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「サヴァイヴ」(柳田國男『妖怪談義』より「ひだる神のこと」の二次創作)

 深夜。
 男が冷蔵庫を漁っている。室内灯も点けず、庫内の照明を頼りに片っ端から食料を貪り、飲み、バターやマヨネーズまでたいらげ、なおも物足りなさそうに空になった冷蔵庫を探る。そしてため息をついた。
「足りない・・・」
 男は飢えていた。
 腹は満ちている。喉も潤っている。それなのに脳は足りない、足りない、と呪文のように信号を発し続ける。
「何なんだよこれ・・・」
 あまりの飢えに男は悲しくなった。兆候はその日の昼に遡る。

「佐藤先輩、今日はよく食べますねぇ」
 昼休み、社員食堂で隣に座った後輩が目を丸くした。
「そうか?」
 呼ばれた男が顔を上げると、自分の前に空になった食器が山となっている。目を丸くしているのは後輩だけではない。食器を頼りに食べたものを数えてみる。
「ええと、肉うどん、チキンソテーのAランチ、チャーハンに焼き魚の定食・・」
 夢中で食べていて気づかなかった。あれもこれもと食べ終えた端から注文を続け、気づけば腹は太鼓のように膨らんでいる。
「え、まじか」
「あんまり食べ過ぎると消化に悪いですよ〜」
 後輩は笑いながら席を立った。佐藤も流石に人目が気になり箸を置こうとしたが、まだ器にほうれん草のお浸しが残っている。
(勿体無いからこれを食べてから・・・)
 しかし野菜を食べると肉が食べたくなり、また次の注文をしようとした所で食堂のおばちゃんから
「あんたいいのかい?昼休み終わっちまうよ」
と制止された。佐藤は自分で自分に呆れながら事務所に戻った。
(何なんだろう)
 食欲が無ければ体調不良だろうが、あり過ぎるのも病気だろうか。
 だが、これは始まりに過ぎなかった。
 午後1時10分。腹が減った。1時20分。喉が渇いた。
(いや、そんな筈はない)
 腹は四食分を蓄えたまま、少しもへこんでない。
 原因不明の飢餓感に苛まれ、午後の仕事は散々だった。電話は聞き間違える、入力はミスする、打ち合わせの時間は忘れる。流石に上司に叱責されたが、話の内容はさっぱり入ってこない。頭の中は、何かを摂取しなければならないという強迫観念に占拠されていた。

 佐藤は退社後居酒屋で飲食し、スーパーで買い出しをして、帰宅後買った食料を収納する間も無くたいらげ、なお満たされず深夜に冷蔵庫を空にした。
「絶対異常だよな・・・」
 顔を上げた佐藤はスマートフォンを手にした。<空腹><病気><治療>等と関係がありそうな語句を入力し検索する。心療内科を勧めるような記事も出てきたが、ある記事が目に留まった。
「ひだる神・・・?」
 それは民俗学者の著書によるもので、山道を歩いている旅人が強烈な飢餓感に襲われ、歩けなくなってしまうというものだった。佐藤はその記事を読み耽った。
「違うな」
 ひだる神に取り憑かれた者は僅かでも食べ物を口にすれば治る。食料を持ち歩くか、代わりに木の葉を囓ってその場を凌げば良いとも書いてあった。しかし自分は、食べても食べても飢餓感が癒されない。佐藤はスマートフォンを置き、代わりに財布を手に取った。
「コンビニでも行くか」
 明日になっても同じ状態なら病院に行こう。だが今この瞬間、何よりも必要なのは食料だ。幾ら食べても癒される気がしないが、この餓え渇いた精神状態では一睡も出来ない。
 佐藤は過積載の腹を支えながらアパートを出た。

