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「傀儡師の家」(原作:芥川龍之介『地獄變』)

 芸術家だから仕方が無い。とは、あらゆる行為への免罪符なのでしょうか。私が責めると夫は言います。そして、お前もそういう俺が好きで一緒になったのだろう。とも言うのです。

 夫と私は美術大学で知り合いました。私は絵画、夫は彫刻を学ぶ無邪気な学生でした。夫は・・いえ、その頃は秀さんと呼んでいました。秀さんは人間嫌いで社交下手で、猫や梟や蛇といった動物ばかり彫っていました。その彼を変えたのは私との交際です。
 私は彼に様々な姿態を見せ、彼は全てを彫りました。人間を彫ることに目覚めたのです。彼が私という女を知って開眼したのは、不遜ではなく事実です。そのうち、彫り上げたポーズのまま動かせない彫刻ではなく人形を作り始めました。彼は人形の私にあらゆることをさせました。私自身には出来ないことも、私の人形には出来たのです。私の生まれ変わり、私の魂移しのような人形たちは注目を浴びるようになりました。彼は人形作家として一名を築いたのです。個展で作品が売れるようになった頃、私たちは籍を入れました。

 しかし悲しいことに、私の目鼻口手足胴体関節には数に限りがあります。彼の創作対象は他に移っていきました。他の人間、他の女に・・・そして彼は創作対象を愛さずにはいられませんでした。創作と愛情は同一でした。気に入れば親ほど年上の女性でも少女でも男性でも口説きました。金と名声のある夫の前で何人もの人間が人形になりました。夫の作品を見て眉を顰める人もおりましたが、熱狂的な愛好者も多く、財界の方から自分の愛人を作ってくれ、といった依頼もありました。破格の謝礼を受け取ったようです。

 普通の感覚であれば、創作は良いが対象を愛するのはやめてくれと説いたでしょう。しかし、なまじ美術の欠片を齧った私には出来ませんでした。彼の、対象への愛の激しさ。対象を全角度から捕まえる熱と狂気の視線。対象の線と面と弾力を無機質の人形に彫り移そうとする藻掻きと足掻き。それらを知る私が夫を止めることは出来ませんでした。夫の気に入りそうなモデルを探してきて推薦さえもしたのです。モデルが夫の眼鏡に叶った時の喜びと悲しみは、他の誰にも分かる筈もありません。私はモデルとしては吸い尽くされた抜け殻でしたが、有能な秘書でした。「妻」で「秘書」。あるいは順番が逆でも、それが私の立場でした。私たちはそういう夫婦でした。

 有名な作家だから裕福な暮らしだろうとは、内情を知らぬ者の言うことです。一体が何十万何百万もする人形が毎日売れる訳ではありません。夫は嵌まり込むと制作に何ヶ月も掛けます。人形の衣装には売値以上の費用を掛けます。それを賄うのは私の仕事です。私が世事に東奔西走する間、夫はモデルと睦み合いながら人形を彫り続けます。妊娠したモデルを病院へ連れて行ったことも二度三度ではありません。それでも私は夫を愛していました。夫の作品を愛していました。

「部屋を用意しろ。この娘を暫く置く」
 夫が突然ひとりの少女を連れて来ました。街角で声を掛けたのかしら、それとも誰かから紹介されたのかしら。そう思って夫の陰に隠れていた少女をふと覗き・・・愕然としたのです。
「俺の個展を見にきていたんだ」
 ああ、夫は気付いていないのでしょうか。少女は私の若い頃に瓜二つだったのです。思わず私は傍にある鏡を見ました。しかし鏡には、似ても似つかぬ老婆の顔があるばかり・・・長年の苦労が私を年齢以上に老け込ませていたのです。夫は愛おしそうに少女を見ます。少女は尊敬の目で夫を見ます。まるで嘗ての私たちのように。
 住み込みのモデルという形で彼女は一緒に暮らし始めました。とは言っても彼女はお客様扱いです。上げ膳据え膳、面倒を見るのは当然私です。彼女を飾る為の衣装を揃え、彼女の下着を洗い、彼女と夫の睦言が聞こえる闇の中で独り寝の夜を過ごしました。ちやほやされると女は傲慢になるものです。彼女は私を召使いのように扱いだしました。それでも・・唯一点の想いが私を支えていました。嘗ての私を夫が愛し、嘗ての私が作品となって甦ること。夫は作品が完成してしまえば、魂が戻ったかのようにモデルへの興味を失うのが通例です。それまでの辛抱なのです。ところが、いつまで経っても人形の出来る気配がありませんでした。

