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短編小説「ケソウノイド」

けそう

ここは、東国。広い武蔵国の、ちょうど真ん中あたり。見渡すかぎり高く険しい山はひとつもない。遠くにうっすら山並みが見えるが、そこまではずっと田んぼと畑と草っ原ばかりで、所々にこんもりと茂る森とのっぺりとした丘が伸びているだけ。古い大きな川に沿うように、古い往来の街道が延々と続いている。まばらな集落も、大抵は街道の近くに寄り集まってかたまっている。この広い平らな土地では、あまり大きな川に近すぎる土地は人が住むには適さないからだろう。そのためか人家は、ほとんどあまり水に浸かることのない街道の周辺に密集している。
この古い街道を、ずっとずっと北上すると、坂東太郎とも呼ばれる利根川を越えて、下野国へといたる。毎日、大きな荷物を背負ったものたちが、ひっきりなしに街道を行き交っている。畑で採れたものを背負って街に売りにゆくもの。市場で買い込んだ品物を持ち帰るもの。名主や代官に納める布や糸を、荷車に積んで運んでいる近在の百姓たち。ちらほらと巡礼の聖も通りかかる。陽炎のようにふらふらさまよい歩く遊行者や流浪の民は、この街道そのものを住み処としていて、この街道で生き、そして死んでゆく。素浪人。旅人。行商人。猿楽法師。傀儡師。博徒。ならず者。野盗の集団。みんな、あちらへこちらへと街道を移動している。
そんな、ざわざわとした街道から、少し脇道に入ったところに、がたがたででこぼこな名もなき細い田舎道があります。周りはもうとにかく田んぼと畑だらけ。川越の街の少しばかり手前の、普段は近辺の村人たちだけでなく、たぬきやいたちなども共同で利用している、片田舎の土くれが踏み固められた小道であります。

このあたりの村の若い衆、正三が、朝の畑仕事をひと通り終えて、田舎道を向こうから歩いてくる。薄汚れた野良着の腕やら胸やら腰やらに引っ付いている土くれの類いを、ぱっぱぱっぱと手のひらで払いながら。腰紐には、相当にくたびれた手拭いが、ぷらぷらとぶら下がっている。それを歩きながら、すっぱり引き抜いて、首にかける。正三は、あちらこちらに目を配り、村の畑の様子を見回している。どこかに何か変わったところがあれば、それが自分の畑でなくても喜んで手伝いにゆくのが、この正三という若者の性格であった。首にかけた手拭いで、首筋に吹き出してきている汗を、無造作にごしごしぬぐっている。先ほどから、ちょっと急ぎ足になっているのは、家でひとりで帰りを待っている母親が、もうそろそろ昼飯の支度を終えている刻限だからである。きっと、今日も今日とて息子の帰りをそわそわしながら待っているに違いないのだ。
正三は、早くに父親を肺の病で亡くした。正三も、生まれつき体が弱かったため、幼いころには床に臥せってしまうことが多かった。そんな正三が、父親の死を境にして、いつからか見違えるように健康な男児となった。そのころから、ずっと母親の手となり足となり、立派に一人前の働きをしている。しばらくすると、一家の畑仕事をひとりで切り回すほどになった。今では、村一番の働き者だと、どこへいっても評判である。それほどに頼もしい若者であるから、あとはどこか近隣のよい家から嫁をもらって、存分に親孝行をするだけだと、村人はいつも口々に言っている。

田舎道の両脇に続いている田んぼの畦には、青々とした草が生い茂っていた。村の田畑と集落の家々が風よけにしている古い雑木林の脇を、正三は村の方へと降りてきていた。背の高い木立のちょうど端のあたりに差しかかるところで、土のでこぼこ道は緩やかに左に曲がっていた。その道の折れ曲がりのあたりの路傍に、こじんまりとした小高い塚がある。そのすぐ横を通りかかったとき、ちらっと何かが正三の目に入った。それは、明らかにいつもとは違う光景だった。まるで緑色の敷物を敷いたかのように、きれいに草が生い茂っている小さな塚の上。そこに、驚いたことに、誰かがいたのである。
この塚には、古くからの不思議な言い伝えがあった。その言い伝えのせいで、ずっと前からそんな恐ろしく物騒なところに登るものは、村人の中には、ほとんどいなかったのである。どこをどう見ても何の変哲もない草むらの中にある古い塚なのだが、これがどうにも薄気味が悪いのである。なんでも、随分昔に見目麗しい京の女が、旅の途中に、この塚で足を休めていたときに、世にも稀なる湧水を飲んだのだという。だがしかし、そのことがあってからというもの、こともあろうにこの塚が、その京の娘のとびきりの美しさを忘れられなくなってしまったのだという。そして、それからは、きれいな若い娘だけが塚に近づくことを許されるようになった。若く美しい娘以外のものが、下手に近寄るようなことがあると、大昔から塚に棲みついている水の神の機嫌を損ねてしまい、夏に長雨が降り続いて冷害で凶作になったり、大洪水が起きて田や畑が流されたり、旱魃で井戸が干上がったりと、何年も何年も災いが絶え間なく起きるようになる。嘘か真か、そんな言い伝えがあるのである。そのため、男も女も子供も大人も、この村に大きな罰が当たっては困るというので、誰ももう、この塚に近寄ろうとはしないのだ。

正三が、ちょっと見てみたところ、薄汚れた身なりの念仏聖らしき人物が、塚の上でばたりと行き倒れているようである。
「こりゃあ、いけない」
正三は、大きく目を見開いて、そこに生気なく倒れ込んでいる人をあらためて見た。そして、次の瞬間には、大急ぎで塚に駆け上っていたのである。いくらそれが罰当たりなことであろうとも、目の前で倒れてしまっている、何か訳ありな人のことを、そのままにしておくわけにはいかないのだ。正三とは、そういう性格の若者なのである。
「どうしましたか。大丈夫ですか?」
近づいて、よく確かめてみると、はたしてそれは、どう見ても、聖や遊行者ではないようだった。それに、第一、僧形でもなければ、男でもなかったのだ。それは、どこから来たのだろうか、ひどく痩せこけた小柄な老女であった。ぼろを着て、お世辞にも清浄とはいえぬ風貌、身なりをしている。おそらく、いくら念仏聖であったとしても、もう少しぐらい聖らしさのある身なりをしているものであろう。きっと、かなり長い年月を歩き続けてきたのであろう。なにもかもぼろぼろになるまで老女は歩き続けて、ここまできたようだ。
(こんなにも年を取ったお婆さんが、なんでまたひとりきりで、こんなところにいるのだろうか。はてさて、これは、いったいどうしたことなのかしら)
生まれてこのかた、せいぜい六十ぐらいになる村の老婆しか、正三は見たことがなかった。正三のまわりでは、六十まで生きるなんていう人は、とても稀だったのだ。つまり、老人といえば、遅くとも五十過ぎから六十近くくらいまでの年齢の人のことであったのだ。そんな高齢の人が身近なところにいなかったこともあるが、それ以上に老いた人と実際に接したり、その姿を目にする機会すらも少なかったのである。だがしかし、いまここに倒れ込んでいる老女は、そうした正三が思い込んでいた老人の固定概念を明らかに打ち破ってしまうような老人であった。どう見ても、それは、今までに見たことのあるあらゆる老人たちよりも、もっともっと年老いていたのである。まるで生まれて初めて老人というものを見たかのように、正三の目は大きく大きく見開かれていた。
(はて、しかしだが、いったいこの人は幾つぐらいなのだろうか。八十ぐらいかしら。もっとかな。そうだとすると、もしかしてもしかすると、百なのではないかかしら。これは、すごい!)
散々に田舎道の土埃をかぶって歩いてきたせいか、深い皺の刻まれた小さな顔は、黒みがかった土気色に汚れている。しかし、その顔には、何かに苦しんで倒れたような煩悶の色は、幸いなことに、ちっとも見られなかった。
(とても安らかな顔をしているな。うん、すごく穏やかな表情だ。あれ、でもこれは、もしや、もう死んじゃってるということなのか。いやいや、そんなことはないだろう。ただ寝ているだけなんだ。きっと、たぶん、そうに決まってる)
もう一度、今度は両手を口の前に添えて、筒状にして、老女の耳元すぐ近くで、少し大きめな声で呼びかけてみた。
「おーい、お婆さーん。大丈夫ですかー。起きてくださーい」

少し間があって、老女のかさかさな口元が、微かにもぞもぞと動き出した。
(よかった‥‥)
まだ息があることが分かって、正三は、ほっと安堵した。どうやら、しきりに何かを喋ろうとしているようだ。だが、まだ声になるまでではない。
「はい。大丈夫ですよ。ちゃんと、ここにおりますので、焦らずに、ゆっくり喋ってください」
すると、ようやく、何か言葉らしきものの断片が、老女の口からぽつぽつと聞こえてきた。
「そ、そこに、いるのは‥‥」
「へえ、このあたりの村のものです。あだしあ、正三と申します」
「あ、あだし、あ、あだし、の?」
「へえ、あだしあ、正三っていいますんで。この村のもんです。で、どうかしましたか?こんなとこに倒れてしまっておりましたけど。気でも失ってらしたんですかねえ。それとも、どこか悪いとこでも、おありなんでございましょうか?」
「あ、あ、あだしの、こ、しょ、少将と、あなた申されましたか?」
「いいえ、いいえ、胡椒ではないですよ。そんな胡椒だの醤油だのといったら、さんゆうてえになっちゃいますからね。ですから、何度も言ってますが、あだしゃあ正三ですって」
少し正三の言葉に東国の訛りがあったせいか、なかなかちゃんと言っていることが老女には伝わらない。
「ああ、まことに、あなたは少将なのですね。まあ、お互いに、何の因果でしょうか、とても不幸なさだめでございますね。やはり、あなたは、まだ西方へは行っていなかったのですね」
「へっ?それは浄土のことですか?そこに行ったことがあるかっての?いいえ、いいえ。まだ、まだ。まだ全然です。こう見えても、一度だって死んだことはありませんよ。まあ、それもこれもみんな、ナンマミダブツナンマミダブツのお陰ですけどね」
「なんとまあ、嬉しいことでしょう。こうして、わたしのところに。ああ、ようやく。ようやく。会いに来てくれたのですね‥‥」
「ええ、ええ、まあ、そうさね。今ね、ちょうどそこを通りかかったもんだから。まあ、それで、ここに来たってわけなんです。だから、まあ、わざわざ会いに来たってほどのことではないんだけどね。まあ、ずっと、この村のもんでございますから、わざわざ来たんではなくて、どっちかというと、ずっとまあ、この辺にいたってわけなんでございます」
まだ瞼を閉じたままの老女は、どこかまだ意識も定まってはいない。まるで、うわ言のように、何やらちょっと寝ぼけたような口調で、ぽつりぽつりと言っている。
「ああ、待ちかねました。でも、とても嬉しいです‥‥。さあ、もっと近くで、お顔を見せてください、少将、少将‥‥」
そう言って、ようやく、ゆっくりと目を開ける。傍らに膝まづいている正三の、汗と日焼けと畑の泥で黒々と脂汚れしている顔が、そこにはあった。
「さあ、しょ‥‥、もっと近く‥‥」
次第に、意識がはっきりとし始めてきているようだ。段々と、初めは揺らいでいた視界の像から、ぼやけが取れてくる。そして、ようやく目の前のものが、ちゃんと見えてきた。暫くの間、すぐ近くで自分の顔を心配そうに覗き込んでいる、なんの変哲もない首に薄汚れた手拭いをかけた百姓の若者、正三の顔を、老女は黙って不思議そうに見つめていた。

ようやく、老女は事態を飲み込むことができたようだ。そして、正三の助けを借りて体を起こした。今は、塚の上に置かれた、手頃な大きさの石の上に腰掛けている。
「わたくし、もう長いこと行くあてのない旅をつづけているものです。俗世をさまよう、哀れなる老媼でございます。このあたり、たしか、かつて在原業平様も歩かれた道ではないかと、ふと、そう思いあたりました。いつの間にか、その足跡を辿るように、この足が何かに引き寄せられて、こちらへと参って来てしまったのです」
「はあ、そうですか。そうですか。どこからこられたのか、ちょっと、よくわからないんですけど。見たところ、たいそう長いこと歩いてこられたようですねえ」
「つかぬことをお尋ねいたしますが、もしかして、ここは、みよしの、という土地ではありませんか?」
「いいえ、このあたりは、フシマと申すんですよね。えっと、よしのっていうのはねえ、ここからもう少し先に行ったとこになりますね」
「そうでしたか。でも、かつて若かりしころに、わたくし、ここに立ち寄ったことがあるように思うのです」
「おお。なんとまあ。それは、どれくらい前のことになりますか?」
「もう随分と昔のことでございます。おそらくは、まだ、あなたが生まれるずっと前のことでしょう」
老女は、じっと目を閉じて、記憶の糸を手繰っている。
「風に吹かれて、おもむくままに、この見晴らすかぎりの広い草っ原の野辺を、ひとり歩いて参りました。しかし、あるとき気がつくと、いつの間か、どこか見覚えのある景色が、わたしの眼前に、ありありと広がっていたのです。なだらかな丘をのぼる細くひなびた坂、高くそびえる武蔵野の勇壮なる木々、いにしえより人が行き来するものものしき大路。これらすべてが、昔の日に見たままであったのございます。そうした景色や人や物やらを眺めて歩いているうちに、まるで何かに導かれて、ここに、この場所に、いつしか来てしまっていたのです」
「では、この塚、ごすいの塚に、以前にも来られたことがあったのですね。これは、古くからの言い伝えがある塚なんですよ。ええ。確かに、おっしゃる通り、この塚には、ある種の人々を惹きつけてしまう、何か不思議な力があるようなんですね。もしかして、そうした、この塚にまつわる噂話かなんかを、あれやこれや何処かでお聞きになって、ここを訪れたのでは?」
「いいえ。何も知らずに。ここに来ました。ただただ、ふらりふらりとここまで来てしまったのです。そう、そして、ここが、とても昔懐かしい場所だと気がついたら、なぜだか、すごく心休まる気分になりました。わたしにとって、ここは、とてもよい思い出のある土地でしたから。まるで、自分の家に戻ってきたような、ようやく帰るべき場所に帰ってきたような。そんな心持ちがしたのでございます。ここにたどり着くため、そのために、ずっとずっと長い旅を続けてきたのではないかと。そんな不思議な気さえしてくるようで。でももう、ただただ、ひどく歩き疲れてしまっておりまして、そのうちに頭の中が朦朧としてまいったのです。そして、もはやこれ以上は、一歩たりとも動けなくなってしまって‥‥。この美しい緑の草の上で、しばらく身を休めようと思い、この草臥れた体をここでこごめました。その途端、ばったりと倒れ込んでしまったようなのです」

