかわらず頼りにされず疎まじく思われているのではないかと(ひとり勝手に)感じるようになる。そこで、急に一念発起して下手にあれこれ動き出したところを逆に抜け目のない雲霧仁左衛門に狙われて呉服店に盗みに入られたりと散々な目に遭う。最後には、店を捨てて好きな絵を描いて生きてゆくと大店の若旦那からドロップアウトしかけるが、おつるが守り通してきた今津屋の隠し蔵も雲霧一党に破られ、京の御用金の夢が露と消えたことで、ようやく佐一は今津屋に戻り、母子が手に手をとって今は亡き先代の遺志を継ぎどこまでも清廉潔白品行方正に稼業を再び盛りたててゆくことを誓って、めでたしめでたしとなる。物語に登場する大店のだめな若旦那というのは、本当に何かものすごい大事が自分の身の上に起こりでもしない限り絶対に目を覚さないものなのである。「唐茄子屋政談」の若旦那のように。かと思うと、「船徳」の若旦那のように変な方向に変なスイッチが入ってしまうということもある。とかく、大店の若旦那の扱いというのは難しい。

そして、京都所司代・蒼井主膳正の孫・小太郎には胸を打たれた。その人間的な強さに。ずっと小生意気でいけすかない典型的な武家の小太りのお坊ちゃんだと思って見ていたが、最後の最後でその印象ががらりと変わった。御用金横領と着服の咎により京都所司代の職を解かれた蒼井主膳の屋敷の廊下で、ひとり黙々と書物を音読している小太郎の声を安倍式部は耳にする。すでに両親は亡く、祖父の手によって過保護に育てられていた小太郎は、頼りの綱であった蒼井主膳をも失い、まだ前髪のある年齢でありながら突然に孤独の身となってしまう。そのおのれの境遇をわかった上で、小太郎は勉学に励み立派な人物になって世の中のすべての人を見返そうとしている。そう心に誓って、もうすでにひとりで戦いを始めているのである。書物を読む小太郎の声を廊下で聞きながら、安倍式部はたくましきもののふの心をもつ少年へのエールを贈る言葉を小さく呟いて、京都所司代の屋敷を去ってゆく。あの安倍式部から小太郎への言葉が、ただ単に小太郎にだけ向けていった言葉には聞こえなかったところが、また何ともいえず深かった。安倍式部という男もまた何の後ろ盾となるものを持たず(今の言葉でいうと、地盤も看板も鞄も持たずに)、たったひとりでおのれの才覚だけを頼りに武家の社会に戦いを挑み、火付盗賊改方のトップにまでのぼりつめた叩き上げの苦労人なのではかろうか。だからこそ、あの時に廊下で小太郎の声に耳をとめたのだろう。若きころの自分の声がそこに重なるような気がして。そんな見えない背景があるゆえに、最後の安倍式部の残した一言が、実に味わい深い何ともいえないトーンを含んで聞こえたのではなかろうか。やはり國村隼という役者はただものではない。

