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「第一の夜」(夏目漱石「夢十夜(第一夜)」の二次創作)

 男は無心に穴を掘っていた。その頃はまだ、悲しみという言葉は無かった。熱いものが胸から鼻へこみ上げてきて塩辛いものが目から溢れてくる。その頃はまだ、涙という言葉は無かった。
 男が愛した女が死んだ。愛という言葉もまだ無い頃に。男は女を思い出す。哀惜や追慕といった言葉も無い頃に。
 その頃は空を遮るものも土を塞ぐものも無かった。人は獣の皮を着て、草を葺いた屋根の下で暮らしていた。一人で猟に出るようになった頃、男は女に会った。
 女は木の実を集めていた。男が獲物を分けてやると女は木の実を寄越した。割りの合わない取引だったが男は嬉しかった。女がとても嬉しそうに笑ったので。男は生まれて初めて、誰かの笑顔を見て胸を温めた。
 男は女と会うようになった。共に暮らすようになった。男が獲物を持って帰ると女は喜んだ。持って帰らなくても喜んだ。男が無事に帰ったから。二人は幸せだった。幸せ、という言葉も無い頃に。
 二人は純粋に交合した。遊びの無い純粋な交合からは純粋な赤子が生まれた。沢山産まれて沢山死んで幾人かは生き残った。その子孫が今日の我々である。
 男は女を愛した。女は他の男も愛した。貞操や不義といった概念は無かった。嫉妬というものが女には分からなかったし、男にも分からなかった。男は女を殺し、第一の殺人が起きた。

 男は貝殻で土を掘る。腕輪にしてやれば喜ぶだろうかと、女の笑顔を夢見た貝殻で墓を掘る。女は二度と微笑まない。何故あんなに強く突き飛ばしてしまったのか。のし掛かって体を押し付けてしまったのか。衝動という言葉は無かった。
 男の目から何かが零れ、細い声で喉が焼ける。この世で初めての嗚咽は余りに切なかった。愛していたのなら何故憎んでしまったのか。殺してしまったのか。男が女に会わなければ悲劇は起こらなかったのだろうか。この世で初めての謎が生まれた。男は女の死を誰にも言わなかった。独占欲が、或いは犯罪の隠避が生まれた。
 男は女を埋め、呆然と星を見上げた。百日の朝を迎え、百日の夜が過ぎた。他の人間も世界も男には見えなかった。この世に初めての孤独が生まれた。男はまた貝を手にした。
 男は穴を掘り続けた。今度は女を見つける為に。掘り起こして抱き寄せれば生き還ってくれるのではないかと。女は見つからなかった。男はこの世で初めての狂人となった。
 掘り続けた広大な穴に涙が溢れて海が生まれ、男は舟を浮かべた。貝の櫂で涙を波立てて男は彷徨い続けた。頭上で幾百もの星が流れた。
 男は孤独から解放されたかった。女と愛し合った日々を忘れたかった。鋭く尖った貝殻で喉を突いた。この世で初めての自死となった。遺骸は海の底へ涙の底へ沈んだ。

 この男はあらゆる感情の源祖である。罪の原因となった女は第一の女であり、感情を生んだのは第一の男であった。
 愛に飢えた男の子孫たる我々。遠き父の遺伝子の粒を受け継ぐ我等は言語の一覧表の第一にその言葉を冠した。

 幼な子は健やかに唱和する。
 畏れを知らぬ無垢な声で。
 愛という言葉を。


                          (了)

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