年森瑛『N/A』

「かけがえのない他者」についての小説だときいて手に取った。
本文が掲載された『文學界』の表紙には、“どこにも属さない「まどか」の告白”と書いてある。
ここまでの情報でぴんときた、気になったひとは、もし読んだことがなかったら読んでほしい。まっさらな状態で読んでほしいから、あんまり中身について話さないつもりだけど、ほんとうにまっさらで読みたかったらここでUターンしてほしい。
さっき一気に読んだばかりで、わたし自身と接続する場所がたくさんあってめちゃくちゃ感動してるから、その話をする。熱がこもっていてわかりにくくなりそうだけどとりあえず書く。

どこにも属さない、というのは「少数派の枠にも収まらない」という意味もあるし、まどかが“その場にふさわしい言葉”をなぞるように使うことへの意識や自覚を持っている、ということでもあると感じた。

誰かが言っていたような、その場にふさわしいから言うような、”こうであるべき姿”でいるために選んだような、決まりきった言葉。
わたしが日頃、だれかとの会話や、会話している時の自分に対して感じる違和や不快はそれだった、とわかった。わたしは、そんな“気遣い”でぱんぱんになったわたしの口や他者の口を次第に信頼しなくなった。そういう状況におかれると、漠然と、心と体が離れているように感じていた。
そういうとき、「当たり障りなく」がベースで「傷つけないだろうか?」に従って言葉を選ぶ。悪い空気はつくりたくない。だから、自分の頭の辞書にないときや、相手がすでにびりびりに破れているときはどうにも、「違う」言葉しか見つからない。タッチパネルをスライドするみたいに、これは?違う。じゃあこれ!違う。が会話におけるわたしの“言葉選び”で、そのうえできるだけ沈黙をうみたくないから、慌ててなにかしらを声にする。
もし何事もなければ、それっぽい、その場っぽい言葉を発するのはたやすい。だからこそ有事の際に「ふさわしい言葉が見つからなくて」、焦る。
その当たり障りない言葉は、自分が生んだものじゃなくて、どこかから借りてくる。体はそれを、自分の声として発する。心はそこになくても、体はお調子者で、つい”その場っぽい”言動をするのだ。
だから、実際に、心と体が離れ離れになっている。
人と関わると、そうするしかないときやそうしたほうがいいときもあるし、「傷つけないだろうか?」と考えること自体は大事だけど、わたしはやりすぎていた。

そこにいても喋っていても、心と体がぴったり重なって見えるようなひとに憧れる。
わたしも、できるだけ心と体がひとつになった状態で相手と対峙したい。「心を開く」とは、心が体に向かって開かれてひとつになる、ということかもしれない。
もしそうなれないのだとしたら、それは相手との相性が悪いのではなくて(そういうのも少なからずあるだろうけど)、わたしの、そして相手の、個人的な、在り方の問題だと思う。
心と体がひとつになったひと同士が向き合えば、きっと誰かからの借り物じゃない、自ら生んだ言葉を交わしあうことができて、そこにわたし自身、あなた自身、でいられる場所が、関係が、できあがるのではないだろうか。

思えば、テキストでのコミュニケーションや日頃目にする文章でどことなく信頼できないと感じるものも、そういう、”その場のため”の当たり障りない言葉かもしれない。「大丈夫だよ」という語りかけの無責任さ。そういう感覚が、最近はつんつん、心に触ってくる感じがする。

わたしは書くときも、“それっぽい言葉”に巻き込まれやすい。文章において「ものまねがうまい」ような自覚がある。気をぬくとテンプレやどこかで見た言葉を書きそうになる。
大学生の頃、卒論のゼミで、指導教員に「キャッチーなだけの言葉を使うな」というようなことを言われた。一緒だと思う。
だから、書くことにきっと向いてない。でも好きだから、できるだけ自分の言葉を使って生きたいから、書くことを続けている。書くことは、会話に比べるとその場に惑わされず心に近づくことができて、わたし自身の言葉を生みやすいから、心地良い。

とにかく、”その場”や”枠組み”から離れ、ただわたしとして存在したいわたしにとって、とてもしっくりくる物語だった。
たとえば昔から、いくら自認している性別と同じでも、“わたし”ではなくその性別の者、として扱われることが苦手だった。
人との関係においても、女としてのわたしではなくて、わたし自身を見てほしかった。相手も性別を被ることなく、あなたのままでわたしと対峙してほしかった。だから「かけがえのない他者」がいたら、と思っても、たぶん、相手だけじゃなくわたしにとっても難しい。

「かけがえのない他者」についての作品、ときいて読んで、想像とはすこし違ったけど、きっとわたしにぴったりだ、という予想自体は当たっていた。ずっと前からぼんやりと頭の中に散らばっていたことが言葉になって引き出しにしまわれるような感覚があった。
それっぽい言葉を安易に使う自分への不快感、ラベルのほうではなくわたし自身を見てほしいと感じること、わたしであるわたしをどうか放っておいてほしい、とも思うこと。それらがわたしの中にしっかり座っていることを再確認した作品だった。迷ったら何度でも読みに来よう、と思った。

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