「雲霧仁左衛門」における光と闇の世界を隔てる基本線は、安倍式部と雲霧仁左衛門の間に引かれている。物語全体の構造上は、そのように見える。幕府公儀の役人は善であり、こそこそ盗みをはたらく盗賊団は悪である。捕まえる側と捕まえられる側。実際の善悪の在り方からすれば、そのようにふたつの世界は一本の線できっぱりと分け隔てることができるであろう。しかし、あのふたりの間を分け隔てている光と闇の世界の在り方というのは、そのように単純に割り切れるようなものではもはやないようだ。ふたつの世界は、実に複雑に入り組んでいる。それだけでなく、かなり入り組みすぎてしまっていて、時に逆転してしまったりもするのである。ふたりはまるでバットマンとジョーカーのようであるとも考えられる。互いに互いの好敵手でありながらも、ふたりはふたりの世界の外部にある何かもっと大きな悪に対してともに対峙している。そして、バットマンとジョーカーのように、安倍式部は安倍式部であるために雲霧仁左衛門を必要とし、雲霧仁左衛門は雲霧仁左衛門であるために安倍式部を必要としている。ある種の共依存的な関係性にもあるのだ。第六シリーズの京都編には、本来であれば江戸の幕府の役人である安倍式部は登場しないはずなのである。それなのに、タイミングよく老中からの直々の命(将軍上洛のための下調べ・現地調査)を受けて雲霧の後を追うように京都へとやってくる。それに雲霧仁左衛門にしても、将軍上洛に伴って莫大な御用金が流れ込む京都の町で安倍式部とあいまみえることは最初から織り込み済みであったようにも思われるのだ。だが、幕府のお膝元である江戸とは勝手が違って、京都では安倍式部はいわゆる余所者なのである。京都には京都の所司代や町奉行がいて、江戸でのように火付盗賊改という組織を率いてあれこれ動くこともできない。一方、雲霧仁左衛門は一党の精鋭たちを自由に動かして京都の町でも江戸と同じように次々に狙ったターゲットをおとしてゆく。そういった部分で、第六シリーズにおいては両者の関係性のパワー・バランスは終始崩れたままであった。安倍式部の動きが大きくない分だけ、雲霧一党が御用金に群がる金の亡者たちを難なく只管に片っ端から懲らしめていっているようにすら見えた。雲霧の動きは常に京都の町奉行に先行し、結果的にその盗賊の仕事ぶりによって本当の悪が外堀を埋めてゆくようにあぶり出されてゆき、町奉行の捜査にも貢献していったという形だ。しかしながら、京都の町の悪人たちの手ですっかり汚れてしまった金(元御用金)だけは、すべて雲霧仁左衛門に没収されて消えて無くなってしまったわけなのだが。

今から五年前、「雲霧仁左衛門」の第四シリーズの内容について書いたフェイスブックの投稿があった。それを引用し、貼り付けておく。

雲霧仁左衛門の第四シリーズ、最後はかなりとんでもないことになっていた。つまり、このシリーズで新たに登場した人々は、ほとんどみな何らかの形で消え去ってしまったということなのか。そして、最終的には雲霧仁左衛門が安部式部で安部式部が雲霧仁左衛門というまるで禅問答のような全く埒があかない展開をみせもする。このまま行くと安部式部が巨悪を懲らしめるために盗賊の頭となって裏の世界でもうごめき雲霧仁左衛門が自らの分身でもある安部式部のために(一党に取り入れた小役人たちを使って)それをいち早く阻止して撃退し汚れた金を横取りするという本当の正義というものを巡り善悪の彼岸で二人が対峙する御公儀のお役目(火付盗賊改方)そのものまでをも脱構築するところまでいってしまうのではなかろうか。若くして亡くなった永島源八郎はとてもよい綻びぶりをみせてくれた。なかなかの怪演(好演)であったとおもう。

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第六シリーズの最後で雲霧仁左衛門と安倍式部は対面し、ほんの少しだけ言葉を交わす。安倍式部は、雲霧仁左衛門が盗賊団を率いて世直しでもしているつもりなのかと単刀直入に問いかける。雲霧仁左衛門は、その問いをやんわりと否定する。雲霧一党は決して義賊などではない。雲霧仁左衛門は、金に汚い腐った世の中を糺そうというしかつめらしい目的をもって盗みを仕事にしているわけではないことを安倍式部にあらためて説明する。もしも、雲霧仁左衛門が義賊であったら、というか義賊という意識をもって盗みをはたらいているのだとしたら、火付盗賊改方の頭取として乱れた世を正そうとしている安倍式部と目的を同じくしてしまうことになる。それでは、両者がまったく同じ目的をもって同じ方向に向かってまったくの相似形で行動してゆくことになり、ふたりの関係性が崩れ、その関係性そのものが成立しなくなってしまう。光があるから闇があり、闇があるから光があるのだから。