「はあ、そうだったのですか。さぞや、お疲れのことだったのでしょう。どうですか、もう、お体の調子は、少しはよくなられましたか?」
「はい。そして、わたくし、昔、ここで飲んだ、とてもおいしい水のことを、今でもよく覚えているのです。冷たく清らかで、まるで体中にじわりじわりと染み渡ってゆくような、不思議な深い滋味のある水でした。あの水の味だけは、忘れようにも忘れられないのです。とても、おいしい水でした」
「ええ、そうでしょう、そうでしょう。それこそが、古い言い伝えにもある、知る人ぞ知る水なのですから。大昔に、ここで、とても美しい旅の娘が、その水を飲んだそうなのです。そして、その若い娘は、ここの水を、たいそう気に入ったそうで、もっと飲みたがったと言われております。すると、それを聞いた村中の男という男が、たまげるほどに美しい娘を間近で見たいと思って、みんながみんな井戸で水をなみなみと汲んできては、ここにもってきたらしいのです。汲んできた水を、そのきれいな娘に手渡ししたいという一心で。まあ、わたしとしても、その気持ちは、分からねえでもねえですけどね。それで、この塚の前に、ばーっと男たちが長い行列をなしたそうなんです。だけれども、ものにはやはり程度というものがありますんでね、娘が実際に飲むことができたのは、せいぜいのところ椀に三四杯ほどだったらしいんですけどね‥‥」
「やはり。やはり、そうでしたか。ここは、やっぱり水で知られる土地だったのですね。ああ、できることならば、また、そのおいしいお水を所望したいのですけれども、今ここで、少しばかりいただけるでしょうか?」
「大昔から、まあ、ちっとも水には変わりがありませんからね。ですので、その言い伝えの頃のまんまですよ。きっとね。では、しばらく、ここで待っていてくださいな。今すぐ汲んで、ここにもってきますんで」

飛び上がるようにして立ち上がり、塚の上から急いで駆け下りた正三は、そのままばたばたと走って、まずは家へと向かった。そして、土間の台所の端に置いてあった手桶と椀をひとつ、荒っぽく鷲掴みにする。
何か妙な物音がしたので、正三の母親が丸くなり始めている背を伸ばして顔をあげた。すると、手に桶と茶碗を掴んで、帰ってきたばかりの正三が、開けっぱなしの戸口から踵を返してまた出かけようとしている姿が見えた。
「おやまあ、正三かい。ご飯、ほれ。ほれ、飯、飯だよ。これ、食べていかねえのか?」
いつになく慌てふためいている様子の正三に、母親が少々びっくりしつつも、ちょっと落ち着かせようと思い声をかける。
「あ、ああ、かあさま。おったのか。ま、ここが家だから、おって当然だがな。め、め、め、飯は、あ、あ、あ、後で、帰ってきてから、ゆっくり食うことにするわ。今な、そ、そ、そこんとこにな、行き倒れてた人がいたからな。い、い、い、急いで、助けなくちゃなんねえんだわ。冷てえ井戸の水でも飲ませりゃさあ、ちっとはわかくなるだろうから。今、持ってってやろうかと思って‥‥」
「そうかい。そうかい。わかったよ。わかった。畑仕事の後は、人助けかい。誠に忙しいことじゃのう。じゃ、まあ早いとこ、行っといでな‥‥」
正三は、母親の言葉もろくに聞かずに、そのまま振り向きもせず、ばたばたと走っていってしまった。
「いやだねえ、まったくもう、あんなに急いじゃってさあ。あ、あれ、これはもしや、ただごとではねえのかもしれないぞ。いつもは、馬鹿がつくほどのんびりしてる正三が、あんなに焦って出かけるなんて。滅多にあることじゃない。もしかすると、あれかい、若い可愛らしいおなごが道端に倒れてたんじゃないのかい。だから、あんなにそわそわそわそわしてるんだろう。いやあ、そうなのねえ。まあ、正三だって、そろそろ年ごろだからな。そんなことがあったって、何もおかしくはねえのさ。しかし、いやだねえ、正三ったら。あんなにあからさまに興奮しちゃってよう。本当にもう、おとうに似て、根が助兵衛なんだねえ。いやいや、それとも、もしかして、もしかして、あの小野小町ってのが、また来たんじゃないかしら。あー。いやいや、そんなことは、そうあることじゃないからね。あるまいよ、あるまいよ」

精一杯、正三は走っていた。可能な限り。しかし、手桶いっぱい汲んだ井戸の水を、こぼさぬように走るのは至難の技であった。思いきり走れば、じゃばじゃばとこぼれてしまう。そうなれば、また水を汲みなおしに戻らなくてはならない。それでは二回分の時間がかかってしまう。そう思うから、水桶を運ぶ正三の足取りは、自然とゆっくりになる。全力で走る早さの半分にも満たぬほどの走りとは言えぬような走りであったが、正三の気持ち的には精一杯に走っていた。
しかし、やっとのことで塚に戻ってきてみると、老女はまた頭をがくりと下げていて、ぐったりとしていた。石に腰掛けたままの姿勢で、ちょっと待ちくたびれてしまったようだ。
再び、耳元で両手を筒にして声をかけてみたが、今度はちっとも起きる様子がない。
(まあでも、今度は井戸から汲んできたばかりの冷たい水があるからね。こっちも下手に慌てたりはしないのよね。これさえ口にすれば、もしかするとぱっと気がつくんじゃないかな)
近寄って、しゃがみ込み、前屈みになってへたり込んでいる老女の上体を、背中を支えるようにしてぐっと抱き起こした。そのままの体勢で、椀に注いだ水を、少しだけ開いたままになっている口に近づけてゆく。ひび割れだらけで、かさかさに乾いている唇だった。そこに、そっと椀を押し当てて、少しずつ水を、老女の口の中へと流し込んだ。

持っている椀を少しだけ傾けて、水を流し込む。少しだけ口に含ませて、椀を口から離す。すると、老女は静かに口を閉じ、その水をゆっくりと飲み込んでいるようだった。再び、呼吸のために老女の唇が、微かに開いてきたところで、また椀を近づける。そこに、また少しずつ少しずつ水を流し込む。しばらく、老女が口の中の水分を、全て飲み込んでしまうのを待つ。そうした作業を、何度か繰り返した。
するとどうだろう、井戸の水を飲ませたことが、正三が思った通りに功を奏したようだ。先ほどのように、また老女の口が微かに動きだしたのだ。そして、うわごとのように、また何かを喋りはじめた。
「ああ、今度こそ、本当に会いにきてくれたのですね。なぜ、そんなに、わたしを待たせるのでしょうか‥‥」
「お、お、お待たせいたしました。ご所望された、村の井戸の水です。どうやら、またさっきと同じ夢の続きを見ておられたようですね。さあ、この冷たい水を飲んで、早く正気を取り戻してくださいな。さあさあ、もっともっと、たんと飲んでくださいな」
そう言いながら、手にもった椀を、老女の口に近づけて、ゆっくりと水を含ませる。
「とても、おいしい。おいしい水です。こんなに澄んだ清い水は、初めてですよ」
そう言って、老女は、今度は自分から唇を椀に近づけるようにして、こっくりこっくりと水を飲み始めた。

一口、二口、井戸の水を飲み下し、乾いた喉を潤し、体の中に水分が取り込まれてゆく。水を飲むごとに、少しずつだが、目に見えて老女の佇まいには変化が起きていた。
どこか虚ろな面持ちで虚空を見つめるばかりであった白く濁った瞳に、うっすらとだが輝きが戻ってきていた。そして、その痩せ細り萎びたようであった体にもまた、段々と生気が増してきているようである。まるで、長い間ずっと待ち望まれていた恵みの雨が、ざんざと降りしきり、旱魃で乾涸びきってしまっていた大地を、一斉に元通りに蘇らせてゆくかのような変化であった。
萎びてしまっていた肌にも水分が行き渡るようになったのか、ふっくらとした張りが出てきている。全身が、少し前までは土気色した、皺と弛みのあるざらざらの肌であったのに、今やもう、みずみずしい肌の色を取り戻しつつある。見るからに女性らしさを取り戻している、とても滑らかな肌なのである。
あの井戸の水を飲むことで老女の体全体に、生き生きとした肉感が復活してきているのだ。あのしなしなであった老女のどこに、こんなにもあふれかえるような生命力が隠されていたのであろうか。
いつしか老女は力強くごくごくと椀の水を飲み始めている。

正三の手の中にある素木の椀に注がれた水を、その人はもうすでにあらかた飲み干してしまっていた。
「あっ、少々お待ちを。今すぐに椀に汲み直しますので」
「しょうしょう?」
手桶の水を椀で掬い取り正三が差し出すと、今度はもう自分の手で椀を持って、そのまま口に運んで飲み始める。
ふっくらとしたやや厚みを増してきている見るからに可愛らしい唇には、先ほどまでの酷いひび割れやかさつきの跡は、もうまったく見られない。
しなびた芋のように皺だらけであった手や足にも、もはやその肌に弛みや凹凸などというものは全く見当たらず、白くすべすべとしていて、とても健やかな見た目である。
小さな顔もほっそりとした首筋も、みるみるうちに澄み切った真っ白いみずみずしい肌へと再生してゆき、見るからに美しいのだ。
白髪だらけであった灰色にくすんだ見すぼらしい頭髪も、今では黒々としていて長く豊かに結われ、しっとりと艶めいている。
それは、正三のほんの目の前で実際に起きていることであった。ぐったりしていた老女の背中を抱いて支えていた正三は、その体勢のまま老女がみるみるうちに変化してゆくことに驚いて、もはや身動きひとつできなくなってしまっていた。
(喉の渇きを癒すために井戸の水を飲み続けている、この若く美しい女の人は、いったい誰だ。ここで倒れていたお婆さんのために、井戸の水を汲んできてあげたはずだったのだけど。この人は、本当にさっきまでの、あのみすぼらしい老女と同じ人なのか。もしかすると、最初から、渇きを癒すのが目的ではなく、元々の自分の美しさを蘇らせるために、この人は井戸の水を飲みたいといったのではなかろうか)
あたたかな女の体温が、薄い着物越しにも微かにしっとりとした感触と共に伝わってくる。薄い布を隔てただけであるから、正三の手の平は、ほぼ直接に女の肉体そのものに触れているようなものであった。その生めいている背を支えながら、もはやどこを見てもちっとも老いてはいない老女の体と白い肌を、正三は、じっと見つめ続けていた。

「本当に、とてもおいしい水ですね。もう一杯、いただけますか?」
ぼんやりと、正三は女の白い肌に見蕩れてしまっていた。はっと我に返って声のする方を見ると、目の前にこれまでに見たこともないような美しい女が、空になった椀を差し出していた。
「えっ。あっ、はい。み、み、水ですね。ええ、はい。い、い、今すぐ、はい、お運びしますんで。ああ、何だかぼんやりしちゃってました、すいません。すいません」
なぜか、正三は、ひどく動揺してしまっていた。何とか落ち着こうとするのだが、そうすればするほど、かえって余計に慌ててしまう。もはや、いつも持ち慣れている木の椀であっても、ちっとも手につかないのだった。それくらいに、すぐ目の前で、普通ではありえないようなことが起きていた。指先までぶるぶる震えているのか、ちっとも力が入らず、何度も椀を落としそうになりながら、どうにかこうにか手桶から椀に水を注ぐことができた。
「さすがは、噂通りの名水でございますね。これほどまでにおいしい水には、全国どこを探しても、なかなか巡り会うことはできませんよ」
とても美しい女が、すぐ目の前でゆったりと話をしている。正三は、何が起きているのか、まったく理解できていなかった。
「そうですか。誠に、それほどの水でございましたか。まあ、とは言っても、すぐそこの井戸の水なんでございますよ。ここいらでは、いつも普通に洗い物やら畑の野菜の水やりなんかに使ってる水です。そんなものでもよければ、あたくし、いくらだって汲んできますんで。気兼ねなく言ってください。すぐにまた、新しいのを持ってきますので、はい」
水の入った椀を受け取った女は、今度は実にゆっくりとそれを、やや勿体を付けるかのような動作で、艶やかな微かに微笑みを浮かべている唇に運んだ。そして、こくりこくりと軽やかな音を立てるように飲み始める。

抜けるように白い、みずみずしく艶かしい肌は、正三の視線をとらえて離さなかった。椀を手渡す時、少しだけ正三の手に指が触れた。まだ、女のやわらかな手の感触が、しっかりと残っている。微かな温もりとしっとりとした肌触り。正三の手は、ありありとその感触を記憶していた。畑仕事ばかりしている自分の手とは、同じ人間のものとはちっとも思えぬような、まるでつきたての餅のようにふっくらとしてやわらかな、とても品のある手であった。正三は、手と指が触れ合った瞬間を何度も思い返し、あのふわふわな感触を自分の手の上に何度も再現してみるのだった。それだけでもう、びりびりと雷にでも打たれたかのように、強い衝撃が体の中を駆け巡るのを感じた。
ほんのすぐ目の前で、見たこともないような驚くほどに美しい女が、桃の花のような可憐なで小さい唇を、ふんわりそっと椀につけ、水を飲んでいる。自分が汲んできた水を、とてもおいしそうに飲んでいるのである。
その姿に、正三は、ただただ見蕩れるばかりであった。

「あっ、そう。あれを、そう、やっと思い出したんです。今、ちょうど。ほら、あの、さっき話してた、あれのことを。えっと、あの、この塚の、古い言い伝えのことです。その昔にここに来て水を飲んだ若い娘というのは、たしかそう、小野小町っていったと思うんです‥‥」
「はい。おっしゃる通りです。その小町とやらが、またここに参っておるのです」
「なんでもねえ、聞いた話によると、その小野小町っていう女の人は、なんかもう絶世の美女だったらしいんですよ。それで、京の都でも噂になるくらいの、飛び抜けた美人だったそうなんです。ええ、はい。しかしね、あたくしが思うにはね、もしかすると、たぶんね、あなた様の方が、その小野小町って人よりも、何倍も、何倍も、お美しいんじゃないかなあって思うんですよね?」
「よもや、よもや、そのようなことは、ございませんよ。何を隠そう、このわたくしこそが、その小町なるものなのですから。つまり、小野小町なる女人。その京女が、わたくしなのでございます」
「へっ、あなたが、その、言い伝えに出てくる、お、小野小町であると、そういう意味のことをおっしゃっておられるのですか?いやあ、いくら何でも、そんなおかしな冗談を言ったりしてはいけませんよ。いやいや、そんなの冗談にすらなんないです。いくら、少しばかり小町よりもお美しいからって、そんな人のことををからかうような真似しちゃ、だめですってば。普通に考えれば、誰にだってわかることですから。そんなことは決してありえることではないですよ。だってね、その言い伝えの美しい娘とやらが、ここで水を飲んだってのは、わたしのおっとさんやおっかさんが生まれるよりも、もっともっとずうっとずうっと前のことだって聞き及んでおりますからね」
「ここのおいしい水が、少しも変わらず、あの頃のままでありましたので、とても嬉しい気分になりました。この不思議な水が、懐かしい思い出をみなすべて、あの頃と少しも変わらずに、今ここに呼び覚ましてくれたようにも思えます。まるで、あの日に舞い戻ったかのような気分がしていますから。何もかもが、もう、本当に、何もかもが、あの日のままのようなのです。ふわりふわりと、身も心も浮き立ってしまうような。見るものすべてが、美しくきらきらと光り輝いていて、その中でひとり少女のように跳ね回ってしまいそうなのです。あの日のように。いいえ、気持ちはもう、跳ね回ってしまっているのですよ。本当に。不思議なほどに、そう感じられるのです。これが、この全てが、夢ではないとよいのですが。もし、夢ならば、いつまでも覚めないでいてもらいたい。ああ、そう、本当に、心から、そう願わずにはいられないのです」
再び、女は手に持った椀に口をつけて、清らかに澄んだ水を静かに飲み始めた。

