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「Pinky Ring」(川端康成「|金糸雀《かなりや》」の二次創作:不倫)

 
 なぜ私は奥さんのやうな方に戀が出来たのでせう。 妻がゐてくれたからではないでせうか。 ・・・・(中略)・・・ 奥さん。この金糸雀は殺して妻の墓に埋めてもようございませうね。                   川端康成「金糸雀」



 女が浮気するのは愛情の多寡ではない。
 これが依子の出した結論だった。
 生活は小規模ながらも安定している。自立出来る能力を持たない依子にとっては有難い環境だ。
 夫は真面目な普通の会社員。酒や賭け事もしなければモラハラでもない。
 それなのに他の男に目が行ったのは何故だろう。

 子どもが生まれてから夫婦生活は失われているが、別にそれが原因ではない。
 元々夫との相性は良くも悪くもなく、営みが無いからといって依子の体は悲しまなかった。
 田舎育ちの夫は家事育児は女性がするものという考えが沁み込んでいて、家の中のことは全て依子が担った。
 養われているから仕方ないと依子は不満を押し殺し、同時に
(箸一本運べないなんて、赤ん坊と同じね)
と、夫を頼り甲斐のある異性としては見られなくなった。
 夫は穏やかな性格なので、依子が断ると無理強いはしない。
 そのまま月日が過ぎ、そんな時に男と出会った。

「ねえ、一人じゃ嫌だから付き合ってよ」
 出会いは、幼稚園のママ友に誘われて行った彫金の一日教室。男はその講師だった。
「郊外に工房があるんです。アクセサリーも作っているので良かったら来てください」
 男の誘いに、依子は何故か一人で出かけ、何故か男と関係を持った。
 何度か寝るうちに
(結局私は逃避してるんだわ)
と悟る。

 現実の生活は、本当に逃げなければならない程辛いものではない。
 収入は人並みだが夫婦とも浪費をせず、子どもは一人っ子なので苦労はしていない。
 強いて言えば、本当に強いて言えば、夫が普通の夫だったから、依子は不倫をした。
 相手の男を愛し過ぎたからでも、夫へ愛を感じなかったからでもない。
 ただ、夫が居たから。
 不倫が成立するには配偶者の存在が不可欠だ。
 その要素を持っていたから自分は不倫をしたのだと、依子は思い当たった。

 ネットの中で不倫の情報を探る。大体ろくな事は書かれていない。
 自分とて夫と別れたい訳でも、浮気相手と結婚したい訳でもない。
 妻として、母としての自分から。普通の夫を持つ普通の主婦としての自分から逃げているだけ。
(一体何の為に?)
 自問する。
(逃げる為に。ただ逃げる為に)
 自答する。

 別れは些細なきっかけから訪れた。
「あっ」
 外から帰って手を洗っている時、小指に嵌めていたピンキーリングがするりと抜けた。
「ああっ!」
 華奢で小さなリングはそのまま排水口へ・・・悲鳴を聞きつけた夫が
「どうしたの?」と訊く。指輪が流されたと言うと、
「あの、教室で手作りしたって奴?それは残念だったね」と同情してくれる。
 だが、本当は男からのプレゼントだった。
「小指の指輪なら、ただのオシャレって言い訳出来るでしょ」と。
「もう一度作りに行ったら?お金は出すよ」と夫は優しい。その夫がチラリと手を見たのに依子は気づいた。
 夫から貰った結婚指輪は薬指にしっかりと嵌っている。
 ハンドソープで洗おうが揺るぎもしない。
 夫は自分とお揃いの指輪が無事だったのを確かめて、ほっとしたようだった。

 たった、それだけのことが。

 愛人から貰った指輪はあっさりと水に流れて、夫との結婚指輪が残って、それを見た夫が安堵した。それだけのことで依子は、男との関係を清算しようと思った。
(愛人に貰った指輪をしている自分に、私は酔っていたんだわ)
 男の指輪は確かにオシャレだった。デザインされた手作りの一点物。
 夫からの結婚指輪は本当にシンプルな、どちらかと言えば野暮ったいデザイン。ところが改めて見ると、それは依子の指にしっくりと似合っている。

 急に冷めた依子は男との連絡を絶った。暫くして依子は、あるものを見て失笑した。
 例の彫金教室に誘ってくれたママ友。彼女の小指にピンキーリングを見つけたからだ。
(そう言えば彼女、最近オシャレしてるわ)
 本当に勝手だが、今のママ友が浅はかに見える。

 夫という人が居て、平穏を与えてくれていたから、私は安心して危ない橋を渡っていたのだ。そのまま崖底に落ちなかったのは幸運という他無い。

(あの指輪、何処に行ったかしらね)

 何処かで引っ掛かっているか、海まで流されたか・・・
 海の底には誰彼の罪の指輪が沈んで塊となっているのだろうか。
 依子は左手を軽く握り、無骨な指輪の存在を確かめると、夫を迎える家へ帰って行った。
 




 

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