ふたりがひとつのコインの表裏のような存在(そして、ふたりがそのコインの同じ側に同時に存在することはない)であるということは、火付盗賊改方が安倍式部である限りは、雲霧仁左衛門もまた汚れた金を地上から消し去る・抹消するための仕事をつづけるということである。つまり、火付盗賊改方の安倍式部のいない世界では、もはや雲霧仁左衛門の仕事も成立しないということなのではなかろうか。それは、もしも安倍式部が火付盗賊改方の職を解任されるようなことがあれば、雲霧仁左衛門も消えていなくなってしまうということなのかもしれない。火付盗賊改方の存在を疎ましくおもう悪の手が安部式部に迫り窮地に立たされるようなことがあれば、雲霧仁左衛門はその危機から安倍式部を救うのではあるまいか。そして、それはそれぞれに逆の立場となったとしてもありうることであろう。だからこそ、安倍式部はおのれの職務を果たすために、あえて雲霧仁左衛門を捕まえないのである。いや、絶対に捕まえられないということによって、その盗賊としての活動を幇助しているともいえるだろうか。光と闇・善と悪のふたつの世界に分け隔てられてはいるが、本当は同じ顔をもつ悪を挫くという目的を世界の両極において共有している両者であるから。雲霧仁左衛門が大きい仕事をして動けば動くほどに、安倍式部は別にそれを捕縛せずとも、または意図的にそれを取り逃したとしても、両者に共通する大きな目的は達せられる、ことになる。つまり、いつも安倍式部はぎりぎりのところで捕らえずに逃し、雲霧仁左衛門はぎりぎりのところで(尻尾だけは掴ませても)捕らえられないようにして逃げている、とも考えられる。それに、雲霧一党のプロフェッショナルな仕事の流儀においては、誰ひとり傷つけず一滴の血さえも流していない(第六シリーズでは盗みの仕事を終えて一党が帰る際に盗んだ金の中から一両小判を取り出して少し手荒なことをされて伸びてしまった金蔵の見張り番の男の懐に迷惑料といってねじ込んでから立ち去ってゆくというシーンがあった)のだから、瞬時に雲か霧のように消えてしまった盗賊を取り逃がしたとしても、その事件の捜査自体はあまり長引くことがなく、被害者が実は純粋に被害者ではなかったという事実の方が前面に出てきて、逆に後一歩のところまで事件の核心に迫っていた安倍式部の捜査力と推理能力はそれなりに高く評価され、御公儀からは得難い人材であると目されるようにもなる。このあたりの諸々の動きの差配は、もはや両者の阿吽の呼吸で成り立っている。

第六シリーズのラストの対面の場面は、クライマックスの隠し蔵破りの大仕事が終わった後に随分と遅れてやってくる安倍式部の問いに答えるためだけに、雲霧仁左衛門はひとりで安倍式部の到着を待っている。大仕事を終えた直後の盗賊というものは、普通は表の世界からは姿をくらますはずであるのだが。それなのに、雲か霧のように消えることなく、雲霧仁左衛門は安倍式部の到着を待っているのだ。直接に対面し、言葉を交わし、まるでふたりの間に引かれている世界を分つ線を引き直す儀式を執り行うかのように。

このように「雲霧仁左衛門」は、雲霧仁左衛門と安倍式部のふたりの関係性を太い軸として、そのまわりを終わりなくごろごろと物語が転がってゆく構造をすでに確立している。それゆえに(もはやかなり)予定調和的でありながらも説得力のある娯楽性とドラマ性をもってシリーズはつづいてゆくことになるだろう。何処で何を如何に盗むかは、もはやドラマ全体の流れから見れば(良い意味で)二の次なのであるが、その全般的な静のトーンの演出に対する雲霧一党のスペクタクルな盗みの仕事のシーンの動性は、ひとつずつのエピソードの最後の最後ではっきりとした彩りを与えることになる、重要なエンターテインメントにして見るアトラクションとして機能する。「雲霧仁左衛門」は、しっかりとした枠組みとパターンとなる型のあるドラマと、そのドラマの各エピソードの差異と反復からなるシリーズとシリーズをつないでゆく大きな物語をもった、非常に(現在ではとても珍しく貴重な)時代劇らしい時代劇となっているといえる。

でもやっぱり物語の舞台は江戸の町がいいような気はする。京の言葉を話す魑魅魍魎を懲らしめるのも悪くはないが、まだまだ江戸の町に巣食う悪とも徹底的にドライに戦ってもらいたいとも思うのである。



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