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「憧憬という名の香り」(原作:田山花袋『蒲団』)

 これは私が若い頃の話だ。誰にも言うつもりは無い。ここだけの秘密の物語だ。

 まだ青年と呼ばれていた頃、私は一枚のハンカチを拾った。
「おや」
 白いハンカチはレースで縁取られ、花の刺繍が施されていた。人影は無い。後で交番に届けようと思いポケットに入れた。そのまま失念してしまい、思い出したのは仕事を終えて帰宅してからだ。
「ああ、しまったな」
 一日中忙しく立ち働いていた私のポケットの中で、ハンカチはもみくちゃにされたらしい。机に広げて手で皺を伸ばす。その時ふわ、と何かが香った。香水でも沁み込ませてあったのだろうか。私はハンカチを顔に近づけた。
「あ・・・」
香りで驚嘆したのは、後にも先にもこの一瞬だけだ。
「何だこれは」
 私はハンカチに顔を埋めた。
 ・・芳しい、何処か懐かしい・・・優しい、切ない、胸が締め付けられ、まるで暖炉に火を入れたように心が暖かくなる・・・これは一体何の・・
 私はその香りに恋をした。

「何だい、悩ましい顔をしているじゃないか」
 声を掛けてきたのは職場で一番親しくしている友人だ。
「変な言い方をするなよ」
「いや本当だよ。いい人でも出来たんじゃないか」
「そんな事はないが・・・」
 その時、友人の趣味を思い出した。
「なあ。お前確か、恋人に香水を特注したって話をしてたよな」
「ああ。好きな女に自分だけの香りを身につけてもらう。オツなもんだぜ」
「その店を教えてくれ」
 私はあの香りの虜になっていた。道で女性と行き違えば、あの香りの主ではないかと残り香を追ってしまう。家に帰ればハンカチの元へ直行する。持ち歩きたい位だが、そんなことをしては香りが飛んでしまう。薬品を保存する瓶を入手し、ハンカチはその中に閉じ込めた。

 休日、私はその瓶を鞄に入れ友人に教わった店へ向かった。香水をオーダーメイドするという店はテーラーや専門店が立ち並ぶ高級な通りの一角にあった。「すみません。ちょっと奇妙な注文になるのですが。ある香りを再現して戴きたいのです」
 店主は髪も肌も紙のように白い初老の男だった。私の話を眉ひとつ動かさずに聞いてくれた。
「珍しいお話ではございません。香を焚いた残りの灰をお持ちになって、同じものをというご注文もございました。遺髪をひと房お持ちになって、鬢付油の種類をお尋ねになったこともございました。しかし再現については予め、ご注文には完璧にお応え出来ない場合もある、と申し上げておきます」
「というと」
「まず材料に現在入手出来ない品、輸入が禁止され在庫も無い品が含まれる場合は難しゅうございます。また何より、同じ香りでもお客様が感じる香りと私が感じる香りは異なってしまう。鼻の違いです。あるお客様で、私の調香にどうしてもご納得されない方がいらっしゃいました。後から分かったのですが、その方は鼻腔に癌を患っておられました。香りとは繊細なものです。甚だ個人的なものでもあります」
「成程・・・」
 私は店主の話を聞いた上で注文することにした。店主は私に酒を飲むか、煙草を嗜むか、仕事は肉体労働か等と訊いた。出身地まで訊かれたのには驚いた。更には
「え、お預けしなくてもいいのですか」
「ええ。一度嗅いだら忘れませんので」
 ハンカチを入れた瓶を預けなくても良いという。これは有り難かった。例え数日でも他人の手に渡したくはなかった。一流の職人とは凄いものだ。私は何か、心の重荷が軽くなった思いで店を後にした。
 
 やがて店主から連絡が入り、香水を受け取りに行った。素晴らしい出来だった。完璧は難しいと言いながら、芸術的なまでに完璧な再現だった。
 私は約束の倍、いや十倍の報酬を申し出たが店主は断った。
「唯ひとつ、僭越ながら・・・この香りは男性がお召しになるには優しすぎます。ビジネスシーンには不向きかと存じます。もし宜しければ、ですが。お客様にはこちらなどいかがでしょう」
 そう言って店主は独自に調香したという別の香水を勧めてきた。それも良かった。大海原へ漕ぎ出す航海士のような力強さを感じた。私は二つの香水を手に入れ、満足して店を後にした。