「あなた。今度は随分と手間を掛けていらっしゃるんですね」
 ふむ、とか何か夫は呟いたようです。
 実際、彼女には今までのどのモデルよりも経費が掛かっているのです。毛皮を着せたい、宝石で飾りたい。夫が要求する度に私は魔法のようにそれらを用意せねばなりませんでした。
「少しは出来ていらっしゃるの?見てもいいかしら」
 私は嫉妬に悶えながら楽しみにもしていました。彼女の人形の完成は、嘗ての私が甦ることですから。
 彼は余人には制作過程を見せることはありませんが、私には見せてくれます。しかし、その時彼は初めて見る顔をしました。惨めな、縋るような、憐れみを乞うような。私の知る才能に溢れた天才の顔ではありませんでした。
「どうしたの、これは・・・」
 アトリエに入った私が見たものは。
 破られたデッサン。散乱した木片。床や壁に突き刺さった鑿。彼女の姿はありませんでした。
「出来ないんだ。どうしても彫れない・・・」
 彼は私の背後で嬰児のように蹲っています。
「彫れない。彼女を、表せない。俺には出来ない・・・」
「どうして?今までそんな事なかったじゃない!」
 夫は駄々をこねます。
「彼女を愛し過ぎてしまったんだ。愛するので精一杯なんだ。助けてくれ。俺には彫れない・・・」
 夫の背中を見下ろしながらの、私の絶望とは。
(だって。私は彫ったじゃない・・・)
 夫を宥め賺せてようやく落ち着かせた所へ、彼女が外出から戻りました。そして晴れがましい声で報告したのです。
「先生。奥様。私妊娠したみたいなんです」

 三人で話し合いがもたれました。彼女は妻の座を要求はせず、子どもの認知と養育費、つまり生活が保障されれば良いとのことでした。夫は敷地内にもう一棟建てて彼女を住まわせたいと言いました。彼が静かな環境を望んだので、郊外に建てられたアトリエ兼住居の周囲には広さが十分にありました。隣の家まで車で何キロも走らねばならぬ程です。
「ここでは学校の心配がありますけど、そうなったら町中に引っ越すとか・・」「車で行ける範囲なら送り迎えをすればいいさ」
 無論運転手は私でしょう。
「でも、この辺りじゃお友達も出来ないわ」
「そうか。じゃあこの家を処分してやはり引っ越すか」
 その手配も私でしょう。
 日差しが注ぐ明るいリビングで、一番柔らかいソファに彼女を座らせて見守る夫。何て幸せそうな姿。
「二人とも気が早いわね。まずは安定期まで体を大事にすることよ」
 私はにっこりと笑います。
「私には子どもが出来なかったから分からないけど、妊娠って体が辛いんでしょう?欲しいものは遠慮なく言ってね」
 夫は人形制作のことなど忘れ去ったようでした。

「先生の新作はまだ出来ませんか」
 付き合いの長い美術商からの問い合わせです。今までこういった催促はしない相手でした。話を聞くと、夫が前借りをしているというのです。問い質すと、彼女へ注ぎ込む為に借りたと言いました。
「何とかしておいてくれ」
「分かりました」
 夫は育児本を読んでいます。
「あなた。彼女の出産が済むまで他のモデルを探しましょうか」
「いや、いいんだ。聞いてくれ。彼女のお腹が膨らんできたらそれを彫る。そして産んでからの彼女や赤ん坊を彫る。それで俺の新境地が拓けると思うんだ。俺は今からそれを楽しみにしている」
「ああ、そうでしたの・・」
 郊外の静けさが、寂しさのように沁みました。