「らっしゃいませー」
 会社帰りによく寄る近所のコンビニ。深夜勤の若い店員も顔馴染みだが、余計な口を利いたことはない。佐藤は籠の中に無造作に食料を放り込む。せめて口の中が飽きないように、甘い物と辛い物を適当に混ぜた。レジに持っていくと店員に
「ポイントカードはお持ちですか?」
と訊かれ、これも無造作にカウンターに置く。手に取った店員の動きが止まった。次の瞬間
「お客様、こちら当店ではご利用頂けませんが・・・」
 カウンターに返されたのは、
《肉球キュンキュン 猫ちゃんカフェ モフモフしてにゃん》
「えっうわっスミマセン!」
 随分前に元カノと行った猫カフェのポイントカード!何で?
「ま、間違えましたっ。ちょっと待って下さい。こっちか!」
《ナナでぇす 御指名お願い》
 接待で行った店のキレイなおねぇさんの名刺!
「わぁぁ!?」 
 ぶフーっと店員が笑い出した。
「あ、あの、スミマセン、ついっ。し、失礼しましたぁっハハハハハ」
「は、はは・・・こっちこそスミマセン・・・・」
 は、恥ずい・・・夜中にスエットで大量に買い出しに来て、無様だな俺・・あっ、後ろからも笑い声が。しかも若い女の子の声。更に恥ずい。振り返りたくない・・・あれ?
 しどろもどろになりながら会計を済ませ、コンビニを出た佐藤は異変に気づいた。
(腹が、減ってない・・・)
 心は晴れ晴れ、脳もスッキリ。満腹感を思い出した腹はズッシリ。体内に高原の風が吹き渡ったような爽快感。腹以外は。
(どういうことだ?)
 疑念が解消されないまま眠りに就いた。一つの仮定が浮かんだのは翌日だった。

「やだもう、佐藤さんってば〜」
 一晩寝て腹もこなれ、身も心も軽くなって出勤した佐藤は出社一番、派遣社員の女性を掴まえてジョークを飛ばした。不意を突かれた相手はぷっと吹き出し破顔一笑。
 その時、朝食を抜いた筈の腹がふわっと膨らんだ。
(?)
 そして昼、後輩を誘って食堂に行く途中、雑談が弾んで相手を大笑いさせた。その時も
(??)
「あ、悪い。俺ちょっと・・・」
 佐藤は、後輩を置いて食堂前で引き返した。空腹感が失せていた。
(どういう事だ)
 結局、朝も昼も食べていない。それなのに体は快調、仕事も絶好調だ。
 とどめは退社後、例のコンビニに寄った際。流石に何か食べないとなと思いながら店に入った瞬間、例のポイントカードの店員と目が合った。
「アハッ」
 店員が笑った。
(あれっ)
 店員はスミマセンといった感じで頭を下げたが、別に腹も立たない。というか、腹は満ちた。
 食べ物を買う気は失せたがすぐ店を出るのも妙だ。適当な雑貨を買って帰った。そして帰宅後一日の行動を振り返る。
 派遣さん、後輩、コンビニの店員。三人を笑わせると同時に得た満腹感。前日の夜の一件を加味して結論はひとつ。
(俺は、人を笑わせると満腹になるらしい)
「これってラッキー・・なのか?」
 佐藤はひとり、首を傾げる。

 ラッキーでは無かった。
 始めは、これで一生食費が掛からないと浮かれた。仮に一日の食費が千円としても、一ヶ月で3万円の節約。一年、いや一生に換算してそれだけの金額が他の事に回せると思うとラッキーだ。ところがさにあらず。逆に笑いが取れない時の飢餓感たるや半端ない。
 金さえ払えば食料が手に入る気軽さに比べ、人から笑いを取る方がどれだけ難しいか。
 大体佐藤は芸人でもない。腹が減ったと思ってネタを振ってもスベることも多い。そんな時、代わりにおにぎりを頬張ってもパック入りの栄養ゼリーを飲み干しても、ちっとも足しにならない。
 佐藤は飢えた。飢えまくった。胃袋が膨張するまで食べても精神が満たされない。壊れた満腹中枢が足りない足りないと叫び続け、身体中が干上がり力が抜ける。
「だるい、だるいよぅ・・・」
 佐藤はお笑いの動画で勉強しネタ帳を作った。部屋で鏡を見てコミカルな動きを練習した。そして、やっと一食。
 一日三食を得るには、最低三人を笑わせなければならない。朝、昼、晩。
「うっそだろ・・」
 ネタも人脈も無限ではない。会社の人間も学生時代からの知人も、始めは楽しんでくれたが次第に鬼気迫る様子の佐藤を敬遠するようになった。金は払う、だから笑ってくれと頼んだが、それで飢えは満たされなかった。一体どうすれば・・・

