「恋う」(谷崎潤一郎「刺青」の二次創作②:恋愛)
(画像は復刻本の「刺青」背文字部分と、河出書房新社「橘小夢 幻の画家 謎の生涯を解く」p112より)
ひと目で心奪われた。次の瞬間私は目を逸らした。
彼女に、この気配を悟られてはならないから。
白い肌に静脈が沈んでいる様子は、誰しも見たことがあると思う。
其れは病人の弱々しい肌かも知れず、幼子のふくよかな肌かも知れない。
だが、私が見た彼女の肌は何に例えよう。そうだ・・
青い蜘蛛の巣。
彼女の絹のような肌の奥には、サファイアの胴体と水晶の脚を持つ蜘蛛が棲んでいて、夜な夜な糸を吐く。彼女が寝静まった夜にそろそろと動き出して澄んだ涙色の巣をかける。
「さぁ、いらっしゃい」
と獲物を誘う。
私は彼女から逃げるようにその場を去った。
二度目。
彼女と初めて会った曜日と時間を私は覚えていた。
そして、ごくさり気ないつもりで彼女の背後に位置を取った。
決して私という存在に気づかれないように・・ところが。
「こんばんは」
彼女がにっこりと微笑んだ。
(見ていたでしょう?)
その瞳は確信していた。
私が何も言えず固まっていると、彼女はふふっと笑って背を向けた。
(さぁ。見てもいいわ)
何という魅惑・・・!
彼女は真っ直ぐな黒髪をひと束にして体の前に預けた。ああ、真っ白な裸身に蜘蛛が蠢いている。彼女の細い背中、柔らかそうな手足。其れはみな蜘蛛の棲家。あれが静脈などというただの血管だと誰が言った?
「私、最近この辺りに引っ越してきたんです」
彼女は背中越しに私を見る。
「突然で失礼ですけど、後から少しお話し出来ません?私、同じ年頃の知り合いが居なくって」
こうして、私は彼女に囚われた。
私と彼女の出会いは、決してロマンチックとは言えない銭湯の脱衣所だったけれど、そんなことはどうでもいい程彼女の肌は芸術的だった。彼女は白すぎる肌と黒すぎる髪と底に光を沈めた瞳を持ち、美しすぎる蜘蛛を飼っていた。同年代だが私は社会人で彼女は学生だった。経済的に有利な私は彼女に欲しいものを与えた。いや、与えたなどとは不遜だ。無条件に捧げた。
「女郎蜘蛛はメスがオスを食べるっていうじゃない。メスはメスを食べないのかしらね?」
私が青い蜘蛛の話をした夜、彼女が言った。彼女は
「それとも、メスの蜘蛛って不味いのかしら?」と笑い
「それとも、メス同士なら互いに喰らいつくのかしら?」と更に笑った。
「ねぇ。どっちがいい?食べる方と食べられる方と」
くすくすくす・・・彼女は笑う。
「どちらでも貴女次第」
私の返事に
「誤魔化すんじゃないわよ」と、ツンと私の額を突いた。
青い蜘蛛の夢は何年か続いた。彼女は私の元を去った。
それは、ほんの僅かだが彼女の肌に翳りが見えた年の頃だった。
彼女がそれを恥じて私の元を去ったのであれば、もしかしたら、彼女は少しでも私を愛してくれていたのだろうか・・・・
彼女が去った後も、私は透明な糸に囚われている。糸は時折心地よく私を締め付ける。私の心は青い蜘蛛に吸いとられてしまったから、私の抜け殻は蜘蛛の巣に掛かる亡骸のように、彷徨いながら生きていくだけだ。
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