これほどまでに何から何まで全てが美しいと感じられる人間を見たのは、生まれて初めての経験だった。しかも、こんなにも間近に、その女性を、その女の美しさを、真正面から見つめてしまっているのである。正三は全身の血が熱く煮えたぎりながらものすごい速さで駆け巡っているのを感じていた。
女の透き通るように真っ白な肌は、今までに正三が見たどんな雪よりも白かった。
(ここにいるのは、本当に人間なのだろうか。こんな眩しいくらいに綺麗な人間は見たことがない。何かの間違いなのじゃなかろうか。人というものは、こんなにも美しいものだったのか。こんなに美しい人がいるなんて、全くもって想像すらしたことなかった)
水を飲んでいる女の姿が、あまりに美しくて、畑の土に塗れている自分の汚れた姿が、とても哀しくなった。その眩しいくらいに白い肌に、何度も正三は息をのんだ。いや、息をすることさえ忘れて、じっと見つめ続けていたのである。胸が苦しくなり、頭がくらくらしてきた。それでも、じっと見つめ続けていた。
「それほどまでに、穴が開くほどに見つめられていては、水を飲むことも、気安くできぬではありませんか」
やや恥じらうように、女は優しく正三に微笑みかけながら言った。その微笑みひとつで、正三の心はばらばらに砕けてしまうかのように掻き乱されるのであった。
(こんなにも美しい女性を、こんなにも近くで、ずっと見つめ続けていたりなんかしたら‥‥。わたしは、もう元のままの自分ではいられなくなってしまうのではないだろうか‥‥)
真っ白な滑らかな肌のほっそりとした喉元。その部分だけが、水を飲み込むたびに微かに上下していた。老女が着ていた、ぼろぼろな汚れた着物には不釣り合いな、若い女の生気にあふれる肉体が、薄汚れた薄い布の下に、湿めやかな若々しい芳香とともに息づいているのが、ありありと感じられた。
(この美しい人のそばにいるのは、本当に自分なのだろうか。これは、本当は、誰か違う人が見ている景色なのかも知れない。はて、では、その人というのは、いったい、誰なのだろう。わたしは、誰だろう。先ほど、この人が言っていた通り、少将とやらなのだろうか。正三ではなくて、わたしは、もしかすると、ずっと、ずっと、本当は少将だったのかも知れない。いやいや、わたしは、おそらく、ずっと、ずっと前から、自分でも気づかぬうちに、少将だったのだろう。そのことに、わたしは、やっと今ここで気づくことができたのだ。正三とは、少将のことだったのだ。今、それに、ようやく気がついた‥‥)
「ああ、こうして、また無事に会うことができたのですから、もっと近くで、そのお顔を見せてくださいな、さあ」
美しい女が、再び正三に微笑みかけてきた。
(これは、やはり、本当に、あの小野小町なのかもしれぬ。こうして、ここで、わたしたちが会うことは、ずっとずっと前から決まっていたことのような気がする。これは、まさしく、運命なのだ。運命の出会い、いや運命の再会なのだ。そう、この人はまさしくわたしにとっての運命の人なのだ。いや、違う。何かおかしいぞ。これは、実は、すべて現実のことではなく、夢の中の出来事なのではなかろうか。きっと、夢の中で、正三と少将がこんがらがってしまっているのだ。本当は別々の人なのに、今この夢の中だけでは同じ人なのだ。ならば、夢ならば、夢ならば、ずっと覚めないでいてほしい。ああ。このまま、いつまでも。いつまでも。夢のままでいてほしい。こんなにも美しい夢は、今までに見たことがない。とても幸せな気分だ。ああ、それにしても、それにしても、この人は、本当に美しい)
「ああ、わたしも、久しく、久しくお会いしたいと願っておりましたよ、少将。誠にお懐かしゅうございます」
(ああ、そんなに潤んだ生めくように綺麗な瞳で、わたしを見つめないでください。そのような目で見られると、気がおかしくなってしまいそうです。そうだ。わたしは、もうおかしくなってしまっていて、正気を保てていないのではないか。だから、こうして、現実とは思えぬものを、実際に見てしまっているのだ。それに、今ここで自分のことを少将だと本気で思い込んでいしまってる。そんなことを考えるのは、まさしく正気を失っているからなのではないか?)
正三の思考は、次第に錯乱し始めていた。
(ああ、そうだ。ここは、ごすいの塚だ。そうか、そうだったのか、もしかすると、この塚の名前に、何か秘密があるのかもしれぬ。ごすい、ごすい。ああ、そうか、ごすいとは、五吸いのことではないか。しからば、この塚にて、小町の唇を、五度吸わなくてはならぬということなのだろう。そう、五度吸うから、ごすいなのだ。あ、いやいや、待てよ。五度吸うと、この夢から、すっかり覚めてしまうということなのかも知れない。ということも、十分に考えられるな。ああ、ここで、そんな風に、いとも簡単に、夢から覚めてしまっては、何にもならぬ。いやいや、困った。どうしたらよいのだろう。これは正しい推理なのか、正しくないのか。五度吸ってよいのか、よくないのか。悩ましい、悩ましいぞ、これは大問題だ。ああ、そうか、それでは、五度までは吸わずに、四度まで吸って、ひとまずそこで止めておけばよいのではないか。それならば、たぶん何も起こることはなかろう。そう、そうだ。それがよい。五度までは吸わないように、わたしがしっかり注意していればよいのだ。それだけのことなのではないか。そうだ、そうだ、そうなのだ。変にあわてることなどなかったのだ。ならば、では早速。一度目の口吸いから、ま、ま、ま、参るとするかな‥‥)
正三は、女の眩しいくらいに真っ白な肌の美しさに、まるで吸い込まれてゆくかのように、じりりじりりとにじり寄ってゆくのだった。
女の白い肌が、女の美しい顔が、近づけば近づくほどに、光り輝いて、眩く見えてくる。
顔を寄せれば寄せるほどに、女の体は、白く、眩しく、魅惑的に香った。
「ああ、少将。この水を飲み終えるまで、しばしお待ちください‥‥」
そう言う女の顔が、真っ白に輝いていた。いや、もはや女の全身の肌が、白く眩しく、無数の光の粒のようになって、発光していた。
正三の視界は、隅から隅まで、真っ白になった。沢山の白い光。それ以外は、何も見えない。
眩い光に包まれた、小野小町と少将が、ゆっくりと体を重ね合わせようとした瞬間。ふたりは、みるみるうちに白く発光する光の玉のなかに、ずざざざっと包み込まれてしまった。

白い光が、ひときわ強く眩しく光を放ち、細やかな泡の粒が、大きな発光体の全体にふつふつと沸き立った。それが、にわかに空中にふわふわっと浮き上がってゆく。だが、それは浮遊した途端に、まるで蒸発でもしてしまったかのように、ぱっと掻き消えたのである。眩しい光の玉は、すぐに見えなくなってしまった。光を放っていた妖艶なる若く美しい女の肉体は、すうっと残像すら残さずに、そこから消えてなくなっていた。じりじりと身を寄せていた正三は、消えた女の体の上に突っ伏すように、どさりと生い茂る緑の草の上に倒れ込んだ。そして、そのうつ伏せの体勢のまま、腰掛け石の前でぴくりとも動かなくなってしまった。

あだしの

そこは、どこかの港だった。目の前には、濁ったような深く濃い群青色の静かな海が、見晴らすかぎりに続いている。この海を見れば、誰でもここが大和の国のどこかの港でないことはすぐにわかるだろう。幾つもの細く長く海に突き出している桟橋に、沢山の船が葡萄の房の葡萄の実のように停泊している。
目を瞑っても、同じ港が見える。眩しい光に照らされて、景色が瞼の裏に焼き付いている。いつかの夢で見た景色が、この海の景色であり、この港の景色であったことを、ようやく今になって気がついた。ずっと前から、ここにいたような気がする。わたしなど、ちょっと通りがかっただけの旅のものであるのにもかかわらず。なぜだか、何度もここに来たことがあるような気がするし、ひどく当たり前に初めて来たような気もしている。
実際のところを言えば、ここには、昨日の夕刻に着いたばかりで、間違いなく初めて来た港なのである。しかし、これまでに幾つもの同じような港を、この港に着くまでに通り過ぎてきたせいで、あまり始めて来たような気がしないのも確かなのである。南方の延々と細長い半島の沿岸に沿って、そこかしこに似たような港があって、そのいくつかに立ち寄りながら、そこでこうして見晴らすかぎりの海をいくつもの港で眺めてきたのだった。そんな船の旅が延々と続いて、遂にこの港に辿り着いたのである。
どんな港でもそうだが、いつだって港というものには、独特の活気が満ちている。朝だろうが、夜だろうが、ひとたび港に船が到着すれば、沢山の人や物が、船と港の間を行き交うのだ。そのごちゃごちゃと忙しない動き、人や物の移動から生じる、独特の活気こそが、港なのだともいえる。
船と港の間を行き交うのは、何も人や物だけではない。近い異国や遠い異国の摩訶不思議な動物や鳥たちも、この港という場所には、ごく当たり前のように出現する。到着した船から下りてくるものもあれば、その船に新たに乗り込み積み込まれてゆくものもある。
船と港の間に人や物や動物たちが行き交い出すと、その周りにさらにそれを目当てにした人が群がりだす。港でしているちょっとした物音でも聞きつける特別な能力があるのだろうか、何か船が運んでくる異国の匂いを嗅ぎつけることができるのか、周辺の集落あたりから続々と人や物や動物たちが、いつの間にかわらわらと集まってくるのだ。よって、いつだって、こういう港という場所には、独特の活気が満ちるのである。
徒野少将は、ぼんやりとひとりで、ざわめく港に立ち尽くしていた。自分がこれから乗り込む予定の船の出航の準備が整うのを、静かに待つ合間に。
港の近くの宿屋が営む待合所を兼ねた茶店の小僧さんが、もうすぐにでも船に乗り込めると大声でふれまわっていたので、のそのそと外に出てきたみたのだけれど、あまりの陽射しの強さに数歩を歩いただけで、日陰で涼しかった待合所がまた恋しくなってしまった。そのうえ、肝心の船の前までやって来てみると、まだちっとも乗り込めそうな気配はない。慌ただしく次の航海への準備が進められている。のこのこと乗客たちが乗り込める雰囲気ではまったくない。だがしかし、こういうことというのは、港という場所においては、よくあることなのだ。ここでは、全てが全て人の都合だけで動いているわけではないから。なすすべもなく人がただただ状況に従うしかない場面の方が、どちらかというと多いのである。
強い日差しが照りつける、港の木製の質素な桟橋近くの砂浜の上で、ずっとその時がくるのを待ち続けていた。独特の活気に満ちた港の片隅で、じっと固まって、石像のように動かずに。
広々として平らな砂浜には、ところどころに乾いた白っぽい砂の下にある黒々とした湿った砂を露呈させている。この黒い砂は、ちょっと歩くだけで、ばさばさと足にまとわりついてくる。徒野は、素足に会安で若い娘に貰ったサンダルを履いていた。待合所から桟橋の近くまで、ほんの少しの距離を歩いただけだったが、もう脛の上の方にまで、びっしりと黒い砂が飛び散っていた。
もっさりと雨水や海水を多く含んでいる、黒く重い砂浜は、日中の強い陽光に照りつけられて、むんむんと湿気を立ち上らせている。何も遮るもののない日向に立つ徒野も、じりじりと熱い砂の上で焼かれ蒸されている。そんな気分になっていた。
徒野の脚にこびりついていた、黒い湿った砂は、日が照りつける砂浜に立ち尽くしている間に、いつしかかさかさに白々と乾いてしまい、手で払うまでもなくぱらぱらと砂浜の上に落ち始めていた。
陽光の熱が染み込んでくるのか、全身の皮膚が熱を帯びてきている。ただ立っているだけで、何も体を動かしていなくても、じっとりと汗が吹き出してくる。むせかえるような熱気と、湿った大気の匂い。風は、微風で、それが体に触れると、かえって大気の熱に撫でられているかのようで、さらに暑苦しい。汗をかいた肌に、まとわりついてくるような熱い空気の塊が港をゆっくりと横断しているのだ。
それでも、立ち尽くす徒野の周りには、何をそんなに動いたり動かしたりする必要があるのか分からないが、人や物や動物たちが、ずっとせわしなく行き来している。ただでさえ暑いのに、右も左も人や物や動物たちであふれかえっている。あちこちで船の出航準備が進められていて、港の暑苦しさは最高潮に達しようとしていた。
先ほど、大きな箱を抱えて船から降りてきた人夫が、また同じような箱を担いで船の中に幾つもせっせと運び込んでいる。今度は、茶色い毛をした山羊が船から降りてきた。すると、代わりに白い毛の山羊が船に乗り込んでいった。大きな琵琶や太鼓らしき楽器を抱えた支那風の楽団が船から降りてきて、今度は喇叭や小さな琴のような楽器を携えたペルシャ風の楽団が船に乗り込んだ。
「この暑さの中で、よくもまあ、あんなにせせこましく動き回れるものだね。見ているだけで、こちらの目が回ってしまいそうだ。ああ、しかし、こんなに日が照っていては、焼けて焦げてしまいそうだ。この酷い暑さ、酷い気候、まったくどうにかならないものかなあ。ただただ、ひたすらに目を瞑って、心穏やかにして堪えるしかないというのだろうか」
どちらを向いても、人と船と荷物ばかり。それ以外のものは何もない。あまり勝手のよくわからぬ異国の港と、ただだだっ広いだけの砂浜。その奥の方の一角には、ひょろひょろした一本の幹だけからなる背の高い木が、ほんの少しまばらに生えている。何本もの真っ直ぐな裸の幹が生えていて、一応は木立にはなっている。だけれども、とても高いところに少しだけ葉が茂っているだけなので、その根本にはあまり日陰らしきものが見当たらない。
そろそろ真昼に近づいているのだろう、太陽は、もうちょうど頭の真上近くにまできている。もはや砂浜の上に、どこを探しても影らしい影はなかった。徒野の足元には、足と足の間に小さな影のなり損ないのようなものが、微かにあるだけであった。蒸し暑い港の喧騒の中に、ひとり立ち尽くし、あふれかえる光と熱に気圧されて、徒野は己というもののどうしようもない小ささを、あらためて実感していた。
「あー、早く帰りたいなあ。本当にもう。しかし、何でまた、わたしは、こんなに遠くにまで来てしまったのだろう。気がついたら、こんな南の国の港に着いていたのだけど。何か、この港まで来なくてはならぬ用事が、はたしてわたしにようなものにあったのだろうか。そんな肝心な旅の発端のことすらも、もはや思い出せぬのだ。おそらくは、ここまでの旅そのものに、何か大きな意味があったのだろうなあ。ずっと同じような景色が続く船旅で、何も特段思い出すような重大なことはなかったのだけれど。昨日の夢の中で、何者かに、突然に、もう戻ってくるようにって告げられた。だけど、ただ何もしないで船に乗っているだけで、そのまままた帰るなんて、なんかちょっと肩透かしな感じがしないでもない。でも、旅がようやくここで終わるのかと思うと、やっぱり嬉しい気分にもなるね。一応の旅の終着点にまでは到達したのだからね。しかしまあ、やっと帰れると思って喜び勇んでいたというのに、こんなところで、こんなにも待たされるとはなあ。復路も幸先が悪いね。ああ、そう考えると、どうやら、わたしの旅はまだまだ終わってなどいないようだ。いや、ことによると、ここからが本当のわたしの旅の始まりなのかも知れない。そうか、まだまだ、本当の旅の準備が終わったばかり、ということなのかも知れないな‥‥」
徒野は、ぼんやりとあれこれと思いつくままに考え事をしながら、活気に満ちた港の様子を眺め続けていた。そして、周囲にいる人々が、それぞれにみな異なる特徴をもっていることに気がついた。驚くほどに、本当に様々な姿形の人がいる。自分によく似ているような姿形の人は、どこを探しても見当らない。もしいたとしても、よく見れば、それは明国やら新羅国から来た人であったりする。彼らは、みな遠くからはるばるこの港まで仕事をしにやって来ているようだ。出稼ぎ商人なのだろうか。何の違和感もなく、港で働く人々のなかに溶け込んでいて、懐から取り出した小さな帳面に書かれていることと品物をしげしげと見比べたり、大事そうに物を運んだり、ずっと忙しそうに動き回っている。肌の色の浅黒い、顔の彫りが深い人々がいる。もっと肌が黒々としていて、ほぼ褐色の隆々たる体をもつ人々もいる。顔の彫りが深く、鼻がとても尖っている人々。金色の髪を生やしている人々。馬の毛のような茶色い髪の人々。顔の赤い人々。目の色が青く澄んでいる人々。腕や足、胸にまで、もさもさと毛を生やしている人々。蜘蛛のように手足のとても長い人々。黒い眼帯をつけてすきっ歯で四ヶ国語をぺらぺらぺらぺら捲し立てている人。本当に、さまざまな人がいた。そして、それら全ての人が、この港の活気を作り出している一部なのである。とても興味深い。
「ここでは、わたしなどは、どこかよく分からぬ異国からやってきた、全くの余所者なのだなあ。つくづくそう思うよ。しかし、余所者には余所者なればこその、よさというものもある。周りが自分と同じような人々ばかりの場所では、気づきもしないようなことを、こういう場所では、思いもかけずに気づくことができたりもするからだ。ここでは、わたしは、徹底的にひとりだ。だが、周りの人々とは全く違うわたしが、ここにひとり入り込んでいることで、ここには、いつもとは違った、全く新しい調和が生じているのではないだろうか。この港とて、いつもと同じ港ではないのだ。ここにいる誰ひとりとして、わたしのことなど全く気にも留めていないようで、実は、ここにいる誰もが、わたしのことを、無言のうちに受け入れて尊重してくれているのである。放っておきながらも、ちゃんと認めている。とても弱くだが繋がっていて、それぞれの個がその場その場の全体をなしていて、この港の情景を形作っている。これは、どこを見ても同じような都人ばかりがいる京の都では、どうやったって知ることのできない観想であるだろう。まさに異邦の人ならではの、実に得難い経験なのである」

