書かないと書けない

当たり前のことだけどそうだ。
書くために、他のことを一生懸命してもその間に書いてないから、書けない。
書くことより他の方が楽しい場合、書くためにそれをやってるんだっていう理由づけになってしまい余計に書かなくなる。
別に書かなくたっていい。
書くことになぜか執着していた過去の自分なんてものは、時の流れによって完全に滅した。
書いたものを誰かに読まれたければそもそもこんなアカウントで書いてない。でも完全に自分の日記としては書けない。ひとりにでも見られる可能性がある。それが文章に多少の丁寧さと他者性をもたらす。演技的になるし、少しはマシなことを書かなきゃってなる。
なるけどもう長いこと書いてないからどうしようもない。最初からどうしようもなかったんだから本当にどうしようもない。
こう言う時に大事なのは量だ。
量は力だ。物量を人は迫力だと勘違いする。
ここまで書いてきて400字?
もう4000字は書いたと思ったんだけど、本当に何も書いてないから書く力がない。

お祭りの日だったけれど雨が降っていた。蕎麦屋でかけ蕎麦とおろしそばと山かけそばを食べた。麺が絶妙な硬さで美味しかった。コンサートでオーケストラを聴いた。ジャズドラのリズムがすごい。会うべくして会うことになった人と会った。これからどうなるのか。相手が自分のことをどう思ったのかが気になった。
普段全く気にならないのは、気になる環境にいないからなんだろうなと思った。

毎日なんでもいいから1000字は書いていきたい。言葉の羅列でも引用でも埋めれば上出来だ。希釈されてくホメオパシーみたいな文章に意味があるの?
こう言うこと考え始めて人生が半分経とうとしている。なのに書いている文章の少なさときたら。ともかく書かなきゃ始まらないんだろう。そして文章に意図がこもってなかてはいけない。

文章を人に届けるためにはまず伝えたいって気持ちがなによりも強いことが重要だ。内田樹の街場の文体論で講義で注意する時の声はなぜ届くのか? のはその人に伝えたい意思があるからだとかなんとか言っていてなるほどと思った。しかし声大きくしてるだけじゃないのか? 他の理由もありそう。同じ本だったか忘れたけど、アイドルのファンに宛てた手紙みたいなブログがすごく良かったことを覚えている。書いている人の熱が伝わってくる。文章の熱量がある文章とは一体どう言うものなのだろう? 本当に熱がなかったとしても熱を生み出せるのだろうか?

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