「・・で、佐藤氏は精神的に追い詰められて異常行動に走った訳です」
 弁護人は重々しく言った。裁判長は眉間に皺を寄せて訊ねる。
「飢えを満たす為に、国会議事堂の正面玄関で全裸で盆踊りを始め、下品な言葉を連呼したということですか?」
 弁護人は重々しくそうです、と頷く。裁判長の眉間の皺が深くなる。
 そこへ事務官が入廷し、裁判長にメモを渡した。
「事実かね」
「世界保健機構が・・」
 小声のやりとりに緊張感が走る。裁判長が慌てて叫んだ。
「休廷、休廷にします!被告人を隔離!」

 人を笑わせないと餓死する奇病は日本中に蔓延し、三ヶ月後には人口の七割が罹患。患者は残り三割の笑いを奪い合う事態になった。
 交差点の雑踏は笑いを奪い合うステージ。通行人は観客兼、食料兼、治療薬と化した。しかし一時の笑いを得ても状況を糊塗するに過ぎない。
「こっちこっち!俺、俺のネタ見て!」
「お母さん、笑ってよ・・・」
「おいお前、俺の客盗るんじゃねぇ!」
 上空を自衛隊のヘリが旋回して状況を確認している。
「首都はもう駄目だ。報告しよう。おい、無線」
「了解。上官、報告・・・の前に、お笑いを一席」
「オイお前!待てやめろ、操縦桿はマイクじゃない、ウワァぁぁぁ!」

 五ヶ月後。日本壊滅。

 七ヶ月後。アジアとアメリカ壊滅。

 九ヶ月後。ヨーロッパ、オーストラリア、アフリカ大陸壊滅。

 更に月日は過ぎ・・・

「懐かしいなぁ、地球」
「あぁ。通信がずっと途切れていたからな」
「まぁこのシャトルは地上からの誘導が無くても着陸できるから良かったよ」
 遥か上空から地球を眺めるのは、宇宙ステーションから帰還する乗組員達。懐かしの故郷を眺める乗組員を他所に、地上の画像を分析していた一人が声を上げた。
「おい、この画像を見てくれ」
 真っ白な大地に描かれた巨大なSOS。他の乗組員が画面を覗き込む。
「何処だ?南極か・・」

 帰還したシャトルの乗組員達が目にしたのは死屍累々の世界だった。何が起きたかを把握しようにも記録が無い。人々は笑いを得るのに必死で、そんな暇はなかったのだ。元乗組員達は生き残った人類を求め、救難信号を描いていた南極の基地へと向かった。
「この位置情報だと日本の基地だ。誰か居てくれるといいが」
 基地へ近づく元乗組員達を、建物の中から血走った二つの目が凝視していた。
「来たっ・・!遂に、遂に人が来た。さぁ入って来い、来て、俺を見ろ!」
 建物の中には他の隊員の死体が転がっている。待ち構えているのは基地の最後の一人だった。
 そして、一時間後。最後の一人は冷たい骸となって横たわり、駆けつけた元乗組員達が沈痛な面持ちで見下ろしている。
「なんてことだ。突然心臓発作を起こすなんて」
「気の毒に。手厚く葬ってやらないと」
「そうだな。し、しかし・・ぷふっ」
「笑ったらダメよ、不謹慎ね」
「す、すまん。ずっと我慢してたんだ」
「実は俺も・・ふふっ、いや、日本式の歓迎の踊りなんだと思うと、笑ったら失礼だと思ったもので」
「伝統衣装も着てるし、きっとそうなんだろう。変わってるんだな、日本式の歓迎ってのは」
 彼らの足元には、着物を着て裾をたくし上げ、手拭いで頰被りをして大きなザルを持ち、鼻の穴に五円玉を貼り付けた隊員の姿が・・・

 悲しいかな。最後の力を振り絞った渾身のドジョウすくいはお笑いと見なされず、隊員は死亡。
 幸い南極の極寒と乾燥とで感染力の弱まったウイルスは元乗組員達を侵すことなく、人類は滅亡を免れたのだった。

                          (了)

 
                                  

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