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日曜日の落語

2021年10月24日
「立川志らくの演芸図鑑」。落語のゲストは、柳家花緑。冒頭、志らくが花緑のことを同志と紹介していた。そういえば、かつては志らくと花緑のどちらがいいかなんていうことをよく考えていたものだった。花緑はまだへっぽこに毛が生えたぐらいのレヴェルでしかなかったので、いつになってもきっとこれは志らくには追いつけないだろうななんて思っていたころのことである。それでもいつかは二人で大看板になって志らく・花緑時代などといわれるものがおとずれるのではないかと思っていたりしたのだけれど、二一世紀になると春風亭一之輔が二つ目でどえらい人気者となってしまい新たな落語ブームが幕を開けてわんさと活きのいい若手が台頭してくると、志らくも花緑もどうにも中途半端な中堅どころにおさまったままになってしまった。その後、志らくの姿をテレビで見かけることが多くなった。テレビではいつもつまらないことばかり言っているなという印象だったが、よくよく考えてみるとずっと志らくは志らくのままなにも変わっていないのだということに気がついた。テレビに出続けることで、いつまでも変わらぬブレないコメントをする志らくのままでいることを選んだのだと。その代わりに花緑の落語は見違えるようにどんどんどんどん進化していた。そして、いつの間にか花緑の顔がなくなってしまっていることに気がついた。噺の邪魔になるあの鼻につく顔がすっかり消えていたのだ。今や、まるっきりのっぺらぼうが喋っているかのようにさえ見える。そこに花緑の顔がないので、高座では噺に登場する人物の色々な表情を次々とそこに当てはめてゆくことができる。もはやその人が本当にそこにいるかのようじゃねえか。花緑の落語は、本当に素晴らしくよくなった。これからもどこまでもどこまでも深まってゆくことだろう。ひとつところにとどまらずに変わり続けてゆく道を選んだのだから。まさしくライク・ア・ローリング・ストーンだ。ごろごろと転がって角が取れて、ごつごつしていながらも丸みとあたたかみのある道端に転がっているなんの変哲もない石ころのようになった花緑の顔。あののっぺらぼうはまだまだよくなるだろう、必ず。同志の番組で今回披露した演目は「二階ぞめき」。志らくと花緑にとっての導きの星であった立川談志の十八番としても知られるナンセンスでスペクタクルな郭噺の一席である。三十分番組でほかにも出演者がいる中で「二階ぞめき」のような癖のある噺をどこまで中味を詰め込んでできるものかと思って見ていたが、実に見事にすっきりさっぱりとやってのけていた。非常にテンポのよい喋りで、細かい部分は割愛したり、あまり聞いたことのないくすぐりがあったり、思い切り鬼滅ネタをぶち込んでみたりと、なかなかに気の利いた工夫のある熱演であった。談志のスタイルや風味から学びつつも、そこから前進して、まだまだ「二階ぞめき」を更新させてゆけるのではないかというポシビリティも垣間見せる。鬼滅効果なのか郭噺のルネッサンスが起こりつつあるような機運もなきにしもあらずだ。花緑の落語からも令和の郭噺シーンからもしばらくはちょっと目がはなせそうにない。北国と柳のおうわさまちにけり。
TVK「浅草お茶の間寄席」。鈴々舎馬るこ、柳家わさび、桂小すみ、古今亭文菊という、あまりにもあまりにもちょっとどうかしているライン・アップ。こちとら風変わりなものほど大好物ってなたちなもんで、終始わくわくしながら拝見いたしました。四者四様にキャラクターが立っており、芸の味付けもやや濃いめで、どうにも食い合わせが悪そうであるのだが、さほど胃もたれ感はないのが実に不思議。逆に、視聴後にすっきりさっぱりとした気分になるくらいには、なんとも心地よく楽しめる小一時間であった。音曲の小すみ師匠は、三味線でボサノヴァを演り、英語とポルトガル語で弾き語る。演目は、アントニオ・カルロス・ジョビン師匠の「波」。スーパーマーケットの売り場で閉店間際にいつも流れていたので覚えてしまったという前段のフリをうけて、最初は英語で次はポルトガル語に入れ代わりさざなみのごとく打ち寄せていた歌の歌詞が、いつしか魚介類の名称を羅列するだけになってしまっているという、ひどく珍妙なネタにすさまじくわかりづらいオチをつけてひねり落とす荒技中の荒技。ひと癖もふた癖もある芸であるが、いかにもボサノヴァなのでさもあらん。そして、わけもなくサウダージ。閉店時間が近づき半額シールが貼られたマグロの柵がつんてんしゃん。おとろしく変態なことをしまくっているのだが、本気の音曲家小すみ師匠にとっては、これくらいは夕飯前といったところだろうか。馬るこもわさびも小すみも文菊も、イメージ的には個性もアクも結構強めの芸人に見えるのだが、どちらかというとやっていることはいたって真っ当で、芸としてはしっかと正統寄りであり、いずれも性質的には生真面目なタイプであって、見かけによらずにどうかしているくらいの求道者ときている。そこで気づいたが、この四者の取り合わせは、特に芸風がくどいというわけではちっともなくて、ただただ見た目が動物園やらサファリ・パークなのではないかと。ゆえに、珍しい変わった生き物の生態を間近で観察できるような嬉しさがある。馬るこのずんぐりむっくり感、虚弱なわさびの異様にてかる黒髪、そしていやらしいお坊さん。このおかしな生き物たちの間にはいると、小すみ師匠のボサ音曲がとてもとても高尚な文化芸術の香りのする芸であったようにさえ思えてくるから不思議だ。「ちぁーう、ちぁーう」。文菊さんがやる江戸っ子は、なかなかに独特だが、生きた感じがしてすごくよい。もって生まれた品性といかれた個性が、ずんずんと落語のはしばしに顔を出してくるようになると、さらに得体の知れない雰囲気や人間の臭みが出てきておもしろおかしいのではなかろうか。おそらく、そう遠くはないうちに一之輔・文菊時代がくるような気もする。少なくとも志らく・花緑時代よりかは格段に可能性があるだろう。二人が現代の志ん生と圓生などといわれるほどのものにまでなるかどうかは、神のみぞ知る。いやいや、どちらも髪がないので、ノーバディ・ノウズかしらん。そういえば、「浅草お茶の間寄席」とは薬用育毛剤ニューモがスポンサーではなかったか。ひよこは生まれたときから毛がふさふさ。ななへやへはなはさけどもやまぶきの髪ひとつだになきぞかなしき。

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