思うこと

たとえ素晴らしい作品であっても、だれかの苦しみを伴って生まれたものを「良い」と受け取って良いのでしょうか。
作り手が望んで努力するさいの苦しみではありません。作り手の中にある、外から植え付けられた観念に起因する苦しみは含まれます。
ここでの「苦しみ」とは、人格を否定される言葉、だれかを追い詰めるような言葉、トラウマを植え付ける出来事、不当な扱いなどのことです。“良いものをつくるため”の“犠牲”を払って完成したそれは果たして“良いもの”と言えるでしょうか。

舞台をよく観るほうだと思います。けれど最近上記のことが気になっています。ひとつの団体・ジャンルだけではなく、各所をごちゃ混ぜにした話です。芸術だけでなく世の中のどこにでもあることかと思いますが。
「舞台芸術、エンタメの世界ではそういうことは日常茶飯事だし、良い作品を生むためならしょうがない」という発想が、まだまだ作り手にも観客にもあると思います。なんなら“それを乗り越えてこそ”と捉える人もいます。傑出した何か、良いと思われるもの、をつくるには血の滲むような努力がいります。「並」の域は超えているはずです。しかしその名目で、だれかの尊厳を傷つけて良いのでしょうか。

1人でつくるなら何を課してでも理想を追求したら良いけれど。チームなら、一緒に作品をつくる相手を尊重して、意見の伝え方を考えて、クオリティの向上を目指すこともできるのではないでしょうか。当人たちにその気さえあれば。もちろん最近はハラスメントに関する宣言を出して、気を配っている団体もたくさんあります。

観客であるファンまで「そういう世界だから」「そういうものだから」と言ってしまっては終わりだと思うけれど、それがファンなのかもしれません。かつてわたしもそうでした。ファンは自分の好きなものを肯定したくなります。一説には嫌なところがあっても嫌いになれないのが「好き」という感情らしいけれど(恋愛の話?)、自分が傷ついたならともかく、作り手が傷つけられたとわかっても「だめだと思うけど、しょうがないなぁ」で済ませてコンテンツを享受して良いのでしょうか。好きだから許すのではなくて、好きだから許してはいけないことのような気がします。
自分が見たいものや、自分が推しや推しの世界に投影する理想の裏に、生身の人間がいることを軽視してはいないでしょうか。

しばらく前から頭の中に居座っている話題です。かなり許せない出来事があってから特に考えるようになりました。所詮一観客だから観なきゃ良いのに、好きだからすっぱり離れられなくて、ぐるぐるしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?