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映画『いとみち』レビュー

【小説の面白さに映画の演出が加わって強まった家族の絆、ヒロインの成長】

 越谷オサムの原作小説に触れて8年ほど。映画化されると知って嬉しくなって小躍りした『いとみち』が、いよいよ劇場公開となって、劇場に行って見て感嘆した。映画化することとは、映像化することとはこういうことなんだと感じ入った。

 濃い訛りの津軽弁を話す相馬いとは、高校生になって引っ込み思案の性格を直したいと、青森市内にあるメイド喫茶で働き始めるが、「おかえりなさいませ、ご主人様さま」という定番の挨拶が、どうしても「お、お、お……おがえりなさいませ、ごスずん様」になってしまう。慣れない仕事に失敗も続発。おまけに、店の方に存続に関わるような大事件が発生してしまう。

 決して楽ではない環境の中、先輩たちに恵まれ、店長にいたわられ、オーナーに気に入られ、お客さんたちにも好かれて1歩1歩成長していく。以上が『いとみち』という小説の基本となるストーリーだが、映画では小説とは違った設定や展開が、幾つも取り入れられていた。

 例えば、豊川悦司が演じていたいとの父親は、地元出身という小説の設定が変わって、東京から来て地元の女性と結婚し、居着いた学者になっていた。このことで映画は、同じ家族だが妻を亡くしてそのまま妻の実家で暮らす、婿養子的で外様的な雰囲気を纏いつつ、地元となった津軽を慈しんで学問に励み、伝承の収集に頑張っている学者であり、娘のために良い父親であろうとする優しさが感じられる人物になっていた。

 もうひとつ、いとと祖母が濃い津軽弁で会話をする間で、ひとり標準語を話す父親が間に挟まることで、何を話しているかが感じとれるようになっている。小説では地の文が標準語になっているから分かる津軽弁の会話の内容も、映画は言葉だけで字幕などでずそれだけでは理解が及ばない部分もある。それを映像による情景と、父親の標準語がカバーして完璧ではないまでも理解できるようになった。意図したかは分からないが、ひとつの工夫のような気がした。

 相馬いとというヒロインも原作とは変わっていた。引っ込み思案の性格に合わせたのか小柄の少女になっていたが、映画では170㎝の駒井蓮が演じていた。女性にしてはなかなかの長身。それでいて性格は奥手で、臆病で引っ込み思案で口べたといったギャップがユニークで、働き始めたメイド喫茶で先輩メイドから、「電信柱かい」と突っ込まれる姿から、内心に覚えた気恥ずかしさが伝わって来た。同時にそうしたセリフが加わることで、長身だという設定がストーリーに馴染んで、違和感を覚えさせなかった。

 通っている高校の授業として、弘前市にある弘前れんが倉庫美術館を訪ねたいとたちが、青森大空襲に関する話を聞くシーンも、映画で新たに加えられた場面だが、戦争の悲惨さを映画に交えて訴えたいというメッセージ性よりは、過去にもいとのような女子高生たちが青森にいたことを対比したいといった意図が感じられた。心が動く経験を与えることで、同級生の早苗にいとが声をかけるきっかけを作ったとも言えそう。それが物語の後半で、いとが何か自分でも出来ることはないかと考え、三味線をメイド喫茶で演奏する道を開く。

 いとが友人の家に行くと言って出てから入った図書館で、居眠りしていた時に見た夢はすでにいとの母親が他界していることを分からせる役割を果たしていた。冒頭のいとによる「人が歩けば道ができ、道を振り返れば歴史という気色が見えるど言う。わあの歴史はまんだ、どごさ見当たらね」というモノローグは、終盤のいとが父親と登る岩木山のガレ場のように石が並んだ登山ルートと重なって、いとが色々な経験を通して歩き登ってきた道があること、そして先へと続く道があることを感じさせてくれた。

 そうした細やかな構成と編集の上に、個々の役者たちの演技があり、それらを仕切る横浜聡子監督の差配もあって映像作品としての『いとみち』ができあがった。小説版から得た、ひとりの少女が葛藤しながら成長していくという軸をしっかりと活かしつつ、いろいろな人たちの思いが描かれ、それらについて考えさせられ、受け止めたいと思わせる映画になった。

 津軽三味線という楽器であり音楽が重要な役割を果たすストーリーだけあって、いとを演じる駒井蓮の腕前が至らなかったら台無しになりかねない映画でもあったが、そこは9ヶ月間をみっちり練習してきただけあって、しっかりとした音を響かせてくれた。クライマックスももちろんだが、名人の祖母と2人で弾くシーンはさらに感動的。祖母を演じる西川洋子の棹を手が自由に行き来しては滑らかに弦を抑えて音を出す演奏はさすがだが、そんな西川にきっちりとついて音を合わせてのけた。喝采を贈りたい。(タニグチリウイチ)

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