あれこれ考えて、何かわかったような気分になってきた徒野は、どこか満足そうに顔をあげて、照りつける太陽に目を向けた。そして、すぐにまたぎゅっと強く目を閉じる。瞼の裏側に、赤や白の小さい生き物のような細かい色彩の塊が、ちらちらちらちらと動き回っている。そして、しばらくすると、目の前には、真っ赤な血の海が広がっていった。赤々と燃えるような、強烈に発光する眩ゆい玉が、眼球にずんずんと迫って来る。それは、そのまま目の奥にぐりぐりと入り込んできて、徒野の頭の中いっぱいに膨れあがってゆく。目を閉じて、そんな妄想を、ひとりで楽しんでいた。そして、徒野は、自分自身が、その眩い光そのものになって、港の砂浜の上にふわりと浮かび上がり、禍々しく発光している様子を頭の中に思い描いてみた。
「もし、お取り込み中のところ、誠に相済みません。僭越ながら、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか。旅のお方よ」
目を閉じて港の上空にふわふわ浮いていると、傍らで、誰かの声がしたような気がした。この蒸し暑い土地には似つかわしくないような、実に涼しげな、とても透き通った声であった。すぐに、遠い京の都の若く美しい女御や女官たちの姿が思い浮かんだ。
(はて、あの美しいお方の名は、なんといったであろうか。ああ、何ということか、しばらく船の上にいたせいでもうすでに、ちっとも都のことを思い出すことができぬ‥‥)
「済みません。済みません。少々、お尋ねしたいことがあるのですが。お休みになられているところ、誠に相済みませんが」
どうやら、空耳などではなく、誰かに本当に話しかけられているようである。この誰ひとり知る人もいない港で、少将と名指しで呼びかけられるとは、予想だにしていないことであった。徒野は、先ほどから声がしていた方向に、陽に当たって少し汗ばみ紅潮している顔を向けた。
「はい。わたしに何か御用ですか?」
目をかっと見開いて見れば、初めは焦点が合わずにぼやけていたが、そこにまだ年若いほっそりとした僧がひとり立っているのが見えた。まるで支那の仏像のように端正な美しさをもつ少年であった。背中に大きな木製の笈を背負っている。
「はい。ひとつお尋ねしたいことがございます。つかぬことをお伺いしますけれど、徒野少将様とは、あなた様ではございませぬか?」
「はい。ええ、それは、まあ、ご存知の通り、わたしのことですが‥‥。あ、いや、あなた様とは、これまでにどこかでお会いしたことがござりましたか?」
「いいえ。初めてお目にかかります。わたくしは、アヌラダプラの寺から参りました。ヤナタと申します。少将様に是非ともお渡ししたいものがございまして、遥々ここまで訪ね歩いてきた次第であります」
「ほほう。それは、それは。とても遠いところから、ご苦労様でございました。今、ヤナタさんが申されていた、ここでわたしに渡したい品物というのは、その、今、そこに背負われてる、その大っきいやつ、うん、それ、それのことですか?」
徒野は、はるばる遠い地から少年僧がやってきていることを聞き、何やらただならぬものを予感していた。こんなにも遠方の、見ず知らずの土地の港で、初対面の僧から荷物を渡されるようなことは、滅多にあるようなことではない。徒野は、恐る恐るヤナタが背負っている大きな荷物を指差して尋ねてみたのである。
「はい。さすが、少将様でございますね。お察しの通りです。これは、中は卒塔婆石でございます。古くから、アヌラダプラの僧院に伝わる、石窟の奥に祀られていた、大変に由緒ある石です」
ヤナタは、早速背負った笈の中身に徒野が興味を示したことを、とても嬉しく思い、嬉々として荷物となる石についての説明をし始めた。
「なぜ、そのような石を、あなたがわたしに渡さねばならぬのですか?」
「それは、あなた様が、大変に水とゆかりの深いお方であるからでございます。観世音菩薩に選ばれた人物であると、僧院の阿闍梨が申しておりましたよ」
「さて、水ですか、あまり思い当たるような節は、ないのですけれど‥‥」
「少将様と水とを、強く結びつけることになるのが、この卒塔婆石なのではないかと思われます‥‥」
「そ、そういうことでしたか。では、わたしは、ここで、この石を渡されて、どうすればよいのですか?」
「はい。この卒塔婆石を生国へ持ち帰って頂き、武蔵国の浮島という土地に、古い塚がありますので、そこに新たにこの石を安置してもらいたい、ということでした」
「はて、武蔵国の浮島ねえ。そこまで、この石を運ぶのが、わたしの役目ということですね」
「はい。すごく簡単にざっくり申してしまうと、そういうことになります」
「もしも、わたしに、それが果たせなかった時には、どういうことになります?」
「あなたとあなたのお国に、大きな災いが降りかかることになりましょう。その塚には、ヤーナという大いなる水の神が封じ込められいます。神ではありますが、この世界ができたころからずっと生きながらえている荒々しい神です。力の差が大きすぎて、われわれ人間とは、なかなか共存することができません。かなり昔に、高句麗の高僧が、武蔵国まで出向いて、暴れ狂わんばかりになっていたヤーナを鎮め、塚の下に封じ込めたと言い伝えられています。阿闍梨によれば、そのヤーナが、再び地上に這い出そうとしている兆しが、どうやら近頃つとにあるようなのです。もし、封印されたヤーナが蘇り、積年の忿怒をもってして暴れ出したりなどしたら、このあたりの土地という土地は、全て破壊し尽くされて、それこそ水の底に沈んでしまうかもしれません」
「それは、それは、とても大ごとでございますね。しかし、そのような大役、わたしのようなものなどに務まる仕事なのでございましょうか?」
「はい。大丈夫です。なぜならば、あなた様は、何事かを成し遂げることができる、選ばれた人物だからです。それは、つまり、このお役目においても、いかなる困難が起ころうとも、あなた様であれば、それを切り抜けて、最後までしっかり完遂することができるということなのです。だから、心配はご無用。大丈夫です」
「なるほど。そこまで、もう全てお見通しということなのですね。わかりました。それでは、このお役目、この不肖徒野が、謹んでお受け致しましょう」
「ありがとうございます。あなた様が、船でこの港を出発する直前に、わたしがこれをお届けにあがり、ちゃんとお渡しすることができるということも、もうすでにわたしが寺を出発するときに阿闍梨が言っておられました。本当に、全てがみな、言われた通りになっています」
「では、お寺に戻られましたら、その尊き阿闍梨様によろしくお伝えください。石は、確かにお預かりいたしました。大切に運びます、と」
「わかりました。必ずそう伝えます」
そういうと、ヤナタは近くにあった荷物台に背中側から慎重に近づき、笈ごと台に載せるようにして重い荷物を肩から下ろした。
「ご覧のような大きさの卒塔婆石なので、少しばかり重いのですが、一度背負ってしまえば楽ですし、石の重みも次第に体に馴染んできますから‥‥」
徒野は、これから自分が運ぶことになる荷物に、ゆっくりと近づいてみた。見るからに大きく、見るからに重そうである。それもそのはず、荷物の中身は、大きな石の塊であるのだから、普通に考えれば、そう簡単に持ち上げられるようなものではない。
まずは、肩と背中を覆う、厚手の布を直垂の上に装着する。これは、荷物の重みで、担ぎ手の肩や背中が背負子で擦り切れてしまわないようにする防護の布である。そして、徒野は荷物台に背中をつけるようにして立って、笈を背負って、その場で持ち上げてみた。やはり、かなりの重さである。
「ふんっ、ふんっ、んんーっ」
ぐっと両足を、焼けて熱くなった砂の上で踏ん張って、なんとか荷物を荷物台から持ち上げることができた。
大型の笈におさめられている卒塔婆石の大きさは、一尺と少しある程度だろうか。しかし、重さは、軽く二斗を越すほどはある。よって、それくらいの大きさの子供でも背負うような感覚でいると、格段に重くて、びくともしない。
徒野は、少し無理をして、ぎこちない作り笑いを浮かべた表情で喋り出した。
「いやあ、思ってたよりも、全然重いですなあ。しかし、ほとんど道中は船旅でございましょうから、特に問題はないでしょう。ご心配なく。お任せください」
その時、船で作業をしていた船員が、港への渡し板をかけて船内から出てきた。ようやく出航の準備が整ったようだ。大声で船の周辺で待ち続けていた搭乗予定者たちを船の中に呼び込んでいる。
「そろそろ、時間のようですね。わたしは、あの船で国に帰ります。もう行かねばなりません」
「では、よろしくお願いします。少将様に御仏の御加護がございますように」
「ありがとう。いつかまたお会いできればよいですね。その日がやって来るのを楽しみにしております」
「はい。わたくしも、この卒塔婆石が安置されている場所を、この目で実際に見てみたいと思っていますので、いつか必ず。その時に。では、さようなら。よい旅を」
「はい。お待ちしています。では、さようなら」
徒野は、少し上体を屈めるような体勢で、重い笈を背負い、ゆっくりと船の方へと歩み出した。石の重さで、後にひっくり返ってしまわないように、全身に力をこめて慎重に歩く。体に力が入れば入るほど、強い日差しのもと、余計に身体中から汗が噴き出してきてしまう。額を流れ落ちた汗が、頬を伝い、顎の先から砂浜の砂の上にぽたりと滴り落ちて、小さな黒い点になる。
(先ほどまで、ヤナタは、これをあんなにも涼しい顔で背負っていたというのに‥‥。ちょっと信じられないなあ。しかし、何やら、これは、とても不思議な、いや、かなり不気味な感じのする石だぞ。もしかして、あのような、身も心も清浄なものには、この石はとても軽く感じられるものなのだろうか‥‥)
徒野は、卒塔婆石の重みを、ずっしりと肩と背に感じながら、自分がもうすでに年老いて清い人間ではなくなってしまっていることを、あらためてしみじみとかえりみていた。そして、一歩ずつ歩みを進めるごとに、じっくりと石の重みを噛み締めるのだった。
その姿を見守りながらヤナタは、両手を合わせて、徒野の背中に向かって静かに首を垂れ、ずっと静かに経を唱え祈りを捧げていた。

やがて、徒野少将を乗せた船は、ゆっくりと港を離れ始めた。静かな港内を滑るように進み、大海原を目指して、高々と帆を掲げる。徒野は、甲板にどすりと笈を下ろすと、港の方を振り返った。何の縁もゆかりもない港であったが、見送りの人がひとりいるだけで、ここはほかの港とはまったく違う港になった。普段はそのようなことは一切しない徒野が、いつまでもいつまでもヤナタの姿が小さく小さくなって見えなくなるまで、大きく両手を振り続けた。
卒塔婆石を届けてくれたヤナタは、とても美しい少年僧であった。徒野は、そんな彼をこれからの長旅のお供として連れて帰れぬことを、非常に寂しく思っていた。
「ああ、ヤナタ。そなたが側についていてくれたらなあ。どんなに、この船旅も安心であっただろうか。この荷物を船内に運び込むのも、船を降りてから背負って運ぶのも、みんなみんな手伝ってもらえたのだがなあ」
徒野はそう言いつつ、甲板で出航の作業の後片付けをしていた屈強そうな船員を近くに呼び寄せた。そして、重い荷物を船内まで運んでもらった。

多くの渡航者を乗せた大型のジャンクは、港を離れ、何度となく沿岸部の小さな港に寄港しながら、ゆっくりと約一ヶ月近くをかけて、ようやく明州の港に到着した。ここで徒野は、一週間ほど次の船の到着を待つことになる。そして、東シナ海を横断して、難波の港へ向かう船に、ようやく乗り換えることができた。明州から難波までの航路は、安定しない季節風の影響もあって半月以上もかかった。瀬戸内の海は、とても座礁しやすい難所ばかりで、慎重に進まなくてはならぬため、さらに船がすすむ速度は遅くなった。難波では、大型のジャンクよりも少し小ぶりな唐船に乗り換えた。そこからは、一週間もかからずに真鶴に到着した。また、そこでもう一回り小型の船に乗り換える。相模の海を横切り、秋谷の港を経由して、城ヶ島をぐるりと回り、やっとのことで武蔵国に入った。そして、そのまま湾の一番奥から北へと続いている、大きな川を遡っていった。

大海原を悠々と航海することには慣れていても、狭く浅い川を遡ることには、いくら鍛え抜かれた船員たちであっても、ほとんど慣れてはいないし、要領がつかめず四苦八苦するものである。川には、海にはない両岸というものがある。ちょっとでも船の舳先が蛇行すれば、すぐにそれは迫ってくる。また、川の流れの方角によって風向きも変わりやすく、その変化に常に備えていなくてはならず、一瞬たりとも気が抜けない。海を航海しているのと同じ感覚で、船を操っていては、すぐに岸に乗り上げたり船体をぶつけたり擦ったり、浅瀬で座礁してしまうことであろう。そのあたりの船の事情をあまりよく理解していなかった徒野は、目的の地である武蔵国にもうすでに到着していたこともあって、少しばかり安心してとても呑気に構えていた。だが、それとは反対に、船の乗組員たちは、武蔵国の川に入ってきてからというもの、常に操船に手こずってぴりぴりしていたのである。

