コトバアソビ集「こゝろはここ」(原作:夏目漱石『こゝろ』)
「行ってきまー、あっ体操服忘れたー!」
「おかーさーん、ごめん今日友達と学食行くんだった。お弁当置いてくね」
「えー?折角作ったのに。早く言ってよ」
「俺ももう出る。今日は飲み会で遅いからな」
「分かった。夕飯はいらないね」
「食べられないかも知れないから用意しておいてくれ。簡単なものでいい」
(簡単って言っても、お茶漬けだと怒るのよね)
「分かった」
小学生と高校生の子どもに、会社員の夫。
三人を見送った後、静香はパートへ向かう支度をする。毎朝が戦争だ。
「お弁当が余分になっちゃった。まぁ自分の晩御飯にすればいいか」
と独り言。パタンと冷蔵庫を閉めて化粧を始める。
(若い頃はデパコスの限定品なんて買ったものだけど)
栄光の日々は何処へやら。今は、ドラッグストアの何百円かの口紅を買うにも悩む程。子ども二人の教育費なんて、何をどう切り詰めても足りない。
仕事は製造業の補助。誰にでも出来る仕事を淡々とこなす。
(あ〜、資格でも取っておけばもっと稼げたのかなぁ)
なんて後の祭り。
それでも家から遠くない場所にパートが見つかって、五年も続けられているのだから恵まれている。月給が10万に満たない月もあるが、有ると無いとでは家計が雲泥の差だ。
自分よりも歳の若い社員さんに頭を下げながら仕事を教えてもらい、帰りにはスーパーでずっしりと買い物をして家に着くと、息をつく暇もなく夕飯作り。特に小学生の息子の胃袋は給食を秒速で消化・吸収するらしく、
「ただいまー。おかあさん、お腹減ったー」
と言いながら帰って来る。塾へ行く日であれば送り届ける車の中でおにぎりを食べさせ、家に帰ってからが本当の晩御飯、といった具合。
高校生の娘はその逆で、今朝のようにお弁当はいらないと言ったかと思えば、
「学校帰りに友達と食べたから」
とファストフードで夕食を無駄にして、おまけに
「最近ニキビひどくってさぁ。お母さぁん、この動画で紹介されているコスメ買って〜」
と何千円もするセットをねだってくる。
「あんたこれ、お母さんの1日分のパート代じゃない。普段から野菜食べないからよ」
と説教すれば
「じゃあ、ビタミンのサプリも買って?」
と・・・もういい加減にしろ状態。
静香の毎日は、ちっとも静かじゃない。
バタバタドタドタと日々が過ぎていく。
「・・・はぁ〜〜・・・」
ある晩、静香は自分の部屋の押し入れを片付けながらため息をついていた。
35年ローンの分譲マンション。ローンを背負って働いてくれる夫には感謝しているが、和室がある部屋を選んだのは、将来夫の親を介護する可能性を考慮してのことだ。
(まだ二人とも元気だけど、いずれそうなるのよねぇ)
今はその和室を静香が自分の部屋として使っているが、先のことを考えるとこまめに私物を整理しなければと思う。ゴミの収集カレンダーを見ながら
(明日は何か捨てるものないかしら)
と押し入れを探すのが習慣になっていた。
その中で、いつも手にとっては、押し入れに戻すものがある。
どうしても捨てられないもの。
ただ今日は、手にとったそれをなかなか手放せずに、じっと見ていた。
数日後。
「はいみんな、行ってらっしゃい」
と家族を見送り、静香はストンとリビングの椅子に座った。
洗濯物は早朝に済ませている。
朝食の洗い物が残っているが、もう少し水につけておこう。
「ふぅ・・・」
ため息をつく。ただし、今朝は穏やかに。
今日静香は、珍しく有給を取っていた。
学校行事でも所用でもなく、ただ単に、シンプルに休んだ。
家族には黙って。
(言うと、何か雑用を頼まれるかも知れないものね)
テレビも照明もつけない。
朝の外光だけの部屋はとても静かだ。
この静けさを暫く忘れていた。
押し入れから取り出したのは一冊の本。
静香は中学の頃、保健室登校をしていた。
教室にはどうしても入れなかった。
(親が怒ったような泣いているような顔で私を車に乗せて学校へ連れて行って。そんな親が憎くて憎くて学校が大嫌いで)
学校へは毎日行くものだ、行かないのはおかしい。
それが親の世代の常識で、不登校という言葉すら無かった。
学校という巨大な建物が自分の全てを拒否していて。
窓の中の生徒たちがみな、自分を嘲っているように感じて。
センシティブを拗らせ、自分を追い詰めて。
保健室が静香の避難所だった。
先生が何冊かの本を用意してくれて、教科書を見るか、その本を読むかして時間を潰していた。押し入れの中にずっとあるものは、静香が中学で読んだ最後の本だ。
本の上部。天と呼ぶ場所に学校の印が押してある。
静香は半分中学に行かないまま卒業し、私立の高校へ入った。
高校も登校はしぶりがちだったが、なんとか卒業した。それからはありきたりの人生だ。働いて結婚して出産して。
上を見ても下を見てもキリがないのだから、慌ただしい毎日でも幸せなのだと思っている。
それでも・・・
ふと感じる。
自分自身は何処にあるの。
妻でも母でもパートのおばさんでもない、自分自身は何処にあるの。
本は、思い出させてくれる。
今よりもずっと狭い世界で、枕を涙で濡らしながら足掻いていた日々を。
あの頃と同じ手触りと紙の匂い。
擦れた本の角と、日焼けした本の背文字。
この本は何故か本棚に置く気がしなかった。
あの日々を日常に晒してはいけないような、そんな気がしていた。
(今日はこの本を読もう)
最初から最後まで。
高校入学が決まった春の日、静香はこの本を返すつもりで中学の図書室を訪ねた。司書のお姉さんは
「いいよ。とっておいて」
と言った。
「でも」
「嫌じゃなかったら、記念に持っていて。あなたがこの学校で過ごした日々が、無駄じゃなかったって思える日がきっと来るから」
保健室の先生から事情を聞いていたのだと思う。
司書のお姉さんは人差し指を唇にあてて、
「この本のことはうまく処理しておくわ。えへへ、でもこれ絶対内緒ね?」
悪戯っぽく笑った。
私はここに居る。現実から逃げたかったあの日々も、現実に揉まれて自分を見失いがちな今の日々も同じように、
私はここに居る。
ここよ。
私のこゝろは、ここよ。
心の中で渦巻くものを持て余して、誰にも言えなかったあの頃。
伝えなければ通じないもの。説明しても、通じるとは限らないもの。そんな曖昧な感情を封じ込め続けるのも辛くて。
大人になってから、心を理解してもらおうと思うのは傲慢な押し付けだと知った。知って大人になった。
自分の心は、自分の掌に握っていればそれでいい。
「大丈夫」
ひとり呟く。
環境や立場が変わっても、私はここに居る。
あの頃も、今も。
私のこゝろは、私のものだ。
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