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「果実」(原作:太宰治『桜桃』)

 あの男が嫌いだった。

 いつもお道化て調子の良い言葉を並べるくせに、うちは毎日火の車で、母はため息ばかりついていた。
 私が高校生だったある日、学校帰りの夕暮れに、果物屋に佇むあの男を見つけた。雑踏に紛れる姿をひと目で見分けた自分自身に、これが血筋というものかと嫌気が差した。あの男は何かを買い求め、見飽きた癖のある歩き方で店を後にした。
 私は駆け寄って
「お父さん!」
とは言わなかった。とうにそう呼ぶことを放棄していた。

 傍観者の立場から見ると、顔はまぁ苦み走ったいい男で、背丈もあり、上等な身なりをさせればそれなりの場所に引き出しても見劣りがしない、食べられないけど綺麗な熱帯魚のような男。
 しかし水槽の内側から見れば、甲斐性なしで女癖が悪く女房を泣かせる男。酒でいえば見た目は綺麗な色をしていても悪酔いをするアブサンのような男。私は男というものを嫌な面から知った。

 不安定な家庭にありがちな子どもとして、私はしっかり者に育ち、母や弟を助けながら成長した。
 高校を卒業し就職して、実家で暮らしながら家計と家事を助けた。母は収入の不安定な父よりも余程私の方を頼りにしていた。建て付けが悪く傾いだ家を、私という細い柱が増えたことでようやく踏みとどまっている。そういう家庭だった。 
 
 私はあの男に反発するように、着実に地面の堅い所を選んで進んだ。小さいが安定した地元の会社で働き、真面目な恋人を選んだ。
 彼がある時
「果物ってコスパ悪いよね」と言った。
「値段は高いけど日持ちはしないし、持ち運ぶのも不便。ビタミンやミネラルはサプリで摂る方が合理的だと思う」
という理屈だった。
 その言葉にあの男の姿が蘇った。

 あの日の夕暮れ、あの男はひと籠の桜桃を買って家に帰ったのだった。
 しかも母には
「仕事で付き合いのある人に貰ったんだよ」
と見栄を張っていた。
 その頃は殆ど引き受ける仕事も無く、誰かに高価な果物を貰う謂れはなかったというのに。
 晩のおかずにもならない小さな果物の粒を、あの男は見栄を張るために買った。押し戴く母の姿が愚かに見えた。
 ただ、あの時。
 薄暗い台所の片隅に立って。
 あの男が母の髪に手を添えて。
 母が恥ずかしそうに俯く二人の姿は、私の記憶の残像となっていた。

「君となら有意義な人生を過ごせそうだから」
 交際を始めて2年が過ぎ、互いの品定めが出来た頃、私は恋人にプロポーズをされた。
「君は9月生まれだから、誕生石のルビーにしたよ」
 指輪のケースは人に向けて開くように出来ている。私は契約の証と対面した。
 妙なことに、その時もあの男の姿が蘇った。
 
(薄暗い台所の片隅・・・あの男は桜桃を手にしていた。それを簪のように母の髪に挿して、二人は微笑みあって・・・)

 あの男だったらこんな時は、優しく手に触れて、真っ赤な桜桃を指に置いて
「君への婚約指輪だよ」
と、果物を宝石の代わりにするのだろうか。
 無機質な鉱物を渡された私は、厳粛に頷いた。
 
 仕事のスケジュールのように準備は淡々と進み、華燭の典を迎えた。
 あの男の姿は無い。
 私が社会人となって間も無く、あの男は死んでしまった。
 尤も車に撥ねられて死んでくれたおかげで、親子三人の暮らしは楽になったのだから皮肉なものだ。
「お父さんにも見せたかったねぇ」
 涙ぐむ母親に私は曖昧に頷く。

(あの男が居たら)

 人に借りた上等なスーツを着て、ちょっとネクタイを緩めたりなぞして、
「どうだ。今日の新郎よりも俺の方が色男だろう」
といった顔をしただろう。
「なんだい、クリスチャンでもないのにチャペルだなんて」
と、妙に信心深い所のある性格で私を茶化しただろう。
 
 あんなくだらない男だったのに。あんな頼りない男だったのに。
 母の口から、あの男が嫌いだという言葉を聞いたことがない。
 暮らしの愚痴はたまにこぼしたけれど、あの男の悪口は言わなかった。

 あの男の何処が好きかと訊いたことがある。
 母は首を傾げた。
「・・好きな理由って、説明が出来ないわね」
 そう微笑んだ母を誤魔化しだと思ったけれど。

 私は今、恋人を伴侶に選んだ理由を明確に挙げられる。
 経済観念がしっかりしているところ。
 常識を弁え、知識もあり、世間と一般的な交際が出来るところ。
 私は一桁の足し算よりも明確な判断で彼を選んだ。
(母の『好き』とはなんという違いだろう)
 二人が過ごしていた無意味な時間には、寄り添う果実のような愛があった。
(私たちにはあるかしら・・・)
 約束された幸せが、既に色褪せて見えた。
 ブライダルロードを歩く。
 誰かが遠い所で呼んでいる。病める時も、健やかなる時も・・
 信じてもいない神様に嘘をつくのは、罪になるのだろうか。
 私は息を吸った。
「誓います」

 小さな嘘から月日が流れ、私たち夫婦に小さな事件が起きた。夫が浮気したのだ。夫は言った。気の迷いだった、君との関係が窮屈だったと。
 私は・・・何故か、ほっとした。
 夫との間には常に緊張感があった。真面目な彼が選んだのだから、真面目でいなければいけない。私の価値はそこにしかない。
 真面目は美点だと言われるが、呪いにも成り得る。
 しっかり者として成長した私は、道を逸れる事を怖れた。
 けれど目の前に、若干くたびれた中年の男が、浮気がばれて項垂れている姿を見て初めて愛おしく思えた。
 そしてこんな事位で夫を嫌いにならない自分を見て、どうやら自分は思っていたよりも夫のことが好きなのだと知った。
 浮気の件はすぐに片が付いた。私たち夫婦の間には波風も立たなかった。
「君は真面目だから、もっと怒るかと思ってたよ・・・」
 夫に言われたけれど、私は肩の力が抜けて楽になった。
 人間はもっとだらしなくて頼りなくてもいいらしい。
 遠くから振り返ったあの男が、それみろ、と父の声で笑った。

 その出来事から暫くして、商店街を歩いていた私は夫の後ろ姿を見て立ち止まった。
「どうした?」
 買い物袋を下げた格好で夫が振り向く。
「ううん。なんでもないの」
 私は笑う。やっと気づいた。夫の歩き方は父に似ている。癖のあるあの歩き方・・・この先、私はどんな人混みでも夫を見つけるのだろう。
 結婚して20年。
 あの時、神様に嘘をついて良かったと思う。
「あなた。もう一軒寄っていい?」
 この季節にあるだろうか。
 あの赤い、宝石のような果実は。

 


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