そんなある日、ひとりの船員が、さほど深さのない川の中に異様なものが泳いでいることに気がついた。すぐに、船のすぐ近くの水中に、何か大きな黒い影が見えたと騒ぎだした。それは、一瞬だけ水面近くにまで浮き上がってきてまたすぐに川の流れの深みに下りていってしまったらしい。だがしかし、その日から、立て続けに複数の船員たちが、その黒い影らしきものを目撃した。いつしか、船の中の誰もが、その不気味なものの存在を信じるようになっていた。
そんなおかしな噂を耳にした徒野少将も、仔細を確かめようと船の上からじっと川の水面を眺めて続けていた。そのとき、やはりその大きな黒い影に遭遇したのである。それは、じっとそこに止まっているように見えた。鰭などを使って泳いでいるような動きは、全く見えなかった。ただ、この船が何ものであるのかを見定めようとするかのように、ずっとこちらと同じ速度で水の中をゆったりと移動していたのである。明らかに、それは魚ではないようだった。第一、魚にしては大きすぎた。川に生息する普通の生き物からは感じられないような、得体の知れない不気味さが漂う黒い影であった。
徒野はじっと黒い影を見据えて、冷静に観察を続けていた。それが何か自分の意志のようなものを示す一瞬を見逃さぬように。かたや、黒い影の方でも、川の中から徒野のことをじっと観察しているようであった。すると、今度は巨大な影がものすごい早さで船を追い抜かしていった。そして、瞬きをする間もなく川の上流へと消えていってしまった。とても長い大きな体で、一番太さのあるところで米俵よりも太く、長さはゆうに三間以上はあったであろうか。徒野の背筋は凍りついたようになり、文字通り震え上がった。それは、それまでに、見たことも聞いたこともないような怪物であった。
(遠い東の果ての国である武蔵国というところには、まだこんな魑魅魍魎が棲む川があったのか。ああ、おとろしや、おとろしや。あのときヤナタがいっていた長いこと封印されている怪物というのは、ああいうやつらの親玉なのだろう。とすると、やはり決して再び地上に解き放ったりしてはならぬな。きっと、そのような地下から蘇る魔の力というものは、積年の恨みに満ちていて、人間たちが長い年月をかけて築き上げてきた全ての美しきものを、あの雅なる都を、粉々に破壊してしまうことだろう)
徒野は、自らに課せられた使命の重さをあらためて思い返した。そして、それを最後までやり遂げる決意を新たにするのであった。何としても浮島の塚に、一刻も早く卒塔婆石を運び届けねばならない。今まさに、いにしえの水の神をめぐる状況は一刻を争うものとなっている。そして、その危機的な事態の中で、自分が、とても大きな鍵を握る存在であることをひしひしと思い知るのであった。
はるか先の川面を見つめていた徒野は、静かに目を閉じた。

「大丈夫だって。本当に、何も心配はない。本当に、本当だから」
徒野は、多くの船の乗員たちを一手に束ねている船長に、何度も何度も語気を強めて説明していた。
「確かに、川には何かいるよ。でも、この船は絶対に安全なんだよ。これは本当だから。どうか、信じてくれ」
「そんなこと言ってもねえ、少将。もう、すっかり、みんな怖気づいちまってるんだよね。今さらもう、何を言っても、どうにもならないと思うんだよね」
「だから、船長だって、さっきちゃんと見ただろう。あいつは近くまで来ても、この船には、絶対に手は出せないんだよ。じっと見ていることしかできないんだって、あいつは」
「でもな、あんなやつが船の近くまで来てるってのは、そりゃあ怖いって。正直な話ね。おれだって、すごい怖いよ。あの大きさでこられたんじゃさあ、ちょっと掠っただけで、こっちは簡単に沈められちまうだろうからね」
「だから、何度も言っている通り、向こうから当たってくることなんてないんだよ。絶対に。こっちには、アヌラダプラから運んできた卒塔婆石があるんだ。あの石が、この船に載っている限り、あいつは、あれ以上近くには近づけないんだよ。あの、ありがたい石が、この船をちゃんと守ってくれてるんだから。いわば神通力みたいなもんだって。だから、絶対に大丈夫なんだ‥‥」
「そりゃあ、まあ、分かるよ。理屈は、分かるんだけどさあ。あの石のおかげで、平穏無事に、ここまで航海して来れたんだろうからね。あの石が、この船を守ってくれてるってのは分かる。でもよ、あんたたちが、この先で船を降りてしまった後は、どうなるのさ。おれたち、どうなるのさ。あの石を降ろしてしまった後も、おれたちは、この船でまた、この恐ろしい川をびくびくしながら下っていってさあ、海まで戻らなくちゃならないんだよね。そん時は、どうなるのよ。もう、おれたちを守ってくれるものは、何にもありゃしないじゃない。石を降ろしちゃったら、もう何の変哲もないただの船だからね、こっちは。そうなったら、すぐにまたやつが来てさあ、あ、あの船もう石載せてないなって、すぐにばれてしまって、そんで簡単にぽっこりやられちまうじゃんか。この船ごと、おれたちひと飲みにされてしまうかも知れねえよ」
「あ、まあ、そうか。そういうことか‥‥。確かに、そうだ。その通りだ。いや、本当に、すまない。どうやら、わたしは、わたしに託された役目のことばかりを考えていて、周りのことがちゃんと見えていなかったようだ。わたしは、船長たちのことをちっとも真剣に考えていなかったのだ。すまない、許してほしい。本当に、船長の言う通りだ。この船は、またこの魑魅魍魎の棲む川を、海まで戻らねばならぬのだったなあ。その帰りの航路の安全のことまで、わたしの考えが及ばなかったのだ。くううっ、このわたしとしたことが。なんと片手落ちであったことか‥‥」
「少将、大変申し訳ないが、おれたちとしちゃあな、もうこれ以上は内陸の奥地に船を進めることはできねえんだよ。できれば、ここらでもう引き返らせてもらいてえんだ。どうだろうか。これは、ここだけの話だけど、船員たちが、この船を捨てて逃げ出してしまってからでは遅いんだよ。手遅れになる前に、今のうちに、早いとこ海に引き返してえんだ」
「そう言われてもなあ、もう少し塚の近くまで石を運んでもらいたかったんだが‥‥」
「やっぱりさあ、おれたちは、海でばばばーっと船を走らす方が性に合ってるのさ。それに比べると、川は、すげえ怖いんだ。様子も、勝手も、全く違うんだから」
「わたしが、無理なことを頼んでしまったばかりに、船長たちには、たくさんのいらぬ苦労をかけてしまったようだな。本当に申し訳なかった。許してもらいたい」
「いやいや、いいんですって。謝らなくちゃならないのは、こっちの方なんですから。頼まれた仕事を、最後までやり遂げられず、本当に申し訳ないと思ってます。少将、本当にすみません。まだ約束していた場所までは少し遠いようだが、ここらで、海に帰らしてもらいてえんです。この通りです、お頼み申し上げます」
「ここでかあ‥‥。このあたりをゆく船の船頭に尋ねてみたところ、この川に浮島らしい浮島なんてのは、さっぱりないらしいんだな。その代わり、この先、もっと陸地を進んでいったところに、みよしのという地があり、そこに、それらしき塚があるというのさ。だからまあ、どうせいつかは船を降りて、そこまで、歩いてゆかねばならなかったんだ。まあ、そういうわけだから、仕方がないといえば、仕方がないのだ。わたしも、このあたりで、腹を括ってだね、自力で歩いて石を運ぶことにしようかのう。うん、そうだな。そうしよう、そうしよう‥‥」
「誠に、申し訳ありません。こんな川だとはちっとも思わなかったものですから。川ってものを、少しばかり甘く見すぎてました。この船の全員がね、まあ、そんな感じだったもんだから、いざ蓋を開けてみたら、みんな想像以上に怖がってしまってね。だから、もう、これ以上は、もはや、どうにもならんのです。どうか、分かってやってください」
「ああ、いいよ。うん、もう、いいんだ。ほら、あれが見えるかい。あそこの、あの宿場らしきところに、まだそれほど暗くなっていないのに、もう篝火を焚いている船着場があるね。あそこに船をつけてくださいな。ここからは、ひとりで歩いてゆくことにしたよ。船長、ここまで本当にありがとう。とても感謝している。楽しい船旅だったよ。この本当に素晴らしい船と素晴らしい乗組員たちのおかげだよ」
「少将、こちらこそ、本当にありがとう。とても勉強になる旅でした。あなたのことは、生涯忘れることはないでしょう。お元気で。無事にお役目を果たされること、われわれも心よりお祈りしております」

石積みの船着場に船をつけ、船から渡した二枚の板の上を、若い船員が二人がかりで器用に足を運びながら、卒塔婆石の入った重い笈を運び下ろしてくれた。その後に続くように船を降りた徒野は、船着場で船員二人に重い笈を持ち上げていてもらったまま、さっと両の腕を差し入れて、久々に卒塔婆石を背負った。
「ありがとう」
徒野は、ゆっくりと振り返り、自分がこれまで旅をしてきた小さな船をしみじみと眺めた。
今や、船は宿屋街の人足の手を借りて船着場を少し離れたところで川沿いの水路を使いゆっくりと船の向きを旋回させ、川下に向けて滑るように進み始めていた。徒野は、船が無事に帰り着くことを祈って、いつまでもいつまでも両手を合わせ、首を垂れ続けていた。

またしても見知らぬ土地で、ひとりきりになってしまった。こんなことになろうとは、夢にも思っていなかった。徒野が降り立ったのは、どうやら白子という宿場であった。浮島のあるみよしのに行くためには、まだまだ相当に街道を下ってゆかなくてはならないようである。宿場の人々は、とても親切にいろいろ事細かに土地のことについて教えてくれた。
徒野は、重い笈を背負って、のそりのそりと歩き始めた。その見るからに重そうな足取りを見て、運ぶのを手伝うことを申し出てくるものも多くいた。だが、そうした申し出を、徒野は全て断った。ここからは、自分の力だけで卒塔婆石を運ぶのだと、心に決めていた。あの蒸し暑い南方の港まで、長い長い道のりをヤナタがひとりで背負って歩いてきてくれたように。今度は、自分の足で歩いて運ぶことにしたのである。そうすることこそが、川の魔物をも遠ざける、この不思議な力をもつ石には、最も相応しい運搬の方法だろうと思い始めていたのである。
徒野は、ゆっくりと、少しずつ、脚を前に進めて歩き続けた。全身を汗と土埃まみれにしながら、重い石を運んでいる姿は、まさに苦行の様相を呈するほどに鬼気迫るものもであった。
両手で杖に縋るようにして、重い笈を背負って、街道を歩き続けている。そんな徒野少将の噂は、すぐに付近一帯に広まった。何だかよく分からないが、唐土から持ち帰った、ありがたい石の仏を運んでいる人がいると、人々は口々に言い合って、徒野さんが近くを通るのを、今か今かと首を長くして待ち構えていたのである。街道の道端では、ゆっくり前へ前へと進んでゆく徒野を、両手を合わせて拝んだり、熱心に念仏を唱えながら見送っているものもいた。また、自分の家や店の軒先で少し休憩してゆくようにと親切に勧めてくれるものも後を絶たなかった。しかし、それでも、徒野は、ほとんど休むことなく歩き続けた。たまに、道端に腰を下ろして、ほんの少しだけ休息することはあった。だが、それもほんのひとときだけのことであり、徒野は、毎日ほとんど休むことなく歩き続けたのである。

