「酔待草」(原作:竹久夢二『宵待草』)
フリーライターの山田西樹は酒場の記事を多く書く。
基本何でも書くのだが呑兵衛な為に酒の記事が多い。
綺麗な酒呑みで絡みもせず管も巻かない。
今日は私用で初めての町を訪れ、それでも習性と言うべきか、ふらりとホテルを出ると酒場を求めて歩いていた。月も人影も無かった。
路地裏の煤けたドアの前に『レトロバー』何某という看板が出ており、山田はドアを開けた。髭を生やしたマスターが軽く会釈をした。
大正浪漫か昭和レトロを気取った店内は薄暗く、ランプの灯りでメニューを見た山田は適当に頼んでカウンターの端に座った。店に入った時から、カウンターの奥の女が目に入っていた。
(綺麗な女だ)
しかし、声を掛けられる雰囲気ではない。
女の涙が盃に零れた。
蓄音機から古い歌が流れている。
20代か30代に見える女は店に合わせたのか古風な髪型をして、端正な横顔が美しい。その瞳が一定の時間を計っているように、ぽと、ぽと、と涙が盃に零れるのだった。
こんな時のマナーとして、山田は黙って自分のグラスを啜っていた。
マスターは酒のボトルを磨き続けていた。他に客はいない。
やがてボーンと柱時計が刻を打つと、女は黙って店を出て行った。
女の余韻が消えた頃に。
「お客様。あの女性をご覧になってましたね」
「え、あ、まぁ・・・」
マスターが穏やかに微笑んだ。
「そっとしておいて頂いて、ありがとうございます」
「なんだか悲しげな様子でしたね」
「ずっと待っていらっしゃるのですよ。ご主人の帰りを」
「ああ・・」
「そして私も待っているのです。彼女がご主人を忘れるのを、ね」
「え?」
「そんな酒があればいいのですが・・・」
マスターは静かに話した。
山田は初めての客だ。行きずりの相手だからこそ、マスターも話しやすいのかも知れなかった。
「結婚して間も無い頃、どうしてもご主人が旅立つことになりましてね。あの人は夫と別れの盃を交わして。それからずぅっと・・・ずっと、待っているのですよ。その時と同じ盃で飲みながら」
「その言い方だと、もう何年もですか?」
「ええ」
「痛ましいですね。まだ若いのに」
「本当に、この世に、辛いことを忘れる酒があればいいんですが。まぁでも・・あったとしても出せません。一滴も飲めないんですよ、あの人は」
「下戸ですか?でもさっき」
「彼女と同じもの、飲んでみますか。これです」
マスターはショットグラスに透明な液体を注いで出した。
「水じゃないですか」
「酒が手に入りにくい時代には、別れの盃も水でしたものです。私はずっと彼女が酔うのを待っています。酔った彼女に告白したいってね。つまり私は、叶わぬ夢を見ている訳ですよ」
マスターは悪戯っぽくウインクをする。
山田は笑う。
「それ、一番やっちゃあ駄目な口説き方ですよ。酒にかこつけてなんて」
「そうですなぁ。あはは」
「それにしても美人でしたねぇ。儚げで物静かで、昔の美人画のような。あんな人は初めて見たな」
「初めてですか」
それから山田とマスターは男二人で美人談義を楽しんだ。山田は綺麗な酒を呑む。下世話なネタなどではなく、自分の初恋の憧れのお姉さんから絵画やスクリーンの中の麗人まで。ライターだけあって話は面白く、マスターは何度も笑った。
夜も更けて。
「え?そんなの悪いよ」
「いえいえ、こんなに楽しい夜は久しぶりでしたよ。こちらがお支払いしたい位で」
山田は結構な数のグラスを干したのだが、お代は要らないという。
押し問答をしたがマスターがあまりに言うものだから、
「それじゃあ有り難く・・マスター、俺また来るよ。そん時は絶対払うから」
「お気になさらず。ではお気をつけて。田舎の夜は暗うございますよ」
山田が店を出ると、店はシンと静まり返った。
「あんな人は初めて見た、か・・・」
マスターが呟いた。
「普通は見えないものだが」
数日後、都会の寝ぐらに帰った山田は出版社の人間と飲んでいた。
ついでにレトロバーで見た女のことを話す。
すると隣の席で飲んでいた老人が不思議な顔をして、声を掛けてきた。
「ちょっとあんた。さっきから話しているのは△県〇町の店かい?」
「ええそうですよ。ご存知で?」
老人は首を捻った。
「・・あんた、夢でも見たんと違うかね。○町の路地裏なら、もうだいぶ前に火事で燃えちまったが」
「はぁ?」
「俺の地元でね。ありゃあニュースにもなったよ。大規模な火事だったからなァ。まだ建て替えも終わってない筈さ」
出版社の人間がそういえば、とスマートフォンで検索する。
「ああ出た、これだ。この町かい山ちゃん」
「・・あっ・・確かにそうだ」
老人が話を継ぐ。
「あんたの話聞いてて、昔話を思い出したねェ。戦争の頃の話さ。俺の親父に聞いた話サね。昔ァ出征の前に、一人もんの息子に慌てて嫁さんを見つけて祝言を挙げるってのやっててサ。でも旦那は新妻置いて戦地に行かなきゃいかんわけよ。三々九度を飲んだばかりで、今度ァ別れの盃ってね。そん時ゃ酒が貴重だったから、代わりに水でサ。そんな悲しい花嫁が旦那を待っている訳よ。でも訃報が届きゃあまだいい方で、生き死にが分からないまんまってのもザラでね。今の若いもんには分からないだろうねぇ・・」
老人はそのまま、また自分の連れと飲み続けた。
山田は狐に摘まれたような顔をしている。
出版社の人間が言った。
「山ちゃん。あんた、見るはずのないもの見たんじゃないの」
山田は呆然とする。
(そう言えば小さい頃、死んだ筈の爺さんを見たことがあった)
あの路地裏は・・・
スマホの画面に残る数年前のニュース画像。
燃え落ちた路地裏の地面には黒焦げの蓄音機。
「まぁ・・てぇ・・・ど、くぅ・・らせぇ・・ど・・」
涙が、ぽとり。
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