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映画『イヴの時間劇場版』レビュー

【分断と差別の心を顧みて拓け融和の未来を】

 無理解で、無神経さが癇に障る。『アイの歌声を聴かせて』の吉浦康裕監督が2008年に制作してネットで配信し、それをとりまとめて2010年3月に映画として公開した『イヴの時間劇場版』を観始めて、まず浮かんだ感情だ。

 時代はロボットが実用化されて、家庭に普及し始めたくらいの未来。舞台はたぶん日本。人間そっくりのロボットも作られ、ハウスロイドとして家事手伝いをしてくれるようになっていて、命令すれば料理だってしてくれるしコーヒーだって淹れてくれる。

 向坂リクオの家にもアンドロイドのお手伝いロボットがいて、リクオはサミィと呼んでいたけれど、その行動に不審なところが見つかった。どこかに立ち寄っているみたい。けれども買い物とかで行く場所とは違っていた。

 指示したことだけは確実にこなしてくれるハウスロイドが、自分の知らないところで勝手な行動をとっている。どういうことだと訝ったリクオが、その場所を探し当てて訪ねてみたら、ロボットも人間も区別しないで扱うことをルールに決めた「イヴの時間」という喫茶店だった。

 リクオは憤る。サミィが淹れてくれたコーヒーが、「イヴの時間」で出されているイブレンドだったこともリクオの苛立ちを煽る。命令していないことを勝手に行ったからだ。そこが観ていて癇に障った。どうして憤るのか。ハウスロイドが息抜きをしても良いじゃないか。そう思った。

 ハウスロイドだろうと人間のメイドだろうと、仕事に差し支えのない範囲で何をしてたって気にしないのがオトナじゃないのか。そう思えるにも関わらず、リクオは始めのうち、サミィの勝手な振る舞いを認められず、「イヴの時間」に通い詰めてサミィが現れるのを待っていた。

 なおかつ人間とロボットを区別してはいけないというルールがあるにも関わらず、ロボットのような雰囲気を見せる客にも、そうでない人間にしか見えない客にもロボットなのか人間なのかを問うような振る舞いを止めなかった。さらには店でまるで人間ぽかった客が外では完璧なまでのハウスロイドだったことに憤った。

 どちらでも良いではないか。目の前にいる存在が人間であるかロボットであるかを気にする必要なんてないではないか。そう思える人間が、実は決して多くはないところを、実はリクオの苛立ちが教えてくれれている。

 振り返って自分はどうなのだろう、自分が使っているはずの“道具”が勝手な振る舞いを見せるようになったら、自立したと認めて歓迎するだろうか。同じ人間ですら囲い込み、支配下に置きたがる人間が、ロボットに同じかそれ以上の態度を見せるのも当然かもしれない。そんな自覚を突きつけられる。

 リクオの無理解で無神経な様が癇に障ったのなら、それは不寛容な自分自身を認めたのも同然。苛立ちはだから、自分自身に苛立っているということなのだ。

 そんな自覚を経た上で、物語はサミィや「イヴの時間」に集う存在たちとの交流を通して、リクオがだんだんとロボットたちのことを理解していく展開を辿る。観客も同様に苛立ちを鎮め、寛容と調和の中に誰もが生きていける状況を望むようになる。そんな変化を促してくれる映画だと言える。

 今さらと言うなかれ。人種だ宗教だ出自だ性別だといったことを理由に行われてきた差別を、人類はたくさんの犠牲や努力をはらって理解させて来た。それでも、ふとしたはずみで断絶が起こり、差別の意識が生まれ育まれて広がっていこうとする。

 近年はことさらに分断と差別が起こりやすくなっているとも言える。だからこそ結末で得られた理解と融和が、強いメッセージとなってあらゆる差異への差別を忌避し、退けるように働いて欲しいと切に願いたくなる。

 映画では、ロボットの排斥を訴える集団が組織化され、警察すら引き入れて広まりつつある状況から鑑みるに、政治行政のレベルで結構な感じのレイシズムが生まれているように見えた。これが現実になった時、世界はとてつもなく居づらいものとなっていくだろう。空想というなかれ。政治の中にそうした分断を煽り、一方に与することで支持を集め、勢力を伸ばしている勢力が現にあるのだから。

 物語でも現実でもその先で、激しい混乱が起こるかもしれない。それでも手をつなぎ分かり合える努力はすべきだし、その方がやっぱり気持ち良いのだと示すことによって、モヤモヤとした鬱屈を吹き飛ばせる。もしも続きの物語があるのだったら、そんなメッセージを強く感じられるものにして、現代の社会にただようこのモヤモヤ感を吹き飛ばして欲しいものだ。(タニグチリウイチ)

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