ある夜、徒野は、街道の広い大きな四ツ辻に通りかかった。もうすでに街道沿いで見守ったり応援してくれていた人々は、誰もいない。みんなぐっすり布団の中で寝静まっている刻限である。徒野が、たったひとりで、重い笈を背負い、重い足取りで一歩ずつ、ゆっくりゆっくり進んでゆく。
だがしかし、その辻の中だけは寝静まった世界からは切り離されているようだった。辻の脇の薄暗がりに、徒野を待ち伏せしているものが潜んでいた。海の向こうから宝物を持ち帰った都人がこの街道の辻を通ると、どこかから聞きつけてきた賊の集団が、今か今かと息を殺して徒野が来るのを物陰で待ち構えていたのである。飛んで火に入る夏の虫のように獲物がちょうど辻に差し掛かってきたところで、生っちょろい都人を取り囲んでしまって襲い掛かり、宝物を奪い取ろうという魂胆であった。
広い辻の中ほどあたりにまで、ゆっくりと徒野が歩みを進めてきたところで、四方八方から飛び出してきた賊が、予定通りにぐるりと、その周りを取り囲んだ。
「申し訳ありませんが、ちょっと、道を開けてもらえないでしょうか。わたくし、ここを通りたいのです。先を急がなくてはなりませんので、どうか、前を開けてください」
「へえぇ、そうですかい。そうですかい。おい、ちょっと、みんな聞いたかい?おれの目には、ちっとも急いでるようには見えないんだけどねえ。なあ、どうだい、お前たちにも、このお方が全然急いでいるようには見えなかっただろう?」
徒野の周囲を取り囲んでいる賊のものたちは、妙な薄ら笑いを浮かべて突っ立っている。
「そんでさあ、あんた、何でもアダシノさんとかいうんだろ?お噂はよおくうかがっておりますぜ。おれたち、実は、ここであんたのこと、昼過ぎからずっとずっと待ってたんだよね」
「ええ、徒野とは、わたしのことです。ですが、このような場所で、どなたかに待っていてもらう約束をした覚えは、全くないのですけれど‥‥。何かの間違いではないでしょうか」
「いいや、全然間違いじゃねえんだよ。おれたち、何にも間違えてなんかいねえはずだよ。ずっと待ってたの。あんたが来るのを。ここでね。あんたがお宝を背負って歩いて来るっていうお噂を、ちらちらっと小耳に挟んじまったもんだからね」
「いや、そういうことでしたら、やはり何かの間違いですよ。その、お宝というのは、いったい何のことなんでしょうか。わたしには、さっぱり心当たりがございま‥‥」
「おい、こんにゃろう。すっとぼけんじゃねえよ。こっちが丁寧に優しく接しているからって、いい気になりやがってよう。アダシだか裸足だか何だか知らねえが、おれの目を誤魔化そうったって、そうは問屋がおろさねえからな。それだよ、それ、それ。今、あんたが、背中に背負ってるやつ。それが遠く海の向こうから持って帰ってきたお宝なんだろ。わかってんだよ、こっちはよう。ちゃんと、わかってんの。調べはついてんだから。いいから、つべこべ言わずに、それをこっちへ渡しなさいよ。とぼけてねえでさあ、素直に渡してくれたら、命だけは助けてやるからよう」
「いいえ、とぼけたことを言っているのは、あなたの方ですよ。この荷物は、絶対に渡せません。わたしには使命があるのです。それを遂げるまでは、死ぬわけにはいかないのです」
「おう、おう。何わけの分からないことを、いつまでもぶつぶつ言ってんだよ。いいから、早くお宝を渡しなって言ってんの。あんただって、命は惜しいだろ。何だかよくわからないが、神明社かどこかで棘を抜くまでは死ねないっていうのかい。それなら、さっさと、そのお宝を置いて、そっちへ行ってきなさいよ。そこで棘を抜いてもらいなさいよ。命は取らねえでおいてやるから。だからさあ、そいつを、こっちへ渡して、どこへでも好きなところへ、さっさと行くがいいさ」
「これは、置いてゆくわけにはいかない。絶対に。それに、これは、ただの石なのだ。そなたが思っているような宝などでは決してない。遠く海の向こうのアヌラダプラから運んで来た石だ。わたしは、その石を、こうしてひとりで運んでいるだけなのだ」
「石だってのかい?え?ただの石を、そんなに大事そうに運んでるのかい?馬鹿いっちゃいけないよ。そんな嘘くさい作り話を、誰が信じるってんだよ。それ、お宝なんだろ。だから、大事に運んでるんだろ。嘘なんかついちゃいけねえって。さっさとお宝を置いて、どこへでも立ち去りやがれい」
「なぜ、わたしの言っていることを全く信じようとしないのだ。この分からず屋め。わたしは、嘘など少しもついていない。誓ってもよい。これは石だ。ただの石だ。絶対に、宝物などではない」
「ちっ、わからねえ野郎だなあ。まったくよう。おう、お前ら、いいか、あんあり手荒な真似はしたくなかったけどなあ、ちょっと言ってもわらかねえ、こんこんちきみてえだから、アダチさんが大事に背負ってらっしゃるその笈を、力づくで剥ぎ取っちまいな」
「えい、何をする。何をする。何をするのだ。これは、石だ。石だと、言っているだろうに。こら、離さんか、これ、これっ‥‥」
賊の若いもの数人が、背後から勢いよく飛びかかってきた。そして、両脇と背後に立って、徒野の笈に手をかけている。すると、荷物の極端な重みのせいか、するりと笈は徒野の肩から抜け落ちてしまう。その際に、真後ろに立っていた若い賊が、その荷物を受け止めようと、両手で下から支えようとしのだが‥‥。しかし、あまりの笈の重みに体勢を崩し、仰向けに背中から倒れ込んでしまった。荷物が、若い賊の胸に上に勢いよく落下した。そして、その体の上にどっしりと笈がのしかかるような形になっている。
「うわあ、痛っ。痛ってえ。おい、これ、痛えよ。痛えよ。何だこりゃ。重い、重いって。おい、息ができねえじゃねえか、息が。どっ、どっ、どけてくれ。早く。これを、早く。早くどけてくれって、おい、よう、言ってんじゃねえかよ。ほら、頼むよ。早くしてくれ!頼むっ!」
重い笈の下敷きになって、抜け出せなくなった若い賊が、情けない声で助けを求め悲鳴をあげている。ほかの賊のものたちは、何が起きているのか、よく分かっていないようで、じっとその哀れな姿を、おたおたしながら眺めているばかりであった。
若い賊たちに手荒く突き飛ばされて、街道の土の上に突っ伏して倒れ込んでいた徒野は、その悲痛な声を聞き、すぐさま立ち上がった。そして、笈にのしかかられている若い賊のもとに急いで駆け寄った。
「おい、何をしているんだ。ほら、ぼんやり突っ立って見ていては駄目じゃないか。早く荷物をどけないと、このものは、終いにゃ押し潰されて死んでしまうぞ。おい、大丈夫か。しっかりしろ。おい、そんなにじたばた動いてはいかん。余計に抜けられなくなるぞ。静かにしろ。動くな。今すぐ、助けてやるからな」
徒野は足を踏ん張って、重い笈を、若い賊の体の上から持ち上げた。そして、鬼のような形相で、額に汗をにじませながら、それを街道の土の上に、どすりと下ろした。卒塔婆石は、先ほど自分が背負っていたときよりも、何百倍も重くなっているように感じられた。
(もしや、この石は、本当にこのものを押し潰してしまおうとしていたのだろうか‥‥)
徒野は心身ともに疲労困憊して、その場にへたり込んでしまった。そして、石に向かって両手を合わせて、深く首を垂れた。
全く何が起きているのか理解することができず、口をあんぐりと開けて立ち尽くしている、賊のものたちの、間の抜けた顔を眺めながら、徒野は大きな声をあげた。
「おい、早いとこ、このものを医者か薬師のところへ連れていってやれ、重い石の下敷きになっていたので、腹の臓腑が潰れてしまっているかも知れないからな。こいつは、見たところまだ若い。助かるものならば、助けてやったほうがいい。おい、聞いているのか。おい。聞こえてるんなら、早くちゃんと手当てをしてやれ。早くしろと言っておるのが、分からんのか」
「アダシさんよう、あんた、本当に石を運んでるだけだったみてえだねえ」
徒野は、笈にかぶせてあった菰を少し広げて、その中を見せた。賊の長も、その中にあるのが、ただの石であることがわかったようだ。
「ご覧のとおり、これは石だ。一個の大きな重い石だよ」
「そんならそうと、先に言っておいてくれなきゃ、困っちゃうなあ。こっちは、石なんぞには、ちっとも用はないんだから。そうとくりゃ、まあ、話は早えやな。おい、八根太。とっとと、こいつの懐のもんをむしり取っちまいな」
賊の中でも一番の年若に見える痩せた少年が、座り込んだ徒野のところに、すたすたと駆け寄り、無造作にその懐へ手を伸ばそうとする。それを見て、徒野は、その少年の細い手首を咄嗟に掴んだ。強く手首を掴んで、徒野は、少年の動きを完全に制した。
「そなた、ヤネタという名なのかい?ああ、そうか。それは、なかなか良い名だな。そのようにしてわたしから無理矢理に奪う必要はないんだ。これが、必要なのならば、わたしからそなたへ与えよう」
そういうと徒野は、懐から銭入れの袋を取り出して、八根太の手の上にのせてやった。
「少ないが、これが今わたしのもっているすべてだ。もうわたしから取れるものは何もない。どうだ、これでもう満足したか?」
八根太は、なにもいわずに振り返ると、賊の長のもとへ駆け戻っていった。そして、徒野の銭入れを手渡した。賊の長は、素早く銭入れの中身を確かめる。
「まあ、いいだろう。これだけありゃあ、御の字だ。アダチさん、あんた、こんなにたんまり金子をもってんならよう、石運びの人足でも雇えばいいじゃないか。何で、そうしないの?へぇ、そうなんだ。自力で荷物を運びたくて、これを運び届けようとしてんだ。へぇ、何だか知らないけど、あんた、相当な変人だね。ま、こいつは、この街道の通行料みてえなもんだ。そういう訳だから、おれたちが、そっくり貰っとくことにするよ」
「ああ、そうかい。わかったよ。今すぐにでも、そいつを持っていって、医者に見せて、この男を手当てしてやってくれ。早くしないと、手遅れになるぞ」
「つべこべうるせえんだよ、この薄汚れた荷物運び野郎が。おい、お前ら、もう用事は済んだぞ。とっととずらかろう。こっちは、石なんぞには、ちっとも用はねえんだからな。行くぞ。ほら。それとなあ、誰かこれ、滝次を、何人かで担いで、急いで杉の下の婆さんのところに運んでくれ。それから、大急ぎでソジンを呼びにいけ、何でもいいから怪我の薬をたんまりもってこさせろ。いいか、薬代なら、たっぷりあるって、そう言ってやれ。いいな」
賊は去った。徒野と石だけを残して。街道の四ツ辻には、もはや誰もいなくなった。月の明かりもやわらかな、風もない静かな夜だった。徒野のもとには、ついに、卒塔婆石を運ぶ役目だけが残った。
(わたしは、この石を無事に運び終えるまでは、静かな眠りについて、ゆっくり休むことができないようだ。そうだ、もう何もないのだ。石を背負って運ぶこと以外は‥‥)
徒野は、ゆっくりと立ち上がり、荷物にかけた菰を直し、笈を背負った。そして、また一歩ずつ、前へ前へと歩き出した。
石に導かれてやってきた、この長かった旅にも、もうすぐ終わりの時がくるのだろう。徒野は、そのことを、背中の笈の重みから、はっきりと感じ取っていた。
(もはや、このわたしから、削ぎ落とすものは、なにもない。わたしには、もうこの石しかないのだ。この石こそが、今やわたしそのものなのである)
まるで、背負った石に歩かされているかのように、徒野は足を引きずりながらも少しずつ進んだ。どうやら、卒塔婆石が、目指す土地の水の匂いを嗅ぎつけたようである。目を閉じると、徒野にも、それを微かに感じ取ることができるような気がした。街道は、進めば進むほどに武蔵野の色を深め、草原と田畑ばかりの自然のままの田舎道になっていった。

ほぼ川の流れに沿って続いている街道は、太古の時代には海岸線沿いに人々が移動する道でもあったのだろう。かつては、このずっと先まで海が続いていたのだと、どこかで聞いた記憶がある。その証拠に、今でもここら辺ではあちこちから海の貝の貝殻が大量に土の中から出てくることがあるらしい。もしも、今もあの海がそのまま内陸の方まで入ってきていたならば、船でずっと浮島まで石を運ぶことができたかもしれない。そんなことを考えてしまうのも、こうして石を背負って運んでいるからこそだと、徒野はそんな雑念ですらをも少しは楽しめるような境地にまで達していた。徒野は、石を運ぶことで、何かが自分の中で変わりつつあるのを、確かに感じ取っていた。
武蔵野の街道は、ほぼ真っ直ぐに北西へと向かってのびていた。そして、まるで龍の背の上を歩いているかのようなうねりが、どこまでも続いている。いくつもの坂を登って、いくつもの坂を降りた。越えても越えても、いくつもいくつも徒野の前に坂があらわれた。徒野は、重い荷物を背負って、ゆっくりと、ゆっくりとただひたすらに進んだ。
数日ほど少しも休むことなく歩き通した。通りすがりの村人に尋ねてみると、目的地である浮島が、もうかなり近くであることを教えてくれた。遂に、本当に、旅の終わりが近づいてきているようである。徒野は、僅かに体の中に残っている、最後の力を振り絞って、ゆっくりと進んだ。
みよしのの少し手前の低地に、七ツ釜といわれる、とても広い沼沢地があった。そのぬかるんだ泥沼の西側の端近くに、湿地帯の上にぽっこりと突き出している土地がある。そここそが浮島であった。徒野は、その浮島に卒塔婆石を運び込んだ。浮島の周囲は、鬱蒼と葦が生い茂る沼にぐるりと取り囲まれている。その真ん中に細長く突き出すように、その場所だけまるで小さな島であるかのように、沼の水辺の中に浮き上がり盛り上がっているのだ。浮島の中で近辺を見回すと、水辺のほとりに古い塚らしきものがあった。
いや、それが小さな古い塚なのではない。おそらく、この浮島そのものが、沼地の中に突き出たひとつの大きな塚のだったのではなかろうか。そして、その島のような塚の上にこんもりと丸みのある土の盛り上がりがある。浮島の島のような形の大きな塚の土の盛り上がりを台座にして、またその上にさらにまた小さな塚が鎮座しているのである。徒野は、それを見て、すぐに確信した。これこそが、あのヤナタが言っていた、この世界を守護している塚であることを。
徒野は、笈を背負って塚の上まで、ゆっくりと荷物を運び上げた。塚の上に笈を降ろして、菰を外した。すると、笈全体がいきなりばりばりと割れ始めた。外側の木の板の側が、ぽろぽろと剥がれ落ち、みるみるうちに粉々になって消えてしまった。そして、自然と中の石が剥き出しの状態になったのである。もともと笈の内部にぎりぎり一杯に詰め込まれていた石は、それまでよりも一回りも二回りも大きくなっているように見えた。
「な、なんと」
徒野は、思わず驚嘆の声をあげた。石の正面には、うっすらと如来像が浮かび上がっていた。石の前後を確認し、徒野は、その不思議な卒塔婆石を塚の真上に安置した。大きくて重い石を、徒野はもはや自分の思う通りに持ち上げて移動させることができるようになっていた。
(ああ、これで、ようやく自らに課せられた役目を無事に果たすことができた‥‥)
徒野は、その場にじっと立ち尽くしたまま、しばらく天を仰いでいた。木々の梢の間から、青い空と白い雲が見えていた。あの港の砂浜のように、強い日差しは塚の上まで差し込んできてはいなかったが、徒野はぐっと強く目を閉じた。すると、瞑った両の目の端から、思いもかけずに涙がとめどなく溢れ出してくる。この卒塔婆石とともに旅をして、ようやく自分のいるべき場所に帰ってきたように感じられた。何か不思議な大いなる力に導かれて、あちらこちらを彷徨い歩いた果てに、遂に己の心のふるさとのような場所に辿り着けたのではないかと思えてならなかった。
いくら周りに誰もいないからといって、いつまでもひとりで感慨にひたっているわけにもいかない。徒野は、ようやく塚を降りた。塚の下の平らな地面に、棒のようになっている脚を折るようにして膝をつき、どっしりと腰を下ろし、地べたに座り込んだ。脚を曲げて、座り込み、楽な姿勢で体を休ませること自体が、とても久方ぶりのことであった。そして、塚の上の卒塔婆石を見上げ、両手を合わせて、静かに拝んだ。そのまま、じっと静かに拝みつづけた。
合掌して目を閉じるていると、いつしか徒野は、アヌラダプラの僧院にいた。実際には、まだ一度も行ったことのない場所だったが、すぐに自分がそこにいることが分かった。石が記憶していた場所を、いつしか徒野も懐かしい場所だと感じるようになっていたのだろうか。静かに合掌をしている徒野の傍に、花のように芳しい香りとともに、ヤナタが風のようにやってきた。重い石を背負いつづけた徒野の、真っ赤に擦り切れている肩や背中に、ヤナタがそっと手を伸ばす。身を屈めて、その手で優しく撫で、労るように摩ってくれる。徒野は、いつまでもいつまでも深々と首を垂れて、じっとアヌラダプラの石を拝み続けた。
随分と長いこと、そこに座り込んで、浮島の塚を拝んでいた。徒野には、そのように感じられた。しかし、ようやく顔を上げたとき、自分がどれほどそこで拝み続けていたのか、もはや全く分からなくなってしまっていた。時が進むのが、とても遅くなったのではないかと思った。そして、そのゆったりとした時間の流れの中で、そこに長いことずっと座り込んだまま拝み続けていたような気がしたのである。だが、そう感じるとともに、とても不思議なことに、まだここに着いたばかりのようにも感じられるのであった。長旅の疲れも、ずっしりとまだ全身に残っている。先ほど流した涙も、まだ徒野のまつ毛を濡らしたままであった。
体中の筋や節々が凝り固まったようになっていて、あちこち痛んだ。そんな足や腰をゆっくり伸ばすようにして、徒野は、のっそりと立ち上がった。そして、周囲を見渡してみた。卒塔婆石を置いたことで、塚に何か変化が起きているのではないかと気になったからである。すると、すぐ近くの大きな木の根元あたり、砂混じりの土が、何やら少ししっとりと湿っている。その木の根元が、とても気になった。特に何かを思ったわけでもなく、徒野は、まるで何かに引き寄せられるように、その木の根元に近づいていった。そして、そこにしゃがみ込んで、両の手で、ざらざらしている黒い砂混じりの土を掘り出した。すると、ほんの少し掘るだけで、地中からじわじわと水が染みだしてきたのである。その地面の下に、渾々と水が湧いてきているのがわかった。しばらくすると、徒野が掘った小さな穴に、みるみるうちに地中から染み出してきた水が溜まっていった。
見るからに、とても澄み切った清い水であった。徒野は、その水に手をひたしてみた。水の清らかさが、手の平や手の甲からでも感じ取れるようであった。そして、身を低くし、掘った穴に顔を突っ込むようにして、右手で澄んだ水を掬い、清らかな水を口に含んだ。乾き切った喉を潤すように、何度も何度も手で掬っては、がぶがぶと飲んだ。
冷たい澄んだ水が、ずっしりと疲れきった体の隅々にまで染み込んでゆくようだった。一口飲み込むごとに、どんどん体が軽くなってゆくのが感じられる。あちこちの痛みが、まるで水で洗い流されるように、溶けて消えてゆく。そして、疲れ果てた全身から、完全に抜け落ちてしまっていた生命力が、再び奥底のほうからみなぎってくるのである。徒野の目には周囲の景色は、すべて青々と萌え立ってきているように見えた。目の前が、とても明るくなる。いつしか浮島全体が、眩く光り輝いているようにすら思えてくるのだった。
夢中になって飲み続けていたせいで、水だけで腹の帯がきつく感じるほどになってきた。徒野は、ふらふらしながら立ち上がった。満腹になったせいか、ここ最近は感じられることのなかった、心地よい充足感が全身を満たつくしていた。塚の近くにあった溶岩石のような黒く大きなごつごつしている岩に背中をもたれかけ、徒野は座り込んだ。そして、そのまま静かに眠りに落ちていった。

