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「愛の栞」(谷崎潤一郎「鍵」の二次創作:不倫)


 妻は夫の日記を読んでいた。夫は意地の悪い年寄りで、妻はいたいけな若妻であった。

 夫は実業家で富豪だが性格が難しく、長く独身を貫いていたが、70を越えて20代の妻を迎えた。金策に困った経営者の娘を支援と引き換えに貰い受けたのだから、年齢を越えて愛を育んだ訳ではなかった。
 若い妻を迎えても年寄りの偏屈は変わらず、妻は一度たりと夫の笑顔を見た事が無かった。もうそんな欲は無いと夜の要求をされることもなく、広大な屋敷には使用人が多く居て、妻は何一つ家事をせずに日々を過ごした。
(どうしてわざわざ妻を迎えたのかしら?)
 夫に訊ねると
「フン、誰でも良かったんだ。一度位結婚というものをしてみたかった」
とにべもない答えだった。
 夫は妻が世間と交際するのを嫌がり、買物も外出も自由に出来なかった。
 その鳥籠のような暮らしに、ある日変化が訪れる。
 
「今まで一人の秘書に仕事も家のことも任せておったが、手が回らんようなので分けることにした。コイツには屋敷内を任せる」
 夫が妻に新しい秘書を紹介した。
「海堂でございます。どうぞよろしくお願いします」
 妻は思わず頬を赤らめた。海堂は爽やかで好感の持てる青年だった。
 二人の心が近づくまで時間は掛からず、やがて心身ともに恋に落ちた。
 不義の恋というのは燃え上がるものである。
 忙しい夫の目を盗んで二人は逢瀬を重ねていた。

 ある日、屋敷の電話が鳴った。
「外出先で会長が倒れました。そのまま入院になります。感染症対策としてお見舞いなどは出来ませんから、奥様はご自宅に待機してください」
 連絡をしてきたのは夫の第一秘書で、電話は海堂が受けた。
「どのような状態で・・?意識はない。そうか・・・回復の見込みは・・?」
 電話を終えた海堂が妻に説明する。
「ご安心ください、命に別状はないそうです。戻られた時には少し体がご不自由になるかも知れませんが」
「そう・・・」
 妻は俯いた。
「悪いけど、死んでくれていたらと思ったわ。そうしたらあなたと一緒になれるから・・・私、悪い妻ね」
 俯いた瞳から涙が零れる。海堂は彼女の手を握った。
「逃げよう」
「え?」
「今しか無いよ。会長はまた戻って来る。聞いた話じゃ体は丈夫で、まだまだ長生きしそうなんだ。会長が死ぬのを待っていたらこっちが年寄りになってしまう。一緒に逃げよう」
「海堂さん・・・」
 二人は見つめ合った。
 
 二人は密かに駆け落ちの相談をした。
「他の使用人に見つかるといけないから別々に出よう。僕は用事があるといって夕方から外出する。君にこれを。会長の金庫の鍵だ。中にある現金を持って来てくれ」
「盗むの?」
「申し訳ないけど逃避行には一番必要だよ。僕も少しは持っているけど、遠くに逃げるにはお金が必要だ。夜遅く、使用人達が寝静まったらこっそり会長の書斎に入るんだ」
「私怖いわ・・・」
 青年は恋人をぎゅっと抱き締める。
「僕だって怖い。それに申し訳ないさ、雇い主を裏切るなんて。でも君を愛してるんだ。愛し過ぎてしまったんだ・・・」
 若く世間知らずな妻が、逞しい青年の胸に抱かれ甘い言葉を囁かれて、抗える筈もない。
 そして真夜中。
 妻が金庫を開けると、中には山のように現金が積まれ金塊まで煌めいていた。その頂上に、一冊の日記が置かれていたのである。
 日記の表紙にはこう書かれていた。
 
