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「才能」(原作:志賀直哉『清兵衛と瓢箪』)


 人が才能を見出されないのは如何に不幸な事であるかと、漫画家志望の男は思うている。

「あぁ、またダメか」

 新人賞の発表された雑誌を見て、自作が佳作にも選ばれていないのを確認し、慣れたため息をつく。発表までに何の知らせもなかったのであるから、入選していないのは分かりきっているのに
(若しや郵便の不手際があって知らせが届かなかったのでは)
等と割のいい言い訳を捨てきれていなかった。その間違いを確認する為に雑誌を買ったようなものだ。
 そうして発表されている入選作を左見右見とみこうみでもして、己には何が欠けているかを熱心に研究すればまだしも、
(この審査員と俺とは合わないのダナ。まぁ別の賞に応募するか)
と不遜な態度でいるものだから、技量は一向に上達しなかった。そのまま四十を越しているのである。

「あなた、お茶。甘いものでも召し上がる?」

 妻君が声を掛ける。うんと頷いて茶菓子を受け取る。妻君には聞かずとも結果が分かっている。期待を押し隠して雑誌を買いに行った夫が、落胆を押し隠して雑誌を閉じる。その表情でもう分かってしまう。

「じゃあ、私そろそろ仕事に行きますから」

 妻君は冷蔵庫に夫の昼食を支度して出かけた。正規でない仕事を掛け持ちし、家事の一切を切り盛りし、時に不安定になる夫の精神と暮らしを支えてきた。鈍感な夫は妻の献身に気づいてもいなかった。彼の鋭敏さは己の自尊心を守る事しか知らない。夫婦に子どもが居なかったのは幸いなことで、この暮らしに育児という一大事業がのし掛かっていれば、とうに夫婦は破綻していたであろう。

 夫は妻の有難さとその価値を知らず、あまつさえ行きつけの一杯飲み屋でこんなことをのたまわった。

「いいか見てろヨォ!?漫画なんて一発当てたらデカいんだからな?売れたら豪邸を建ててしょぼい女房と離婚して、アイドルか女優と結婚してやる!」

 妻はこの台詞を飲み屋の女将から聞き、寂しく笑った。
 そして数日後、荷物をまとめて家を出た。

 数ヶ月が経った。男の漫画は相変わらず売れていなかった。暮らしを支える妻が居なくなったので時折日雇いの仕事をするようになったが、その僅かな給金を握りしめて飲み屋に通った。

「ハァン?女房か?何やってんだか知らねぇよ。籍ぃ?ああ、離婚した。あいつ当てつけに離婚届なんて書いて行きやがったからさ、記入してポーンと出してやった。あぁ独り身はいいねぇ、気軽でさぁ」
 女将が
「じゃあ連絡も取ってないの?」
と聞くと
「全然、ちっとも。未練もねぇよ」
 見栄ではなく本心から言っているようだった。元妻の献身を知っている女将は「そう・・」と言い、知っていることを黙った。元妻が今や売れっ子の漫画家になっていることを。

 元妻は夫が反故にした原稿を処分するうちに漫画の描き方を覚えた。
 そして売れない漫画家とそれを支える妻の生活をエッセイ漫画に仕立ててネットに上げ人気を博し、書籍化され、女性向け雑誌に連載まで持つようになっていた。元夫は少年漫画がジャンルなので気づかない。

 人が才能を見出されるのは誠に幸いなことである。

 元夫は、漫画のネタとしては一級品の価値があった。
 ただし、本人は一生それに気づくことはなかった。

 その後元妻は印税で豪邸を建て優しい夫を持ち、幸せに暮らしましたとさ。

                          (了)

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