薄汚れた身なりのものが、前のめりの姿勢になって、我を忘れたように地面に掘った穴の底にじわじわと染み出してくる、冷たい湧水をがぶがぶと飲んでいた。まるで飢えた犬のような勢いで。
夢を見ていたのだろうか、はっと我に返ったように徒野が、ぱっと顔を上げる。すると、浮島の塚の上に、誰かがいた。先ほどまで、この塚の近辺には誰もいなかったはずなのに。そこに確かに誰か人らしきものが見えていた。びくりとした。徒野は、咄嗟に身を固めた。体の動きは止まっている。だが、ぽたりぽたりと顎の下から、水の雫が滴った。あの夢の中で、湧水を飲んでいたのは、徒野本人だったのか。頭の中が、混乱してきた。そして、じっと目を凝らして、もう一度塚の上を眺めてみた。
まったく気がつかぬうちに、塚の上にひとりの乞食がやって来ていたようである。静かにぼんやりと、そこに座り込んでいる。徒野が顔を上げて、そちらを見ているのにもかかわらず、ぴくりとも動かない。自分が見られていることにも気がつかない、相当に鈍感な乞食なのだろう。
全くの予期せぬ出来事であったため、驚きを隠せぬ徒野がそこにいた。塚の上の人は、特に何も感じてはいないようだ。徒野だけが、ひとりで動揺をしていた。ようやく役目を果たして、晴れやかな気分になっていた浮島の塚で、突然このような状況に陥ることになるとは、想像だにしなかった。徒野もまた、塚の上の人と同じように、その場でぴくりとも動かずに、成り行きを見守っていた。
だがしかし、じっくりあちこち観察して見てみると、あれは、どうやら乞食ではない。ましてや、人ですらないようにも見える。どこか不思議な感じのする、薄汚れた、見すぼらしい身なりの、ほとんど骨と皮だけになっている、とても小柄な老婆が、そこにいた。見るからに、この世のものとは思えぬ佇まいの老婆である。
(あそこにいる老婆は、本当に、まだ生きているのだろうか。もしかして、座ったまま死んでいるのではなかろうか。いやいや、それよりも、何よりも、あれが本物の人間であるのかどうかということの方が問題ではないだろうか。かつて、ここの底なしの沼に落ちて死んだ人の亡霊か何かが、この古い塚の周りにはうようよと漂っているのであろう。あれも、そのうちの一人なのではないか‥‥)
ちょっとでも、疑う気持ちをもって考え始めた徒野の頭の中には、いくつもの疑念が止めどなく湧き出してきた。
(もしかして、あれこそが、ヤーナの本当の姿なのではないか。わたしが、新しい卒塔婆石を置いたことに憤って塚の上に出てきたのかも知れない。いやいや、恐ろしい巨大な怪物が、あんなみすぼらしい小さな老婆に化けるなどということが、果たしてあるだろうか?)
しばらく、これがどういう状況であるのかを、全く把握しきれずに、あれこれと考えあぐねる時が流れた。塚の下で、徒野はまだ固まったまま少しも動けない。
(それとも、見たままの、ただの浮浪する乞食なのではないか。何も知らずに、この浮島に迷い込んできてしまっただけなのではないか。もしくは、各地を巡り歩いている放浪の比丘尼だろうか。しかし、それにしては、あまりにも歳をとりすぎている。いやいや、そんなことはない、あれはただの何の変哲もない、この近所に住むただの老婆なのではないだろうか?)
だがしかし、そにいる老婆には、ただそこに腰を下ろして座っているだけにも関わらず、不思議な威厳が漂っていた。ただの近所の老婆には見えないし、物乞いらしい下卑た感じが染み付いているような様子もない。薄汚れて今にも朽ちてしまいそうな姿であるのだが、そこに不思議な気品のようなものが感じられた。
(誰なんだ、あれは。いや、確か、あれは‥‥。ずっと以前に、どこかで会ったことがあるような気もするし、一度も会ったことがないような気もする。はて、あのような風体、身なりのものと、これまでにわたしは、親しく話をしたようなことがあっただろうか‥‥)
徒野は、ようやくのことで、ゆっくりと立ち上がった。もしかして、自分の知り合いなのではという思いが頭の中に引っかかり、とにかく塚の方へと静かに歩き出してみることにしたのである。しかし、その体は、まだ少しばかり重く感じられた。
(何だ、この体の重さは。まるで石のように重いじゃないか。一歩踏み出すごとに、地中へとめり込みそうだ。いやはや、あれほどたっぷり寝たのだから、旅の疲れなどすっかり癒えていなくてはおかしいだろう。違う、これは逆にそれくらいに長いこと寝てしまった疲れからくる、体の重怠さなのかも知れぬ)
そして、すぐに徒野は、先ほどまでとは周囲の様子が全く違ってしまっていることに気がついた。浮島の上には地表そのものが盛り上がるように、土が剥き出しになった塚があったはずなのだが、今や一面が緑の草で覆われていしまっているのである。寝ている間に、季節が移り変わってしまったのだろうか。徒野は、青々とした草叢をかき分け踏み締めながら、塚の上にのぼっていった。
じっとしたままで、ぴくりとも動かない老婆が、そこにいた。目の前に徒野が来ているのに、ちっとも気づく様子はないようだ。しかも、その老婆が腰を下ろしているのは、どうやら、塚の上に徒野が安置した、あの卒塔婆石なのである。しかし、徒野が運んできた、あの石よりも、少し小さくなってしまっているようにも見える。よく見てみると、石は半分近く塚の土の中に埋まってしまっている。それに、かつては石の正面にうっすらと浮かび上がっていた如来像が、すり減ってしまったのか、もうまったく見えなくなっている。
(これはどうしたことか。ちょっとばかし眠ってしまっていた間に、いったい何があったというのだろう)
徒野は当惑していた。だが、もしかすると、この目の前にいる老婆が、今ここで起きたことを、ずっと目撃していたかもしれない。何かことの次第を知っているのではないか。そう思って、恐る恐る声をかけてみた。
「そんなところに座り込んでおられますが、どうかしましたか?お体の加減でも悪いのではないですか?」
「歩き疲れていて、足も体もみなつらいのです。ですから、このちょうどよい石に腰掛けて、ひと休みしていたところです」
「あなたが、どれほど長いこと、歩いてきたのか、わたしは知らない。だが、今、あなたが腰掛けられている石は、恐れ多くも卒塔婆石ではないでしょうか、いわゆる仏舎利でもあります。そうした塚の石の上に座ることを、あなたはなんとも思わないのでしょうか?」
「いや、いや、それならば、これが卒塔婆であるからこそ、わたしは、ここに座ったというべきでしょう。だが、見たところ、この石は、長らく雨風に晒され続けていて、もはや何のしるしももっていない。だとすると、見た通りに、ただの石というべきものでもありはせぬか」
「そうと知っていながらに、そこに座るというのは、どういうわけでございましょう。舎利仏を尻の下に敷くこと、それが仏に対して大変に礼を失した行いであると、あなたはつゆほども思わないのでしょうか?」
「いや、かつては舎利塔でありしものだとて、今では、ただの座って休むのに手頃そうな石となっている。それをそういうものと知りながらにそれに座らぬというは、疲れ果てたるわたしの目の前に、石となりて表れし仏の回向を、かえって辱めてしまうこととなるのではありますまいか?」
「だがしかし、そのような行いは、順縁に外れることなります」
「いや、順縁だけが仏法の道にあらず。しからば、逆縁なるがゆえ、順縁よりも、より縁は深まるともいえよう。そして、もはや、それだけで、道は特別なるものともなりましょうぞ。その特別なるお世話によって、よりよく救われもするのです。つまり、この石に座るものは、必ずや成仏をする」
「なるほど。御説ごもっとも。いかなる縁にありしも、菩提は一なり」
「極楽の内なればこそ悪しからめそとは何かは苦しかるべし」
「あなたは、いったい誰なのですか。仏道に通じた、その鋭い透察には、わたくし心より感服いたしました」
「誰かと問われたれば、大変にお恥ずかしいことではありますが、答えぬわけにはゆきますまい。名乗りましょう。わたくしは、出羽国の郡司、小野良実の娘、小野小町の成れの果てでございます」
「あ、あなたが、やはり、あの、小野小町であると‥‥」
徒野は、実際には小野小町が誰なのかをよく知らなかった。しかし、目の前にいる老婆とは、これまでにも何度となく会って話をしているような気がしていた。今、この塚で交わしている会話も、遥か遠い昔に、ここで、この老婆としたような気がするし、遥か遠い未来にも、この老婆とするような気がしている。そして、この老婆が、小野小町ということも、もうすでによく知っていて、最初に見かけた時から、ちゃんとそれを心得ていたような気がしていた。だからこそ、今こうして気安く話しかけるようなこともできているのであろう。
「いいですか、少将、よく聞いてください。これから話すことは、いつか必ず、あなたにも理解することが可能になるでしょう。だから、今はまだ、黙ってよく、わたしの言うことを聞いていてください。まず、最も大事なことから言っておきます。この場所は、太古の昔から存在している、強力なパワースポットなのです。わたしは、九十九年ごとに、ここにきて、ここの湧水を飲み、心身ともに若返っているのです。そうやって、美しき若かりしころの小町に、何度も何度も戻っているのです。あなたも、今ここで、湧水を飲んだでしょう?そして、飲んだそばから、もう若かりしころのあなたに戻っているのですよ。そのことに気がつきませんでしたか?おお、徒野少将、そなたが選ばれしものであることが、今ここで、ようやく明らかになったのです」
「な、なぜ、わたしのことを、あなたが、すでにご存知なのでしょう?」
「それは、これが、この場所で、こうして会い見えるということが、わたしたちにとっては、避けがたい運命だからなのです。簡単に言ってしまうと、ここにあるのは、若返り、アンチエイジングの泉なのです。また、それは、われらのような時を知らぬ浮草の如きさだめのものを誘う水でもあるのです。あなたも、いつかきっと、またここに、大いなる善と悪の力によって導かれ、やって来ることでしょう。そして、いつの日か、あなたとわたしは、ここでまた、こうして出会うことになるのです。何度も、何度も、始まりも終わりもなくなってしまった時間のなかで‥‥」
「ちょっと何いってるかわからない」
「ほら、少将よ、もっと近くに寄りなさい。あなたの顔を、よく見せてくださいな。次に会うときにまで忘れてしまわないように。ほれ、もっと近くへ、おいでなさい‥‥」
老婆が、ものすごい力で徒野の手首を掴んで、ぐいぐいと引き寄せようとする。
これに驚いた徒野は、急に頭の奥が芯からくらくらと痺れてくるのを感じた。
(わたしは、誰だろう?)
老婆の細く尖った爪が、腕の皮膚にぎりぎりとめり込んでくる。その皺だらけの手を、力まかせに振り払うと、徒野は、塚の上でバランスを崩し、そのまま後に勢いよくひっくり返ってしまった。そして、塚の上から、もんどり打って転げ落ちた。

ごすい

太陽は、ほぼ真上にきていた。古い塚の上にも強い日差しが降り注いでいる。しばらくして、草叢で正三が目を覚ました。生い茂った草の中に顔を突っ込んで、うつ伏せに倒れ込んだままの体勢で。
眩しい光に目を回してしまったのか、頭がくらくらしていた。それでも、正三は寝そべったままの姿勢で、少し顔を上げてみた。そして、やや怪訝そうな表情で、両の目をしばたかせつつ、あたりをじっと見回してみる。
どうやら、いつの間にかごすいの塚の上で、ばったりと倒れ込んで昼寝をしてしまっていたらしい。普段なら、こんなところには絶対に近寄らないというのに。よりによって、こんな気味の悪い場所で寝てしまうとは。われながら、ちょっと信じられないことであった。こんなところにいる姿を村の誰かに見られたら、それはそれは大変なことになるだろう。
「ああ、なんと。こともあろうに、こんな所で寝てしまうとはなあ。しかし、さっきのあれは、何だったのだろうか。何というか、夢とは思えぬ夢であったが‥‥。とても眩しくて、とても熱くて、とても息苦しくて、眩暈がしてくるような、そういったものが、目一杯に詰め込まれている、何かであったと思うのだが。ちょっと、何と言っていいのか、自分でもよく分からない。あまりにも雑多で、あまりにも渾然一体になっていて。だけれども、あのひっくり返って落ちてしまってから先のことが、何故だか、ちっとも思い出せないのだが‥‥」
上体を起こして、のそのそと立ち上がる。顔のあちらこちらに、草の葉や草の葉の痕がついていた。両手で頬をさすりながら、周囲に誰もいないことを再び確認した。
(やっぱり、誰もいないのか。あれは、みんなみんな、夢だったのだろうか)
そう思いつつ、ふと足元に目をやると、そこには、空になった椀と、井戸の水を汲んできた手桶があった。そして、塚の上の小さな石の脇には、老女が使っていた竹の杖が、無造作に転がっていた。
「こっ、これは。な、何ということだ。もしかすると、あれは、何から何まで全て夢ではなかったということなのか。それならば、あの人は、やっぱり本当に、ここにいたのか。本当に、ここにいたのだ。本当に、本当に‥‥」

