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映画『鹿の王 ユナと約束の旅』レビュー

【誰による誰のための映画なのかを惑い迷う】

 どんな映画でも、少しくらいは自分にとっての映画だと思える部分がある。中身に異論続出の映画であっても、たとえばVFX部分に優れたものがあるとかいった見方によって、少しは自分に引き寄せることができるし、そうした部分がなければ、見ている間を過ごすことが厳しくなる。

 『精霊の守り人』などで知られる上橋菜穂子による超人気ファンタジーが原作となった映画『鹿の王 ユナと約束の旅』の場合も、アニメーションのファンとして、動物たちがリアリティを持って描かれているところが凄いといった引き寄せ方をできるのだろう。とりわけ自分で絵を描く人ならとくに、そうした描き方について改めて触れて、自分もかく描きたいといった啓発を得られるのかもしれない。

 だやはり、物語があってこその映画という観点からすれば、そこの部分に戸惑いが見られる作品への関心はなかなか膨らませづらい。『鹿の王 ユナと約束の旅』についても、絵描きが絵を描きたいとか、絵描きに絵を描かせたいのならそれはパーソナルなスタディとして行った上で、映画という形にした時には観客というパブリックな存在に向けてしっかりと物語を見せて欲しかった。ファンを大勢持つ原作のためにも。

 国家間の争いの中で隷属させられた側から、疫病を生き残ったひとりの男が立ち上がっては、同じように生き残った少女を連れ立って旅をしていく中で、自身も関わりがあった国家間の争いに巻き込まれたり、疫病の流行を目の当たりにした果てに、それらが解決へと向かう糸口を提供する。そんなストーリーラインにはもうひとり、疫病の秘密を追い、治療法を探そうとしている医師が絡む。

 そんな原作のおおまかなストーリーラインを、映画はいちおうは最後までなぞっている。もっとも、登場人物たちがそもそも誰で、かつて対立していた国家のどちら側に所属しているのかを即座に分からせようとする意識が希薄で、ぼんやりとは感じられても明快な色分けをされた形で頭に関係を浮かべづらい。なおかつ敗れた側でも完全に隷属して配下となっている者もあれば、反抗した者もあってそれが裏で手を結んでいるのかいないのかを判断しづらく、関係性を理解するのに時間がかかる。あるいは理解できないまま進んでいく。

 原作に綴られたエピソードを淡々とこなしている感じがあって、その上で動くキャラクターたちの例えば【独角】のヴァンだったら、隷属した状態から立ち上がって過去に悔いつつ今を打開しようとする意思、医師のホッサルだったら、国の違いなど関係なく純粋に人を救いたいという衝動的な情動が強烈には伝わって来ず、いったい何のために動いているのかを理解しづらい。故にキャラクターの誰に感情を乗せて見ていけば良いかも掴みづらい。

 ユナと名付けられた少女自身にヴァンほどの情念があるはずもなく、ただ山犬に噛まれながらも命が助かったというだけで、特別な存在になっている状況を不思議に思えてしまう。誰でも良い訳ではないのだったら、そこに運命の少女たるべき状況を乗せて欲しかった。ナウシカなら蟲への思いでありシータなら王族の血筋。そうしたものがあれば理解も進んだだろう。

 キャラクターに感情を乗せづらいということは、ストーリーにも感情を刺激される山場を感じづらいということで、全体が平易な印象を受けてしまう。雲海なり濃霧なりの中からにょっきりと立っては何か不気味な感じを振りまくアドバルーンめいた物が、何を招いてそして何が起ころうとしているのか。推察はできても回答を得られないままもやもやとした気分で進んでいく。

 それでも絵のクオリティは圧倒的で、山犬も鹿もまるで生きてそこに存在しているかのように歩き走る。自然はどこまでも豊かで人々の暮らしは中央アジアの少数民族や遊牧民族を思わせつつ、現実とは少し違った印象で目新しさを感じさせる。そこは作画であり美術の才知が存分に発揮されたと言えるだろう。人の表情も豊かなら演じる声も安定していて、目と耳にまったく違和感を覚えさせない。

 だからこそ物語が欲しかった。情動を誘う起伏が欲しかった。新型コロナウイルス感染症の大流行まっただ中という2022年2月4日に公開されながら、病そのものの大流行に怯え、慌てる人々に福音をもたらす医療の素晴らしさももっと感じさせて欲しかった。旧態依然とした病気への認識を打ち破り、技術によって人を救う医療の意義を良い問うて欲しかった。もちろんそうした描写もあるにはあるが、テーマとして鋭く突き刺さって来たかというと、ユナとヴァンの関係に終始して針先が鈍った印象がある。

 誰が作りたかったのか。そして誰に見せたかったのか。そこの部分に何かボタンの掛け違いでもあったとしたら、大変に勿体ない話だ。あるいは『伏 鉄砲娘の捕物帳』で少女のエネルギッシュな活躍と、虐げられる存在の哀しみを描いて魅せた宮地昌幸監督の存在が、まったくと言っていいほど希釈化されて安藤雅司監督の存在のみが大きく喧伝されていることと関係があるのかもしれない。それならそれで誰かにとってはひとつの成功事例なのだろう。そしてそれは決して自分にとってではない。(タニグチリウイチ)

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