 ダン、ダン、ダン。
「な、何の音だ」
 冬の夜、夫が朦朧と目を覚ましました。
「さ、寒いな。外か?」
 ギシッと軋む音。
「起きました?」
「おい、これは何だ!」
 夫は椅子に座らされ、両手は背もたれの後ろに、両足は椅子の足に縛り付けられています。暴れるとベリッと音がしました。座面に強力な接着剤を塗りましたから。
 目の前の車には彼女を閉じ込めてあります。音は、彼女が窓ガラスを叩く音です。郊外ですから誰にも聞こえません。
「何やってんだ!何のつもりだ!」
「私は秘書ですよ。あなたの創作意欲を掻き立てるのも私の務めです。あなたが見たことのない物を見せてあげます」
 彼女が暴れていますが扉も窓も開きません。油の匂いが鼻を突きます。
「やめろぉーーーー!」
 私はゆっくりと車に火をかけました。

 夫は暫く喚き散らしていました。私を罵り怒鳴りつけました。車は燃え続け、車内に充満した煙で彼女は気を失い、体が燃え始めてまた意識が戻りました。服が、髪が、皮膚が・・・夫が愛した全てが燃え、車越しでも彼女の悲鳴が響き、夫は声を失って呆然とその姿を見続けました。彼女の声が途絶え、炭に変わるまで・・・
 私たち夫婦は黙ったまま、パチパチと火が爆ぜる音を聞いていました。私が夫を見ると、夫も私を見ていました。爛々と目を輝かせていました。

「おまえ・・これを俺に彫らせようとしたのか・・・?」
 私は黙っています。
「冗談じゃない。俺は彫らない。焼き殺される女なんて、そんなくだらないもの・・・」
 夫は笑いました。腹の底からの哄笑でした。
「は、は、は、あははははは・・・俺は、俺は見た!火に照らされるお前の顔を!夜叉のような観音のようなお前の顔を!お前のあんな、人間のあんな顔は見たことが無い!目の前で愛人を焼き殺す女!彫りたい!今こそお前を彫りたい!あの顔だ、俺が生涯掛けて彫るのはあの顔だ!俺が作家生命を賭けるのはあの顔だ!この縄を解け!お前に感謝する!お前を愛しているぞ!」
 私は陶然としました。あぁ、これが私の知る夫。私の秀さんが帰ってきた・・「あなた」
 私は斧を振り上げました。
「私も愛してるわ」

「この度はとんだことで・・・」
 例の美術商が訪ねて来ました。手土産の菓子を差し出そうとして戸惑います。「あ、これは失礼。先生はもう、お食事は」
「ええ。舌を噛み切ってしまいまして。でもいただきますわ」
 仕事の話がしたいというのでアトリエに案内しました。
「先生がもう制作不能ということになり、今までの作品が高騰しております。特に初期の、奥様のお若い頃の人形など」
「複雑ですわね」
「最後の作品の、デッサンなどももし残っていれば・・・」
 今回の訪問はそれも目当てだったのでしょう。
「生憎デッサンも試作も燃やしてしまったようです。まさか愛人が夫と心中を図るだなんて。私が傍に居れば・・」
 モデルの愛人と人形作家の心中未遂として、一時期マスコミに騒がれました。私がそのように工作しました。
「少し会ってやってください。喜びますわ」
 美術商は怯えと興味半分で夫に会いました。両手首を失い下半身は不随となり、舌を失って会話も出来なくなった夫と。しかし眼だけは常にぎらぎらと燃えているのです。
「こんな体になっても、まだ制作意欲があるんです。文字を目線で追って意思を伝えるんですけど、口に鑿を咥えさせろっていうんです」
「凄まじいものですな、芸術家とは・・・」
 美術商は感に堪えないといった声を出しました。
「でも、させませんわ。そんな無理なこと」
 私に労わる言葉を掛けて、美術商は帰って行きました。

 庭の芝生が、車が燃えた所だけ色が変わっています。
 夫のベッドはその庭が見下ろせる二階に設えました。
 夫は欲情に燃えています。私のあの顔を、愛人を焼き殺す炎に照らされた夜叉の顔を彫りたくて堪らないのです。でも指一本自由に動かせず、焦燥で内臓が燃える程なのです。それは私には分かります。私だけが知っています。
 もし彼が嘗ての私の姿をもう一度彫ってくれていたら、私の想いは違ったのでしょうか。夫が望むように鑿を咥えさせたら、私の顔を彫り上げるのでしょうか。それとも私を殺すでしょうか。
 私は夫を見下ろします。私の望むままの姿になった夫。私への憎しみと愛で溢れ、私が居ないと生きていけない夫。
 私は夫を完成させました。夫は私の愛。そして作品です。


                         (了)


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