その後、日本三大美人の一人とされる、小野小町が、わざわざそこに湧き水を飲みに訪れていたことが、あらためて知られるようになる。武蔵国の片田舎の村の井戸は、評判の井戸となった。井戸の水は、杖いらずの井戸の若返りの水と銘打たれて、街道をゆく多くの旅人の喉を潤した。
ただし、あのとき正三のほかには、誰ひとりとして小野小町らしき若い娘の姿を見かけたものはいなかった。そのため、小野小町が井戸の水を飲みにきたという逸話は、ただの作り話だとする人々も決して少なくはなかったようである。実際、いくらなんでも小野小町はもう存命ではないだろうから、偽の小野小町が来たのだろうと思っている人が、ほとんどではあった。そして、正三も、そのことについてあまり多くは語らなかった。
また、村の井戸は、いつからか小野小町にあやかって、けそうの井戸という呼び名でも知られるようになった。そこに来た小野小町が本物か偽物か、などということは、もはやその頃にはもうどうでもうよくなっていた。その水を飲むだけで、化粧をしたように小町並みの美人になるからそう呼ばれるようになったとも、その水で小野小町が顔を洗い、井戸のそばで化粧をしたからそう呼ばれるようになったのだともいわれている。しかし、本当のところは、よくわからない。
小野小町が倒れ込んで眠ってしまったごすい塚(別名、いねむり塚)は、参詣すると歩けなかったものが歩けるようになるだとか、年老いたものが若返るとか、難病が治るともいわれて、いつからか多くの人々が訪れるようになった。
その昔には、ごすいの塚の前で参拝し、賽銭を投げ、小野小町が腰掛けた石に当たって、ちんとよい音が響くと、御利益が増すともいわれていた。現在は、塚全体が稲荷神社の境内となっていて、塚の石や境内の池に銭を投げ込む人はもうほとんどいない。
後に、無量寿寺の天海僧正を、若く美しい僧が訪ねてきたことがあった。はるばる海を越えてやってきて、ごすい塚の腰掛け石に詣でて、三日間に渡って経を唱えた。そして、最初に浮島の塚ができたときのことなど、塚にまつわるあれこれの縁起を、無量寿寺の僧侶に事細かに語ったという。ただし、その直後に、その若い僧は、山門を出たあたりでぷっつりと姿を消してしまったらしい。日枝社の底なしの井戸に飛び込んで、身投げしたところを目撃したという村のものが数人名乗り出てきた。だがしかし、いくら捜しても、井戸の中からは何も見つからなかったらしい。
あのとき、ただひとりだけ小野小町に会うことができた正三は、ごすい塚での事件の少し後に、せんばの薪炭問屋の娘ゆうこを嫁にもらい、後年は問屋業や水運業でも成功をおさめ、三人の子をもうけて永く幸せに暮らしたという。
また、小野小町が旅の友として大事に持っていた杖は、年老いて足を悪くした正三の母が「こりゃあ、ちょうどいい」といって、しばらくの間は、どこに行くもにも手放さずに使っていた。しかし、その後の杖の行方を知るものはいない。

やなた

あの時、わたしは朝鮮李氏王朝からの通信使の一員となって江戸へと向かった。まずは海路を釜山までゆき、そこで渡航の準備をしていた一行にかけ合い、随行の僧侶の一団に加えてもらえるように、うまいこと算段をつけた。実際には、わたしのために使節の役目を辞退するものが、最初から団員に推挙されるように手配してあったため、話そのものはとてもすんなりと通った。
そのころ、ちょうど江戸では上野に寛永寺が創建されたばかりであった。この寺院を開いた天海僧正と面会することが、わたしの表向きの通信使に加わる理由であった。天海僧正は、江戸幕府徳川将軍家とも縁が深く、当時の政治権力の中枢にとても近い大人物であった。アヌラダプラの僧院の阿闍梨からの東叡山開基を祝う書状つまり手紙を携えてきていることを、事前に対馬藩大目付役を通じて伝えてあったため、ほどなくして寛永寺にてお目通りがかなった。
この面会において、武蔵国の無量寿寺を訪問することを天海僧正から直々に許可されたのである。天海僧正は、終始にこやかに微笑んでおられた。まるで古い知り合いにでも再会したかのように。わたしも、天海僧正とはこのとき初めて直接お会いしたのだが、とても懐かしい気分になっていた。実際、わたしたちは、お互いのことを、もうすでに、とてもよく知っていたのである。
長きに渡り武州川越の無量寿寺は、江戸に寛永寺が開基するまで、東叡山と呼ばれる東国の総本山であった。こちらの寺院でも、天海僧正が、ずっと住職を務められておられた。そのため、寛永寺での面会の際に話を通しておけば、もはや誰にも邪魔だてされることなく、すんなりと事を進めることができたというわけである。
つまり、わたしの江戸行きには、もうひとつの大事な目的があったということである。それが、無量寿寺に詣でて、寺院のほど近くにある、あの例の浮島の塚に赴くことである。そこで、塚の上に安置されている、アヌラダプラの阿闍梨が運ばせたとされる卒塔婆石に、大小の経をささげて法要を営なむ。それが、わたしにとっての第一の隠された通信使に加わる理由であった。
実際にそこを訪れてみると、古い塚はもうすでにかなりうら寂れていた。深い草に一面が覆われていて、風雨にさらされた卒塔婆石も、塚の土の中にほぼ埋もれてしまっていた。井戸は、もう涸れてしまったのだろうか、その近くには痕跡すらなかった。また、湧き水らしきものも、さっぱり見当たらなかった。近くの沼地から水を引いているように見える浮島の小さな池だけは、少しそれらしく怪しげであったが。
わたしは、三日間に渡って、毎日塚に足を運んで、卒塔婆石の前で経を唱えた。異国から来た僧侶が読経しているというので、物珍しがって近隣の村落からも見物に来るものが結構いた。だがしかし、やはり小町も徒野も塚にはやって来なかった。二人を誘き寄せるために仕組んだ大芝居だったのだが、どうも失敗に終わったようだ。もしかすると、わたしに気がつかれないように、こっそりと近くには来ていたのかも知れない。だが、きっとわたしに直接会うことは避けたのであろう。またしても、わたしに西方へと連れ戻されてしまうかも知れぬから。
阿闍梨からは、いつもいつもすぐに二人を連れ戻すようにきつく言われていた。そのため、わたしは、ずっと二人のことを追っていたのである。だが、これがなかなか捕まらない。あの無量寿寺の法要から、もうすでに四百年もの月日が経とうとしているが、わたしはわたしの使命をまだ果たせてはいないのだ。
きっと、わたしには二人を連れ戻すことはできないのだろう。そのことを、わたしは実はもうすでによく知っている。元はといえば、あのような二人を生み出してしまったのは、このわたしであるのだから。あの二人とて、わたしのことはよく分かっている。わたしとて、あの二人のことはよく分かっている。いずれにしても、苦労して連れ戻しても、またすぐ元に戻るのだ。だから、そんなことをしても、ちっとも意味はないのではなかろうか。
わたしが、あの不思議な土地に、初めて足を向けたのは、太古の昔のことである。この俗界の東の端のフシマなる場所に、魔の力が湧きだしている場所があると伝え聞いたからである。まだ若く血気盛んな少々自惚れ気味の修行者であったわたしは、大きな使命感に燃えて、そこに向かった。その深く大きな淵に、わたしは妙高の土を盛って島と塚を築き、その上に結界の石を安置して蓋をした。だがしかし、それだけでは、全く十分ではなかったらしい。
あの七ツ釜の塚のすぐ近くに、円仁が無量寿寺を開き、後に天海がその寺を再興させたのも、おそらく決して偶然などではないのである。彼らもまた、あの場所の魔の力に魅せられて、あの水の力に取り憑かれ、それが何を意味するのかを、よく知っていたのであろう。しかしながら、あのものたちは、水の神に選ばれしものたちではなかったようだ。誠に幸いなことに。よって、彼らが真に望んでいた、無量なる寿つまり無量なる光を包蔵した新しき仏法を、あの地において打ち立てることは、残念ながらかなわなかったのである。だがまあ、そんなことは、わたしの知ったことではない。本当に、どうでもよい話である。
しかし、わたしが塚を築いてから約千年ほど後に、小町なるものが旅の途中にあの場所を訪れ、その地の湧水を口にした。その際に、その水のもつ不思議な力に、あのものはどういうわけか誤って気がついてしまったのである。それとも、最初からそれと知って、わざわざあんなところまでやって来ていたのだろうか。あの頃、ちょうど塚の封印が解けかけていたことは確かである。そのためであろうか、小町は、選ばれしものとなり、あのフシマの水を飲むことで何度でも若返る、不死のものとなった。百年ほど生き、皺くちゃになるまで年を取っては、塚に戻ってきて、水を飲んで瑞々しく若返る。それを繰り返すことで、何度も何度も小町は小町として生きることが可能になった。よって、もはや、あれは、人ではない。言い方はわるいが、ある種の魔物なのである。
そこで、わたしは新たに策を講じた。小町が生まれるよりも以前の時代に生きていた徒野を選び出し、再びフシマの魔の力を先んじて封じ、小町にあの湧水を飲ませないようにしようと考えたわけである。だがしかし、こちらの計画も敢えなく失敗に終わった。わざわざ徒野をマラッカまで呼び出して、わたしが直々に卒塔婆石を授けたにもかかわらず。
石運びの役目を負わされ耐え難いほどの疲労と喉の渇きを覚えていた徒野は、塚の側にじわじわと染み出してきていた湧き水を、動物的な嗅覚で探し当てて、まんまと飲んでしまったのだ。そして、徒野もまたその場で若返り、死を遠ざける魔の力を手にしてしまった。後に、小町が百歳を過ぎてここに戻ってきた時、湧き水を見つけ出すことができず、塚の上で昏倒してしまうというようなことがあった。その際には、前もって近隣の村で百姓として生きながら小町がくるのを待ち構えていた徒野が、甲斐甲斐しく水を運んできて、小町の危機を救ったりもした。
小町も徒野も何度も何度も若返るだけでなく、どうやら繰り返し同じ生を生きる方法も会得しているようである。そうすることで小町と徒野は、次にまた若返って生きる小町や徒野に、その生を最良の形で繋いてゆくための、最良の生きる道を伝えてゆくことが、いくらでもできるようになってしまった。何度も若返り、何度も同じ生を生きて、その生に対して、どこまでもどこまでも詳しく賢くなってゆく。そのための時間が、二人には、たっぷりと無限にあったのだ。そして、影になり、日向になり、互いに助け合って、危機を乗り越えてゆく。何度も同じ生を繰り返し生きているうちに、こちらがあちらこちらに罠を仕掛けていても、それを切り抜ける道を、いつの間にか見つけ出してしまうのである。
これまで、わたしも何度となく二人を連れ戻したことがあった。だが、すぐに阿闍梨つまり慈悲深い菩薩の目を盗んで、また十悪五逆の渦巻く娑婆へと舞い戻ってしまうのである。そしてまた、以前と同じ生を、何度も何度も若返って、生き直すのである。わたしが仕掛けた罠などには、もう二度と引っかからないように細心の注意を払いながら。そして、同じ失敗を繰り返さぬように、二人で知恵を絞って常に協力をしている。そういう意味では、小町も徒野も、生きるということに対して、とても真面目で勤勉なところがある。
そんな二人のことを見ていれば、わたしなどがもはや何をしても無駄なのではないかと思うようになってくるものだ。元々は、わたしに魔の力を封じ込めておけるだけの力がなかったということでしかないのである。そのことの動かぬ証であるのが、あの二人なのである。こういうことは、後になってから何をしたって始まらないのだ。小町と徒野という特別な二人を選び出してしまったのは、やはりどう考えても、わたしでしかないのである。
徒野は、なぜかいつもいつも荷物を運んでいる。わたしが、あの時に大変に重い石を背負わせてしまったせいで、荷物を運ぶことに変な思い入れができてしまったのだろう。思いもかけず、あの湧水で会得してしまった不思議な生命の力を、常に誰かの荷を運び続けることで、周囲の人々にとって何か役に立つ存在となり、少しずつでも世間人々の生活の中に環流させてゆこうと考えているのではなかろうか。
しかし、わたしから言わせてもらえるならば、どんなに沢山の重い荷物を運んだところで、もはや徒野に取り憑いてしまっているさだめがどうなるということもないのである。ただ、徒野にとっては、多くの人々の重い荷を運ぶことが、あのものの終わりなき生を生きる上での、ちょっとした気休めぐらいにはなっているのかも知れないが。
現在では、どんな荷物を運ぶにしても、ミニバンに載せて配達ということが多いようである。昔のように、重い荷を背負って足で運ぶというようなことは、もはやほとんどないようだ。それでも、それぞれの時代にあった運送や配達の仕事を通じて、徒野が、いつの時代にも人々の役に立てていると感じ、少しでも気休めの感覚を得られているとよいのだが。まあ、あの永遠のタフガイ、徒野のことであるから、多分そこらへんのところは大丈夫であろうが。
小町は、何度も何度も若返って、やはり常に色と恋の世界に生きる小町であり続けている。己の見た目の美しさをよく知るからこそ、それに違わぬ生き方をしているだけなのだろうが。無常なるもののあわれの感覚とともに、華麗に咲き誇りやがて萎れてゆく花のように生きることこそが、やはり小町のさだめなのである。
かつては、津々浦々でなんとか小町と呼ばれるようになったりして、いつも周囲からちやほやされていたが、今ではインスタグラムで何十万人だかのフォロワーを集めて、美容系のインフルエンサーだか、ユーチューバーだかティックトッカーだかと称されるものとなり、それなりに今まで以上の活躍をしていると聞く。わたしには、ちっとも理解できぬ世界の話ではあるのだけれど。おそらく、そのうちに、また時代とともに活動の場所をいろいろと変えてゆくことになるのだろう。何度でも若返り、時代にあった新しい小町像というものを、いつだって追求し続けているようである。なかなかに大したものではないか。
わたしは、今もまだ浮島の塚にほど近い龍池にいる。かれこれここで数千年もの間、小町と徒野が来るのを待ち続けていることになるだろうか。小町と徒野が、あの小町と徒野になる、ずっと前から、わたしはここで待っているのだから。最近は、例の湧き水を飲める場所も限られてきている。浮島の塚のすぐ近くの水源は、周辺の宅地造成のあおりを受けて、すっかり暗渠化されてしまっている。いつかきっと、あの水源と地下の水脈を通じてつながっている、この龍池にも水を飲みにくると思うのだが、これがなかなかやって来ない。
まあきっと、とっくの昔に、わたしの本当の姿が、龍のヤーナであることは、二人には感づかれてしまっているのだろう。だから、ちっともここに寄りつこうとしないのだ。かつて、年取らずの川に隠れ住み、寝床としていた頃のことである。いきなり円仁なるおかしな坊主がやって来て、川の水の流れを封じてしまった。やがて、川は見事なまでに干上がった。仕方がなく、わたしは、さらに上流へと川を遡り、この小さな池に逃げ込まざるをえなくなってしまったというわけだ。だがしかし、その後すぐに、今度は池の脇の斜面の上に弁財天の祠が建った。それからというもの、わたしは、ここに、この池に、封じ込められてしまっているのだ。まんまと、してやられたのである。
あの円仁が、弁財天を篤く信仰していたことは確かである。しかし、無量寿寺から少しばかり離れた、この龍池に弁財天を祀ることを決めたのは、本当に円仁であったのだろうか。すでに、寺の裏の池には、弁財天が祀られていたではないか。おそらくは、誰かが、この龍池や年取らずの川を封じることを、何らかの方便を使って入れ知恵して唆したのであろう。それは、やはり小町なのだろうか。それとも、徒野なのだろうか。
だがもう、そんなことはどうでもいい。わたしは、ここからずっと、全てを見渡すことができているのだから。そして、ここでずっと、小町と徒野がやって来るのを、静かに待ち続けている。その日が、いつかやって来るまで。

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