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余命について。


別に医者から余命を宣告されたとかそういう話じゃない。私は会社の昼休み、本屋に立ち寄ってぶらぶらする習慣がある。目につくのが、『余命○年』とタイトルがついた小説やエッセイ本。余命一か月、半年、1年、3年、5年などなど。バリエーション豊かだ。なかには『余命10年』という小説もある。正直、余命にしては微妙に長い気もして、話の展開が間延びしないだろうかなどと心配になる。


余命が宣告された状況に興味を持つ人が多いからこそ、こういうタイトルで人を誘うのだろう。実は宣告されなくても、我々には余命があるが、それがはっきりしないだけ、悠長に本屋をブラブラする余裕がある。私の余命はよくもってあと50年ぐらいだろうか。隣で週刊新潮読んでるおっさんは、なんとなく早死にしそうだから12年くらいだな、などと不謹慎に考えられる。


ただ、こうも想像する。もし私が、「あなたの余命はあと3年です」とはっきり言われたとしたら、意外とショックは少ないかもしれないと。ああ、3年ですか。そうですか。はぁ。そんな感じであまり深刻に想像できない気がする。余命が限られていることを意図的に捉えないのではなく、そもそもうまく捉えられないのではないだろうか。


余命を宣告されてどう受け取るかは、もちろん人によって感覚は違うだろう。自分の人生を、ある目標を段階的にクリアしつつ、その果報を受け取るように仕上げたい人にとっては、余命宣告は暴力そのものだろうと想像する。文字通り死の宣告であり、呪いになりうる。それ以降の葛藤、生き様、生き甲斐といったものは、凄絶なものになるだろう。


一方、余命宣告自体を「祝福」と受け取る人もいるだろう。そもそも、長く生きようと思っていない人。十分苦労をしてきて、これ以上生きることに意義を持たない人など。余命を受け入れ、静かに過ごして、静かに召される。私は、どちらかといえばこういう人たちの余命の過ごし方に惹かれる。


結局、誰しも、余命が「新たな生き方」を引き出すことに期待をしたいのだろうか。「ドラマの起点」としてだ。多くの人は、「もし余命なんて宣告されたら私の人生は終わる」と考えていて、そこから逆転する術があれば是非みてみたい。そんな欲求があるのかもしれない。でも、個人的には、余命で多少短くなろうが、人生はひたすら人生であるに違いないと思う。


余命以前から人生を楽しんでいれば、多少短くなるが、楽しい人生が続くかもしれない。もちろんその逆もしかり。もし余命以前の人生を楽しんでいなければ、その後の人生も楽しくないかもしれないし、楽しくなるかもしれない。そもそも、余命なんて宣告されたところで、ふーん、と思うぐらいで、淡々と生活する人も案外多いのかもしれない。


余命が宣告されても、別に特権が与えられたわけではない。時間があろうがなかろうが、結局、自分に与えるか与えないかにかかってくる。もちろん、周りから与えられるものに救われることも含めて。そんなことを適当に思い、余命50年くらいかもしれない私は会社に戻った。


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