『アートとフェミニズムは誰のもの?』 2024.5.3

『アートとフェミニズムは誰のもの?』(村上由鶴著、光文社新書)を読みました。
第1章でアートの読み方、第2章でフェミニズムについて、が順に解説されたあと、第3章ではフェミニズムを使ってアートの問題点を読み解き、第4章ではフェミニズムの発信をしているアートが多数紹介されています。

第3章では主にルネサンス以降の有名画家・絵画が取り上げられていました。男性中心の社会において、女性は「自分たち(男性)以外のもの」=「よそ者」として扱われ、絵画のなかで男性(描き手)の欲望の対象として、また「よそ者」として描かれている、という視点で絵画を読んでいます。この本を手に取ったのはこの章がきっかけでした。私が興味を抱いている、20世紀前半の芸術・表現の読み解きに繋がる、と感じたからです。その点ももちろん参考になりましたが、全体を通して、今現在のアートとフェミニズムの問題についても捉えることができ、以下に引用した点が特に印象に残りました。最近、アート・フェミニズム界隈で炎上した表現に関する話題からの一節です。

(略)この知識(※アートとフェミニズムの知識)もまたある種の特権です。この知識はフェミニズム的な教育や情報にアクセスできる立場にある、おそらく大卒以上の、アートに触れられるような環境や教養、機会を手にすることができる限られた人だけのもの、つまり、「みんなのものではないもの」です。
 わたしはこのような知識を持たない人を「わかってないなあ」と軽視し、「わからないなら黙ってろ」と排除することが実際に起こっていて、断絶を作り出しているように思えてならないのです。

『アートとフェミニズムは誰のもの?』p239 /()内は私が追加しています 。


私も、教育を受けたことがあり、この本にアクセスできる、という特権を持っています。そして勉強中の身ではありますが、日頃、「ジェンダーに関する見方が偏っている」と感じる表現に度々出会います。これまで、その表現自体に対する疑問だけでなく、その表現をなんとも思っていないような人に対して「どうして?」と感じてしまうこともありました。しかし、おそらく、偏った見方を持つ人がいる、という状況を適切に把握することが先、なのですね。まだ「みんなのもの」ではないからです。また、日常生活においても、20代半ばの私よりもふた回りもそれ以上も年上の方と接すると特に、ジェンダー観が偏ってるな、と感じることが度々あります。しかし、彼ら・彼女らもこれまで周囲からその見方を押し付けられてきたり、社会がそういうものだったりして、そう生きるしかなかったのでしょう。「わかってない」と拒絶をするのではなく、その現状を把握した上で、より良い未来を考えていく必要があると感じました。
アートやフェミニズムに限らず、何かについて学んだり、何かにアクセスできる特権を持っていたりすると、 “「みんなのもの」ではない”、という視点が欠けてしまうことがあると思います。特に学問や文化は、それがたとえ真実を語っているとか正しいとか良いとかでも、かなり狭いところでやっているものが多い、と常々感じます。だから、“中の人”目線だけで語ったり判断したり、“外”に対して意見を持ったりすることは、時に暴力的でさえあるのかもしれません。“中の人”が断絶を作り出してしまうことで、その学問や文化が本来持つ「良さ」が失われる可能性もあるのだと気づかされました。“中”にいると、“外の人”の存在を認識すらできないことも多いかもしれません。

本来はきっと、みんなのためにあるアートや、みんなの対等のためにあるフェミニズムが、いつか本当に「みんなのもの」になったらいいな、と願っています。巻末に参考文献もたくさん載っていましたし、これからしっかりと学んでいきたい分野です。

それにしても。引用した文から伝わるかと思いますが、村上さんの文は本当にわかりやすいです。以前村上さんのお話を伺う機会があり、「難しい言葉を使わずに難しいことを書く」ようにしていると伺いましたが、まさに、ですね。素敵。

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