 それからの私の人生は順風満帆だった。
 中堅の貿易会社に勤めていた私は次々と大口の顧客を得て、やがて友人と一緒に独立して会社を立ち上げた。仕事は面白い位に順調だった。私はそれが、あの日店主から勧められたもう一つの香水のおかげのような気がした。香りの第一印象、大海原へ漕ぎ出す航海士。仕事で渡航する前にその香りを嗅ぐと、どんな困難も乗り越えられる勇気が湧いた。そして疲れて家に帰れば、ハンカチの優しい香りが癒してくれる。二つの香りは私の御守りになった。
 成功した私には降るように縁談が持ち込まれた。何処ぞの御令嬢だの取引先の親戚だのと煩わしい位だったが、ある日私は、またも運命的な出会いをした。かつてあのハンカチを拾った時のように、路上で偶然肩が触れた女性に恋をした。交際を続け、彼女は私の妻になった。妻はやがて母になった。その時私は、恋に落ちた理由を知った。
「いやだ、いらしたの」
 赤ん坊に乳を含ませていた妻が、慌てて胸元を掻き寄せた。
「ああごめん。向こうに行こうか」
「いいの。もう十分飲んだわ」
 内気な妻は、夫である私の前でも授乳する姿を恥じらった。家で仕事をしていた私が部屋を出たのに気付いてなかったようだ。
「よーしよし、お腹いっぱいになったか?良かったなぁ」
 妻の背後から子どもの顔を覗き込む。柔らかな頬が桃のようだ。その時、
(ああ、これは)
 一瞬私は、遠い世界を見る目をしたのに違いない。
「あなた、どうしたの?」
 妻が心配そうに私を見る。
「何でもない」
 私は仕事を続けると言って部屋へ戻った。頭の中で大きな積み木が組み立てられるような音がした。
「そうか、そうだったのか・・・」
 一人呟く。
 それまで気づかなかった。初めて彼女と路上で肩が触れた時、初めて彼女と共に寝た時、初めて見た彼女の授乳姿。彼女からはあのハンカチの香りがした。いや、恐らくその日私の前で、彼女の香りは完成したのだ。彼女自身と母乳と甘い赤子の体臭が相まって、切なく懐かしいあのハンカチの香りに。
 私は彼女の前に、彼女の香りに恋をした。私は暫し無言のまま椅子に埋もれた。私の、妻への愛は。我が子への愛は・・・いや、裏切りではない。これは運命だ。同じ香りが偶然出会う確率など、星と星が衝突する確率のようなものだ。私と彼女の出会いは運命だったのだ・・・私はこう思い直した。順番はどうでもいい。私は彼女に恋をした。そして今も愛している。それでいい。

 月日は流れた。仕事は順調で家庭は円満で子どもは健やかに成長して、何の不足も無かった。
 子は成長し、大人は年老いる。離れて暮らす妻の母に死期が迫っていた。私たち三人は会いに行った。義母は病床で娘と孫に別れを告げ、娘婿である私と話がしたいと言った。私と義母は病室で二人きりになった。
 義母は元々目が悪い人ではあったが、病で殆ど視力を失っていた。見えぬ目で私を探した。
「あなたに言ってなかったけれど、これが最後だから。あの子の父親のことで・・・」
 妻からは、父親は死んだと聞いていた。
「私とあの人は、事情があって結婚出来なかったの。あの人は、私と生まれたばかりの娘を置いて海外へ行かされた。もし生きていれば会いに来るかも知れない。その時は会わせてあげて・・・」
 私にはある予感がした。義母は私に一枚の写真を託した。それが、別れとなった。
 いつからか分かっていた。ハンカチの香りがあんなにも慕わしかった訳を。調香師がハンカチの香りを再現出来た訳を。何故なら彼は知っていたから。かつて愛した人の香りを忘れてはいなかったから。

 私は幼い頃父母と別れて施設へ入り、ある夫婦に引き取られた。特別養子縁組を組んだ為、元の両親との縁は絶たれている。何処の誰とも知らない。
 かたや妻は義母の言った通り、乳飲み子の頃に父を失い母親と暮らしていた。もしもあの運命の日、何処かで義母がハンカチを一枚風に奪われたとしたら。私の感じた懐かしさは生き別れた母の香りだとしたら、私と妻は・・・これは物語だ。想像に過ぎない。
 こうも考える。私の為に調香された大海原の香り。あれは、若かりし日の父の香りではなかったか。妻と子を置いて海を渡った男の哀しい香りではなかったか。義母の残した写真の男はあの調香師に余りにも似ている。妻もまた、私に父の面影を重ねたのだろうか。私よりも先に、私の香りを愛したのだろうか。
 私はあの店を訪ねたが閉店していた。物語の真実を知る人は失われてしまった。

「あなた、お茶でもいかが」
 妻がドアをノックする。私はアルバムを閉じて部屋を出る。
 子は成長し手元を離れた。家には妻と私の二人きりだ。
 私は妻の横顔を見る。
「君はあまり白髪が出ないね」
「いやだ、染めてますよ」
「そうか」 
 体質だろうか、私の髪は紙のように白くなった。年齢より随分上に見られる。「そうそう。あの子から手紙が来ました。夏休みには帰るそうですよ」
「そうか。あれは、大学の成績はどうなのかな」
「まあまあだって、自分で言ってましたけどね」
 妻は微笑む。私も、つられて微笑んだ。
「あら。何がおかしいんですか」
「いや・・・」
 これで良かったと、私は幸せを噛み締めている。妻は何も知らない。
「どうだろう。君は・・・私と結婚して幸せだったかね」
 まあ、と妻は驚いた顔をした。
「何ですか急に・・・ええ、幸せですよ」
「本当に?」
「ええ」
「いい歳をして変なことを訊いたかな」
「変でも、ありませんけど」
 妻はくすぐったそうに笑う。私は椅子から腰を上げ、そっと妻を抱き寄せた。「あら、まあ。あなた」
 私はそのまま動かなかった。甘やかだった妻の香りは歳を経て少し変わった。私の愛する香りに。今の私が愛する今の妻の香りに。
 胸の中で妻が深呼吸をした。私の香りを嗅いでいるのが、分かった。


                        (了)

※book shorts掲載時より一部修正済み。

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