『愛する妻へ』
 
 妻は思わず手に取った。
(愛するだなんて・・そんなこと言われたこと無いわ)
 急がなければならない。
 しかし、妻は中身を見ずにはいられなかった。
 そしてほんの数分・・・数ページ読んだだけで、その目から熱い涙が流れたのだった。
 
<○月○日。今日、妻を迎えた。なんと可愛らしいのだろう。私は彼女に嫁いできてくれて嬉しい、有難うと言いたかった。しかし何しろ私は捻くれ者だ。そんな優しい言葉を口にすることは出来ない。だからせめて日記に綴ろう。私がいつか死んだ時には、彼女がこの金庫を開けるだろう。死んだ後にでも私の本当の気持ちを知ってもらいたい・・・>
 
(あの人が、こんな事を?)
 
 衝撃だった。結婚以来、夫は妻に微笑むことも優しく手を握ることもなかった。
 
<時には彼女の柔らかな髪や頬に触れたいとも思う。しかし、こんな年寄りの干涸びた手に触れられて、彼女が嬉しい筈は無い。彼女に申し訳ない。私にはすでに男性としての機能もないのだから・・・>
 
 妻は夫の日記を夢中で読み耽った。実は海堂を雇ったことすら夫から妻への配慮だった。夫としての機能の身代わりにしようとした。二人は秘密の恋と思っていたが、夫の思惑通りだったという訳だ。
 日記のどのページも妻への愛に溢れていた。胸には愛が溢れているのに、言葉や態度に表せない煩悶が一字一句綴られていた。
 それが何ページも何ページも・・・
 
 そのまま1時間は過ぎただろう。妻は頬の涙を拭い、スマートフォンを手に取った。震える指でメッセージを打つ。
 
《海堂さん。私、やっぱり行けません・・・・あの人を置いていくことは出来ないわ。ごめんなさい。本当にごめんなさい・・・》
 
 日記を金庫の中に置き、妻は寝室へ戻る。
 秘密の恋は終わった。
 今夜見る夢は若い恋人の面影だろうか。それとも、意固地で口下手で不器用な夫の姿だろうか・・・
 
 ピロン。
 メッセージの着信音が鳴る。画面を見た海堂の顔が歪んだ。
 そのスマートフォンを黙って差し出す。

「フォッフォッフォ、わしの勝ちじゃ」
 画面を見た老人が愉快そうに笑う。
 海堂の隣には元気ピンピンの会長の姿。
「全くもー、趣味の悪い遊びに付き合わせないでくださいよ、会長」
「ウケケケケ。若い娘を誑かすのは面白いのう」
 二人の隣に居た第一秘書も
「賭けは今回も会長の勝ちですな」
と笑う。
 海堂と名乗っていた青年だけが苦虫を噛み潰した顔で
「なんでですかねぇ。女性ってのは、抱かれながら耳元で囁かれる言葉より、鍵で隠されていた文字の方を信じるものなんですか?」
「哀れな年寄りが恋焦がれ、震える手で密かに愛の言葉を綴る。そのシチュエーションがたまらんのじゃろ。それに秘密は女の大好物じゃ」
「何を仰います。あの日記はわたくしの力作ではございませんか」
と第一秘書。
「ウケケケケ。お前に恋愛小説でも書かせてみようかのう」
 実は三人は妻と同じ屋敷内に居た。広大な邸宅にはひとつやふたつ隠し部屋があるものだ。
 三人は隠しカメラで撮影されている妻の姿を見る。ベッドでシクシクと泣き続ける妻はなかなか眠りに落ちそうにない。
 
「で、父さん。どうします?この女」
「そうじゃのお、不倫の証拠を突きつけて追い出すか、次の男をあてがって第二弾の実験をするか。酒でも飲んで考えるか。オイ、何か持って来い」
「ご用意してございます。折角ですので奥様の生まれ年に製造されたシャンパンに致しました」
「気が利くのぉ。そーれ、カンパーイ!」
 
 金持ちの娯楽は訳が分からないというお話。


 


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